『ついにレディアナが“嫉妬”という未定義感情に気づく回』
数日後。
王立学園・音楽堂前。
アルベルトがリリエルの髪に落ちた花びらをそっと払う。
自然な仕草。
距離も近い。
笑顔も柔らかい。
周囲の空気が、ほんの少し甘い。
それを少し離れた場所から見ていたのは――
レディアナ。
(接触時間、約1.8秒。社会的問題はなし)
(表情、穏やか。政治的意図は薄い)
(周囲の視線、好意的)
分析はいつも通り、正確だった。
だが。
胸の奥に、わずかな違和感。
(……何?)
息が少しだけ浅い。
視界が、ほんのわずかに狭い。
扇を持つ手が、微かに強くなる。
(不快?)
(怒り? いいえ、怒りの定義は“理不尽に対する反発”)
(理不尽は存在しない)
アルベルトが笑う。
リリエルも笑う。
その光景を見た瞬間。
胸が、きゅ、と締まった。
思考が止まる。
(これは――)
一瞬、分析不能。
未知の感覚。
レディアナはその場を離れ、人気のない廊下へ。
壁に背を預ける。
(心拍数、上昇)
(呼吸、乱れ気味)
(視覚情報に対する情動反応、過剰)
ノートを取り出す。
震えるペンで書く。
「症状:胸部圧迫感、焦燥、対象限定」
対象。
――アルベルトとリリエル。
そこで、記憶がよぎる。
温室での言葉。
“殿下が優しくしてくださるほど、レディアナ様が傷つくんじゃないかって”
(……傷つく?)
さらに脳内検索。
類似概念。
独占欲。
喪失不安。
比較による劣等。
そして、ある単語に行き当たる。
「嫉妬」
ペンが止まる。
(嫉妬)
辞書的定義:
“他者が自分より優位にある、あるいは大切な存在を奪われるかもしれないと感じる際に生じる感情”
沈黙。
(……大切?)
再定義。
(殿下は、婚約者)
(政治的関係)
(合理的利益)
(……)
否定しようとして、できない。
胸の奥が、また締まる。
さきほどの光景が、繰り返し再生される。
(わたくしは)
(あの距離を)
(不快と感じた)
初めて、自分の感情を認める。
「……嫉妬」
声に出してみる。
響きが妙に現実的だった。
同時に、恐怖。
(これは最適化できない)
(制御不能)
(理屈で整理できない)
足音。
振り返ると、アルベルト。
「レディアナ?」
彼は少し心配そうだ。
「顔色が……」
レディアナは思わず一歩引く。
(対象接近により症状増幅)
確定。
これは――嫉妬。
アルベルトが言う。
「何かあったのか?」
普段なら、分析して答える。
だが今は違う。
胸が熱い。
声が震える。
言葉が選べない。
「……殿下は」
「うん?」
一瞬、逃げようとする思考。
だが、逃げられない。
これは未定義。
だが、存在する。
「殿下は、楽しそうでしたわね」
声が少し硬い。
アルベルト、戸惑う。
「……ああ?」
「とても」
沈黙。
レディアナは自分でも驚く。
分析ではなく、感想が出た。
「それが……」
言葉が詰まる。
胸が痛む。
「……少しだけ、不快でしたわ」
静寂。
アルベルトの目が大きくなる。
「それは……怒っているのか?」
「いいえ」
即答。
だが、続きが出る。
「……嫉妬ですわ」
言ってしまった。
空気が凍る。
自分で言って、自分で理解する。
そうだ。
怒りではない。
断罪でもない。
理屈でもない。
ただ。
奪われたくない、という感情。
アルベルトは、ゆっくり息を吸った。
「……そうか」
それだけだった。
責めない。
笑わない。
分析しない。
ただ、受け止める。
その反応に、さらに胸が揺れる。
(受容……?)
レディアナは視線を逸らす。
「熟考の結果ですわ」
強がり。
だが、頬が少し熱い。
アルベルトは少し迷ってから言う。
「それは……少し、嬉しい」
「なぜですの」
「君が、感情で話してくれたからだ」
静かに、確かに。
レディアナの思考が追いつかない。
嫉妬。
受容。
嬉しい。
全部、未定義。
だが、逃げない。
初めて、逃げなかった。
沈黙の中、
物語がほんのわずか、前に進んだ。
爆発も断罪もない。
水もかからない。
それでも。
確かに、何かが起きた。
レディアナは小さく呟く。
「……未整理ですわ」
だが今度は、逃避ではなかった。
それは――
初めて自分の感情を認めた、悪役令嬢の第一歩だった。




