第四話「菖蒲沢」改善版
菖蒲沢へ向かう車内は、静かだった。
エンジン音。
タイヤが道を拾う音。
時折、どこか遠くで鳴る水音。
雨は降っていない。
それなのに、音だけがついてくる。
ぴちゃ。
ぴちゃ。
まるで、見えない水が車の下を流れているみたいだった。
運転席には一樹。
助手席には三樹。
後部座席には二葉、五樹、四葉、六樹。
いつもの並びだ。
ただ、いつもより誰も軽くない。
三樹の右手には、まだ薄く黒い跡が残っている。
二葉が応急処置をしたが、完全には消えていない。
二葉は時々、その手を見ていた。
三樹が気づいて、少しだけ手を握る。
「見るな」
「見るよ」
「大丈夫だ」
「三樹の“大丈夫”も信用度低い」
五樹が横から言った。
三樹が振り返る。
「お前に言われたくない」
「俺の“大丈夫”はまだ信用あるでしょ」
六樹が即答する。
「低い」
「六樹、最近俺に厳しくない?」
「最近じゃない」
四葉が窓の外を見たまま言う。
「通常運転」
五樹は胸を押さえた。
「森口家、味方がいない」
二葉が小さく笑った。
その笑いに、五樹がすぐ気づく。
「二葉、少し顔色戻った」
「そう?」
「うん。さっきよりは」
「五樹は、そういうところだけよく見てるよね」
「だけじゃないけど」
「はいはい」
「流した」
三樹が前を見たまま言う。
「構われてるだけありがたいと思え」
五樹が三樹を見る。
「二葉に手を見てもらった三樹には言われたくない」
「怪我だろ」
「俺だって心が怪我してる」
四葉が冷たく言う。
「自損」
六樹が続ける。
「治療対象外」
「森口家、ほんと俺に厳しい」
一樹がハンドルを切りながら言った。
「厳しくされる理由を日頃から積み上げてるからだ」
「一樹まで」
「事実だ」
それでも、車内の空気は少しだけ戻った。
重く沈みすぎない。
怖さに飲まれない。
森口家はいつもそうだった。
怪異の現場へ向かう時ほど、どうでもいい言葉を交わす。
くだらないやり取りで、自分たちがまだ日常の側にいることを確かめる。
六樹が膝の上でiPadを開いた。
画面には、滝坂周辺の地図が表示されている。
現在の道路。
古い道。
下宿、中宿、上宿のライン。
菖蒲沢。
そして、その南にある団子石。
六樹は画面を拡大しない。
ただ、地図全体を見ていた。
「おかしい」
一樹が聞く。
「何が」
「反応の出方」
六樹は指で地図上の点をなぞった。
「濡れた足跡、水音、帰還者の報告。全部、ばらばらに見えるけど、位置を重ねると線になる」
四葉が身を乗り出す。
「線?」
「下宿、中宿、上宿、団子石、菖蒲沢」
六樹は地図上の点を、順に指で結んだ。
「一直線に近い。自然に広がってるんじゃない。古い流れに沿って反応が出てる」
五樹が画面を覗き込む。
「水の通り道ってこと?」
「たぶん。でも、自然の水筋だけじゃない」
六樹は、さらに古い水路図を重ねた。
「楯無堰の線も噛んでる」
五樹が顔を上げた。
「楯無堰?」
四葉が答える。
「江戸時代に造られた堰と水路。徳島堰、朝穂堰と並ぶ、甲斐の三堰のひとつ」
三樹が短く言う。
「水路か」
「ただの水路じゃない」
六樹は淡々と続けた。
「塩川から水を取って、丘陵地を横断して、竜地まで通した。距離は約十七キロ。高低差は三十六メートル」
三樹が眉を寄せる。
「それ、流れるのか」
「流れるように造った」
四葉が言った。
「だから高度な技術が必要だった。あのあたりは河川が深い谷を流れていて、水を取り込みにくい。田畑に水を通すには、人が水の道を作るしかなかった」
五樹が画面を覗き込む。
「十七キロを、三十六メートルの差で?」
「うん」
六樹は頷く。
「水は低い方へ流れる。でも、低ければ何でもいいわけじゃない。わずかな勾配を読み違えれば、届かない」
車内が、一瞬静かになった。
二葉が窓の外を見る。
「届かなかった水も、あったんだよね」
一樹が静かに頷く。
「竜地は末端だ。楯無堰が完成しても、そこまで水が届かないことが度々あったと聞いている」
