幕間<サラの発熱 その1>
タンポポの綿毛にフウッと息を吹きかけながら、サラはルアンのことを待っていた。寝転んだ草原の上には太陽が照っていて、穏やかな風がサラの赤みがかった髪を揺らしている。
このタンポポの種はどこまで飛ぶのだろう。なんとなくそんなことを思いながら、またサラはフウッと綿毛に息を吹きかける。
上体を少し起こすと、水辺の方には馬とルアンの小さな後ろ姿が見えた。馬は美味しそうに鼻を鳴らして水を飲み、ルアンは気持ちよさそうに頭から水を浴びている。
旅の道中、風通しの良い幌の中で揺られていたサラとは違って、ルアンは日差しの下で手綱をずっと持って荷馬車を操っていた。汗をかいたので水浴びをしたいというルアンの気持ちはサラにも十分わかるし、サラ自身にしてもこんな良い天気の下で水浴びをしてみたいとも感じている。
「私も水浴びしたいのに」
下着一枚になって水を浴びるルアンを遠くに見ながら、またサラはフウッとタンポポの綿毛を飛ばす。
「いいなあ、男の人は……」
ルアンと旅を始めて十日以上が経つけれど、その間何度も同じ事をサラは思っていた。自由に旅をするルアンと一緒に過ごすと、ルアンのことが羨ましくて仕方がなくなっていたのだ。サラにだって自由と危険は隣り合わせだということくらいは分かっている。今のサラはルアンに守られているだけで、自分一人ではこんなに遠くまでなんて危なくて来られやしないことも理解している。それでもなお、サラはルアンのことが羨ましいのだった。
「はあ……」
大きなため息をついたサラは水辺のルアンから目を逸らし、再び草原に寝転がった。痛むお腹に手を当てて少し顔をしかめる。
「いいなあ、男の人は……」
鳶色の目を閉じて再びそう呟くサラは、小さく息を吐き出した。
サラは昨日から生理になっていた。それは当然ルアンにも知られていて、そしてサラが申し訳ないと思うほどに気をつかってくれている。今朝だってルアンは「後ろで寝てたら?」と、荷台に即席のベッドを作ってくれたのだった。
サラにとっての生理といえばここ三ヶ月は、それが来る度にホッとしていたものだった。妓女の生業をしていればいつかは望まぬ子を身ごもるかもしれない、そんな不安から毎月一瞬でも解放されたのが月経が来た日だったのだ。
自分が生まれるまえに父親は死んだと聞かされ、母ひとり子ひとりの母子家庭で育ったサラは、異性と同じ屋根の下で暮らしたことはなかった。妓館に売り飛ばされてもそれは一緒で、一人の男性と同じ空間で過ごしたとしても一夜のこと、それも粗野で乱暴な男の一面を見る時間でしかなかった。だからサラはルアンと出会うまで男の優しさに触れたこともなかったし、守ってくれる存在だと感じたこともなかった。
ルアンと初めて出会った日からずっと、ルアンは避妊をしてくれていた。別にサラからそうして欲しいと言った訳ではないけれど、それはサラが身ごもらないようにと、ルアンが気をつかってくれているのだと思っていたのだった――、けれど。
「ルアン様にとって、私は……」
ズンと痛むような自分のお腹を触りながら、サラの心はなぜか落ち込みそうになる。
なぜ避妊してくれるのかを、サラはルアンに直接聞いた訳ではない。サラの身体のことをルアンが思ってくれているのだと、ただ自分でそう判断しているだけだった。けれどもしもそうではなくて、ルアンの子をサラが身ごもったら困るし迷惑だ、と、そんなことを思って彼が避妊をしているのだとしたら……。
「はあ……」
サラはそんなふうに考える自分が嫌になり、ため息をついてゴロリと寝返りをうった。今日着ている服は関所の町トキナーでルアンが買ってくれた木綿の服、温暖なこの地方では風通しがよくて着心地が良い。目の前の草花からは野の良い香りが漂ってくるし、空にはヒバリが鳴いている。風だって爽やかで心地よいのに、どうしてこんな気持ちになってしまうのか。サラはそんなことを思いながら、鳶色の瞳に憂いを込めてタンポポの綿毛を指でピンと弾く。
少し前の夜まで、サラはそんなことを考えたこともなかった。こんなに落ち込むような気持ちになったのは、ルアンと出会って初めてのことだ。それもこれも生理の影響だといえばそれまでだけれど、サラにはそうは思えない。自分はルアンの子を身ごもりたいのだろうか、あの温和で優しくて頼りになる異国の青年のことをそこまで愛してしまったのだろうか。そんな答えの出ない疑問が、さっきからずっとサラの頭の中をまわっている。
「どうして避妊をするのですか?」などとルアンに聞けるはずもなく、「ルアン様の子どもが欲しいです」などとは例え将来思ったとしても口にも出せない。それ以前に自分とルアンがこの先どんな関係になるのか、そんな予想すらサラにはできていないのだ。この先もしも本当にルアンの子を身ごもったら、自分はどうするのだろう。十八歳のサラひとりで子を産み、そして育てる、そんな未来はまったく思いもよらない。そう考えてみると、いまのサラより少し歳が上だったとはいえ、母親はよく一人で娘を産み、赤子から育てたものだとサラは感心をしてしまうのだ。
「いやだな……」
