第三十九話「道を思い出させる」(前編)
前回まで:
勘助、樹玄、四糸乃は、黒そのものではなく古い水の道を探した。
途切れた水筋を四糸乃が記録した瞬間、忘れられていた流れが少しだけ反応する。
信玄は「黒を抱く前に、流す」と告げる。
水を無理に開くのではなく、水に道を思い出させるための一手が始まる。
「水に道を思い出させる」
信玄がそう言った時、天幕の中にいた者たちは、すぐには誰も返事をしなかった。
外では風が吹いている。
今井の高みに置かれた陣の旗が揺れ、遠くの山から湿った空気が降りてくる。
昨日までの雨は上がったというのに、土の匂いはまだ濃かった。
勘助は地図の上に置いた枝を見ていた。
古い水筋。
途切れた線。
四糸乃が写した欠けた記録。
樹玄が聞いた、迷っている水の音。
それらが、今、ひとつの場所を指している。
「御屋形様」
勘助が低く言った。
「道を思い出させる、と言われましても、水路を掘るには人手が要ります。兵を動かすなら、理由が必要です」
「理由ならある」
信玄は地図から目を離さない。
「水が止まれば、土地は黒を抱く」
樹玄が少し顔をしかめた。
「それを、そのまま理由にするのか」
「しない」
信玄はあっさり言った。
「兵には、山の水はけを確かめると言う。村人には、古い流れを見たいと言う」
「嘘ではないな」
「嘘をつく必要はない。ただ、全部を言う必要もない」
勘助は小さく息を吐いた。
「便利な言い方ですな」
「国を治めるには、便利な言い方も要る」
樹玄は面倒そうに眉を寄せた。
「俺はそういうの、苦手だ」
「知っている」
信玄が即答したので、四糸乃がほんの少しだけ視線を伏せた。
笑ったのかもしれない。
けれど、すぐに筆を持ち直す。
彼女の前には、昨日の記録が広げられていた。
水筋の途切れた場所。
地下に残る湿り。
水が道を忘れている、という樹玄の言葉。
そして、記録することが名を呼ぶことに近いのかもしれない、という一文。
「四糸乃」
信玄が呼ぶ。
「はい」
「昨日の記録を、もう一度読め」
「ここで、ですか」
「ここでだ」
四糸乃は少しだけ驚いたように目を上げたが、すぐに頷いた。
「承知しました」
紙を両手で整え、四糸乃は静かに読み始めた。
「水筋の途切れた場所。祠より下、谷へ向かう古い窪み。表土は乾き、下は重く湿る。山本勘助様の見立てでは、古い流れが土砂で塞がれ、水は別へ逃げたものの、地下に痕が残っている」
声は大きくない。
けれど、不思議と天幕の中によく通った。
「森口樹玄様は、水が鈍い、と聞いた。流れているのに、流れていない。水はそこで迷い、道を忘れているように聞こえる」
樹玄は黙って聞いていた。
自分の言葉を他人の声で聞くのは、妙な感じがする。
しかも四糸乃の声に乗ると、ただの呟きだったはずの言葉が、何か形を持つように聞こえた。
「欠けた記録と、途切れた水筋は似ている。文字が欠けても痕が残れば、そこに何かがあったと分かる。水筋も、同じなのかもしれない」
四糸乃の筆先が、紙の端に触れる。
読む声に合わせるように、彼女は小さく印を書き加えた。
その瞬間。
樹玄の耳の奥で、ぽつり、と音がした。
昨日と同じ音だ。
だが、今度は少し違う。
ぽつり。
ぽつり。
それは天幕の中ではなく、もっと下。
陣の置かれた高みの足元から、山裾の方へ向かって、細く伝ってくるような音だった。
「……また動いた」
樹玄が呟く。
勘助がすぐに顔を上げた。
「どこだ」
「昨日の場所だけじゃない」
樹玄は目を閉じる。
水の音を追う。
山の奥。
古い崩れ。
祠。
途切れた水筋。
そして、その下。
村へ向かうはずだった細い道。
「もう少し下にも、痕がある」
「下?」
勘助は地図を引き寄せた。
「どのあたりだ」
樹玄は目を閉じたまま、指を伸ばす。
地図の上で、昨日見つけた途切れた場所から、さらに下へ。
谷をなぞり、古い道を越え、畑の端に近い場所で指を止めた。
「ここ」
勘助の目が細くなる。
「村の上手か」
「そこにも、水が引っかかってる」
「引っかかる?」
「うん。石か、根か、古い何か」
樹玄は眉を寄せた。
「水が、そこで向きを変えられている」
信玄は黙って地図を見ていた。
「勘助」
「は」
「行けるか」
「行けます。ただし、村人に話を聞く必要があります。畑の端なら、今も誰かが使っている場所でしょう」
「聞け」
信玄は迷わず言った。
「地は、地だけでは読めぬのだろう」
勘助は一瞬だけ目を伏せた。
それは、かつて自分が言った言葉だった。
「……御意」
「四糸乃も行け」
「はい」
「樹玄」
「分かってる」
樹玄は面倒そうに答えた。
「黒は聞かない。水の音だけ聞く」
「そうだ」
信玄は地図に手を置いた。
「水が忘れた道を、人が無理にこじ開けるのではない」
その目は、遠くの山ではなく、地図の細い線を見ていた。
「思い出せる場所を、探す」
三人が陣を出る頃には、空は少し明るくなっていた。
今回のまとめ:
・信玄は「水に道を思い出させる」という方針を示す
・四糸乃が前回の記録を読み上げたことで、樹玄は別の水音に気づく
・三人は、途切れた水筋のさらに下にある痕を探しに行くことになる
作者ノート:
今回は前編として、第三十八話で見つかった「途切れた水筋」から、次の場所へ視点を移す回です。
水はただ掘れば流れるものではなく、土地の形、人の暮らし、記録、口伝とつながっています。
信玄はそれを無理に動かすのではなく、「思い出せる場所」を探す方向へ進みます。
第三十八話で四糸乃が記録したことにより、水が少し反応しました。
今回はその反応が、次の水筋へつながっていきます。
キーワード:
水に道を思い出させる/記録/水音/古い水筋/武田信玄/山本勘助/森口樹玄/四糸乃