六樹が続ける。
「だから後に、大きな溜池が造られた。竜地の大溜井」
五樹の声が低くなる。
「……溜まった水」
四葉が地図を見る。
「今起きてる黒と同じ言葉ね」
六樹は頷いた。
「流れ損ねたもの。届かなかったもの。溜められたもの」
二葉が小さく呟く。
「水が欲しかった土地に、水を通した。でも、届かない場所もあった」
三樹が前を見たまま言う。
「それが今、出てきてるってことか」
四葉はすぐには答えなかった。
窓の外、乾いた側溝の底を見ている。
「分からない。でも、今回の反応は、自然の水筋だけでは説明できない。伝承の水と、人が作った水路が重なってる」
一樹が静かに言った。
「富士山と八ヶ岳の背比べ」
車内の空気が、また少し沈んだ。
昔、富士山と八ヶ岳が背を比べた。
八ヶ岳の方が高かった。
怒った富士山が、八ヶ岳を打ち砕いた。
人はそれを昔話のように語る。
けれど、森口家では違う。
砕かれたのは、山だけではなかった。
水の道。
龍の通り道。
土地の底にあった流れ。
それが歪んだ。
そこへ、後の世の人間が水路を掘った。
水を求めて。
田を作るために。
生きるために。
自然の記憶と、人の願いが、同じ土地に重なっている。
五樹がスマホを見る。
「投稿、まだ増えてる。場所は菖蒲沢周辺。内容は水音、濡れた足跡、あと……」
「あと?」
二葉が聞く。
五樹の声が少し低くなる。
「“石の上に、濡れた人影が立ってた”」
沈黙。
三樹が前を向く。
「人か」
六樹が答える。
「断定しない方がいい」
五樹がスマホを伏せた。
「この流れだと、だいたい人じゃないやつ」
四葉が低く言った。
「現場で確認する」
一樹が頷く。
「全員、単独行動は禁止。菖蒲沢では確認だけだ。原因に触れるな」
三樹が少しだけ眉を動かす。
「触れなきゃ助からない場合は」
「その時は指示する」
「遅いと間に合わない」
一樹は前を見たまま言った。
「三樹」
短い声。
それだけで、三樹は黙った。
一樹は続ける。
「お前が一番早いのは分かってる。だから、勝手に行かれると一番困る」
三樹は数秒だけ黙った。
「……分かった」
五樹が小さく言う。
「今日の“分かった”、五回目?」
六樹が即答する。
「五回目」
「数えてた」
「記録した」
三樹が六樹を見る。
「記録するな」
「重要」
二葉が三樹の手元を見る。
「三樹、今度は本当に守って」
三樹は一瞬、二葉を見た。
「……分かった」
五樹がすぐに言う。
「六回目」
「五樹」
二葉が呼ぶ。
五樹は黙った。
三樹が少しだけ笑う。
「二葉には素直」
「三樹もでしょ」
五樹が返す。
「今、分かったって言ったし」
「うるさい」
車が、細い道へ入った。
古い家並みが途切れ、草の匂いが強くなる。
道路の脇には、細い水路跡のような窪みがあった。
水はない。
けれど、音がする。
ぴちゃ。
ぴちゃ。
二葉が顔を上げた。
「近い」
六樹が地図を見る。
「菖蒲沢まで、あと二百メートル」
四葉が窓の外を見た。
「地面が濡れてないのに、音だけある」
五樹が言う。
「嫌な現場あるあるが増えてきた」
一樹が車を停めた。
そこは、住宅街の端だった。
家並みが途切れた先に、広い土地が開けている。
けれど、そこに沢らしい景色はなかった。
一面に並んでいるのは、黒いソーラーパネルだった。
低く傾いたパネルが、同じ角度で整然と並び、曇った空を鈍く映している。
その光景は、どこか水面に似ていた。
風がないせいで、余計にそう見える。
揺れない黒い水面。
土地の上に敷き詰められた、人工の水面。
五樹が眉を上げた。
「……菖蒲沢って、沢じゃないの?」
六樹が地図を見たまま答える。
「今は違う。住宅がある場所を除けば、このあたりはソーラーパネルが多い」
四葉が周囲を見回す。
「名前だけが残ってる場所ね」
二葉が小さく言った。
「でも、音はする」
誰も答えなかった。
沢は見えない。
水も見えない。
けれど、ソーラーパネルの下から。
ぴちゃ。