そうつぶやいて見える先にはルアンの後ろ姿。少し大きな声を出してしまえば届く距離なのに、サラには遠く思えてしまう。こんなに落ち込んだ気持ちになるのは全て生理のせいだと思いたい、三日四日もすればまたルアンのことを純粋に慕えるような日が来る、そんなことをぼんやりと考えながら、暖かい日差しの中でサラは目を閉じてまどろんでしまった。
△
「サラ……、サラ?」
自分を呼ぶ声が聞こえたサラは目を覚ました。上空からは心配そうな顔が覗き込んでいる、ルアンが水辺から帰ってきたのだった。
「あっ、す、すいません。ちょっと眠ってしまって。えっ?」
起き上がろうとしたサラの身体が木綿の服ごとふわりと宙に浮く。ルアンに抱きかかえられたのだとサラが気づいたときには、その目の前に漆黒の瞳があった。
「サラ、いくら暖かいっていっても、地面の上だと身体が冷えるぞ」
水を浴びてサッパリとした顔のルアンが、少し困った顔をしてサラに言う。
「すいません。ちょっとウトウトしちゃって」
言葉ではそういいながらも、サラの頭はまだ寝起きで薄ぼんやりとしている。自分を優しく抱きかかえてくれているルアンの胸に顔を埋めて、思わずさっきまで心に思っていたことをポロリとこぼしてしまう。
「ルアン様は私が……」
「ん?」
「いえ……、なんでもないです」
とんでもないことを口走りそうになったと気がついたサラの言葉が止まった。けれどルアンの方は途中で止められて引っかかったのか「なに? サラ、言えばいいのに」と、笑いながらサラを荷馬車へ運んでいく。
「サラが、どうしたの?」
「いえ、その……、もし、私がルアン様の子を身ごもったら……」
「ええっ!?」
抱きかかえられているサラが驚くほどの声をルアンがあげた。黒い瞳が目一杯見開かれてサラの方を凝視している。
「出来たの?」
「ち、違います! 違います、出来てたら月のものなんて……来ません」
「ああ……」
フウッと大きな大きな呼吸を吐き出してルアンが脱力をした。そのままサラを地面に下ろして赤みがかった髪をポンポンと叩く。
「びっくりするじゃないか」
「すいません……」
「で、なんでそんなこと思ったの? っていうか、そりゃそうか。ほら、サラ。ん、手が熱いぞ」
ルアンはサラより先に荷馬車に乗り、グイッとサラを馬車の中へと引き上げた。その力強い腕に掴まれて、サラの華奢な身体は一瞬にして上へと舞いあがる。
赤い顔をして荷台で黙っているサラに、ルアンは笑いながら声を掛けた。
「なんていうか、だから俺、いつも子どもが出来ないようにしてただろ? まあ、完璧じゃないだろうけど」
「そう……ですよね……。あたりまえですよね、私みたいなのがルアン様の子どもを身ごもったって……」
ルアンの放った言葉の意味を、悪い方へととらえたサラの声がどんどん沈んでいく。
「サラ? えっと、サラ?」
その異変に気づいたのか、ルアンはサラの顔を覗き込んだ。その黒い目に映ったのはサラの涙、みるみるうちに鳶色の瞳からあふれ出てこぼれていく。
「サラ、ちょっと待てサラ。なあ、ちょっとなにか勘違いしてないか!?」
「え……?」
「いや、『え』じゃなくて、泣くなよサラ。俺が言った意味は、サラを……、その、サラを妊娠させるのが嫌だっていうか……、ああ違う、なんて言ったらいいんだ」
ルアンは洗ったばかりの黒髪をかきむしって、二度三度と頭を振った。その様子をサラは呆然と見つめる。
「とにかく今サラに子どもなんて出来ても俺が面倒見切れない……、いやこれもちょっと意味が違う。つまりだな……えっと……」
またしばらく頭を抱え込んだルアンは、ようやくサラの目を見た。
「つまりだな、もし子どもができたなら早く言ってくれよ。俺は無責任なことはしないからな。でも今のサラはまだ早い、そのなんていうか、まだ十八だし、えっと身体だって華奢だし。ただまあ、そんな女の子に子どもが出来るようなことをしてる俺ってどうなんだ、とは自分でも思うけど、いやそれじゃあまるで色欲魔みたいで――」
最後はブツブツと俯きながら自分を卑下するようなことを言ったルアンは、「まあ、そういうことだから。もういいだろ?」と上目遣いにサラの様子を窺った。
「え?」
「いやだから、『え?』じゃなくて、その……、とにかくそうなったら責任は取るから! でもそんなことよりセレスティア公国に行っていろいろ確かめないと駄目だろ? あと三日くらいで着くし、その時にはサラの月のものだって終わってる……。ん? サラ、やっぱり熱があるのか? 熱いぞ、絶対熱があるって」
ルアンは握っていたサラの手を離し、額に手をあてる。サラの体温は確実にルアンよりも熱く感じられ、トロンとしている鳶色の目も熱を含んで見えた。
「いえ……、大丈夫です」
「大丈夫じゃないよ。じゃあサラ、今日はまだお昼だけど次の街で泊まるからな、何なら明日は一日そこで寝ててもいい。だからいいな、もう寝てろ」
サラは軽々とルアンに抱きかかえられ、即席で作られた荷台のベッドに寝かされた。
そしてすぐに荷馬車は出る。軽く揺れる地面の衝撃を、ルアンの作ってくれたベッドは優しく包み込んでくれる。それはまるでルアンに抱かれているような感覚で、サラは再び睡魔に襲われ始めた。
やっぱりあんな嫌なことを考えるなんて熱のせいなのかな、とサラは心地よい揺れの中で思い出しながら、いつの間にか静かな寝息をたて始めたのだった。