水の音がした。
六人が車を降りる。
風がない。
パネルの列は、同じ角度で黙って空を映している。
鳥の声もない。
ただ、黒い板の下から、水音だけが聞こえていた。
ぴちゃ。
ぴちゃ。
三樹が一歩前へ出る。
四葉が即座に言った。
「三樹、足元」
三樹は止まる。
「見てる」
「見てから動いて」
「見てる」
「信用度が低い」
五樹が小さく笑う。
「三樹、今日めちゃくちゃ信用ないね」
三樹は五樹を見た。
「お前もだろ」
「俺は二葉には信用されてる」
二葉が言う。
「内容による」
「二葉?」
「全部は信用してない」
五樹は静かに胸を押さえた。
「今のは効いた」
六樹が淡々と言う。
「自業自得」
「六樹、ほんと今日辛口」
「現場では事実確認が重要」
「俺の心のケアは?」
「対象外」
四葉が沢筋を見ていた。
「ふざけてる場合じゃない」
その声で、全員の視線が前へ向く。
パネルの列の奥。
フェンスの向こうに、大きな石があった。
周囲は整地され、土は固められている。
けれど、その石だけは動かされなかったように、そこに残っていた。
濡れている。
周りの地面は乾いているのに、その石だけが濡れていた。
石の上には、水が薄く張っている。
まるで、そこだけ水面になっているように。
二葉が小さく言う。
「音、あそこから」
三樹が目を細める。
「人影は?」
五樹がスマホを確認する。
「投稿の位置なら、このあたり」
六樹は石を見ていた。
ただ見ているのではない。
濡れ方。
水の張り方。
周囲との温度差。
音の間隔。
水がどこから来て、どこへ戻ろうとしているか。
「水が湧いてるんじゃない」
六樹が言った。
四葉が頷く。
「映ってる?」
「たぶん」
五樹が眉を寄せる。
「何が」
二葉が石を見たまま答えた。
「向こう側」
その瞬間。
石の上の水面が、揺れた。
風はない。
何も落ちていない。
それなのに、水面が揺れた。
そして、そこに影が映った。
人影。
立っている。
こちらに背を向けている。
濡れた服。
落ちた肩。
俯いた首。
三樹が低く言う。
「佐伯か?」
六樹が首を振る。
「違う。輪郭が合わない」
四葉が目を細める。
「別の人」
五樹がスマホを握る。
「投稿、これか」
二葉が一歩下がった。
五樹がすぐ横へ寄る。
「二葉」
「うん」
「無理なら言え」
「……まだ大丈夫」
五樹は二葉を見た。
「“まだ”ね」
二葉は答えなかった。
水面の中の人影が、ゆっくり振り返った。
顔は見えない。
髪が濡れて張りついている。
目のあるはずの場所が、黒い。
そして、その口が動いた。
声は聞こえない。
代わりに、沢の奥から水音が大きくなる。
ざあ。
ざあ。
ざあ。
三樹が前へ出ようとする。
一樹が言った。
「止まれ」
三樹は止まった。
ぎりぎりで。
四葉が水面を見たまま言う。
「近づいたら、こっちに出る」
六樹が頷く。
「石が境界になってる。今はまだ映ってるだけ」
五樹が低く言う。
「映ってるだけで十分嫌なんだけど」
二葉が水面を見た。
「声がある」
三樹が反応する。
「助けられるのか」
二葉は首を振った。
「分からない。でも、佐伯さんの時とは違う。もっと遠い」
六樹が言う。
「奥に流されてる。ここは通過点」
四葉が続ける。
「菖蒲沢は原因じゃない。流れの途中で、こちら側に滲んでる場所」
一樹が問う。
「次は」
六樹は水面ではなく、音の出方を見ていた。
実際の水はない。
けれど、音だけが流れている。
その音は、菖蒲沢で止まっていない。
下宿、中宿、上宿、団子石、菖蒲沢。
ばらばらに出ていた反応は、一本の線上に並んでいる。
自然の水筋だけではない。
人が通した水の道。
届かなかった水の記憶。
竜地へ向かおうとして、何度も詰まった流れ。
それらが、今、同じ場所を指していた。
六樹は地図を見ずに言った。
「団子石」
五樹がスマホを開く。
「次はそこ?」
四葉が答える。
「菖蒲沢は通過点。中心は、団子石」
二葉の顔が強張る。
その反応を五樹は見逃さない。
「二葉、団子石って何」
二葉は少しだけ黙った。
「祖父が言ってた。あそこは、石じゃないって」
三樹が眉を寄せる。
「石じゃない?」
一樹が静かに言う。
「砕かれたものの記憶だ」
水面の人影が、また口を動かした。
今度は、かすかに声が聞こえた。
——かえ、して。
全員が止まった。
五樹が低く言う。
「何を」
水面が、黒く濁る。
人影の輪郭が崩れた。
二葉が息を呑む。
「来る」
水面から、黒い手が伸びた。
速い。
三樹が前へ出る。
「っ!」
腕を振り払うのではなく、身体で軌道を逸らす。
黒い手は三樹の横を抜け、乾いた地面に触れた。
触れた場所が、じわりと濡れる。
黒い染みが広がる。
「触るな!」
四葉が叫ぶ。
「分かってる!」
「三樹、右!」
五樹の声。
三樹が即座に半歩引く。
次の黒い手が、空を切った。
一樹が前へ出る。
「天照御垣」
光の線が走る。
石の周囲を囲むように、結界が展開した。
黒い手の動きが止まる。
二葉が息を吸う。
「咲耶浄花」
淡い光が、石の水面に落ちた。
水面が揺れる。
黒が薄くなる。
しかし、消えない。
二葉の眉が寄る。
「抜けない」
四葉が即座に言う。
「ここで浄化しても無理。流れの途中だから、また奥から来る」
六樹が水面を見る。
「核はここにない」
三樹が聞く。
「じゃあどこだ」
六樹は水の揺れを見ていた。
水面の中心ではない。
黒い手でもない。
人影でもない。
揺れた後、すべての波が戻ろうとする先。
「団子石」
一言。
「全部、そこへ戻ってる」
五樹が小さく言う。
「やっぱり団子石か」
一樹が結界を維持したまま判断する。
「ここでは止めない。封じて通る」
三樹が顔を上げる。
「助けないのか」
一樹は三樹を見る。
「ここで手を出せば、全員引かれる」
三樹は歯を食いしばる。
「声がした」
「分かってる」
「なら」
「助けるために、元を止める」
一樹の声は静かだった。
けれど、揺れなかった。
「三樹。ここで助けようとして全員落ちたら、誰も戻せない」
三樹は拳を握った。
二葉が言う。
「三樹」
三樹は二葉を見る。
二葉の顔は青い。
けれど、まっすぐ三樹を見ていた。
「声は、まだ切れてない」
「……本当か」
「うん。だから、今は元へ行こう」
三樹は数秒黙った。
「分かった」
五樹が口を開きかけた。
六樹が先に言う。
「七回目」
五樹が六樹を見る。
「俺の役目取らないで?」
「早い者勝ち」
「六樹がそういうこと言うの珍しいな」
四葉が言う。
「緊張を抜くためでしょ」
六樹は否定しなかった。
一樹が結界を石の周囲に固定する。
「長くは持たない」
四葉が頷く。
「移動優先」
五樹がスマホを見る。
「団子石までは南。車で回ればすぐ。徒歩だと時間かかる」
六樹がApple Watchを見る。
SNOOPYが小さく動いている。
「車で四分。徒歩十二分。車推奨」
三樹が短く言う。
「車」
二葉が小さく笑った。
「そこは即答なんだ」
「早い方がいい」
「あと、手も見たい」
三樹は顔をそらす。
「またか」
「また」
五樹が横から言う。
「二葉、俺も手見せようか」
「五樹は怪我してないでしょ」
「心が」
「後でね」
「後でって言った」
「処置するとは言ってない」
四葉が冷たく補足した。
五樹は胸を押さえる。
「森口家、言葉の罠が多い」
一樹が短く言う。
「撤収する」
その時、水面の人影が、最後にもう一度口を動かした。
——かえして。
今度は、はっきり聞こえた。
二葉が振り返る。
「……何を返してほしいの」
水面が黒く濁る。
答えはない。
ただ、水音だけが残る。
ぴちゃ。
ぴちゃ。
ぴちゃ。
その音は、菖蒲沢で終わっていなかった。
団子石へ。
森口家の六人は、車へ戻る。
菖蒲沢の石の上で、水面だけが静かに揺れていた。
誰もいないはずの水面に、砕けた山の影と、届かなかった水の記憶を映しながら。
6つ子の個性をもっと引き出したかったとの、関係に厚みを持たせたかったので修正しました




