民衆の意識改革
ガリア帝国からの軍事侵略の脅威が、一滴の血も流れることなく立ち消えたという知らせは、疾風のごとく王都リュテスを駆け巡った。
帝国軍の遠征費用を奪い去り、兵士の家族へ救済の手を差し伸べた「ルテティア・ラグジュアリー」と「サロン銀行」の異次元の策略。
武力を誇っていた大国を、言葉とブランドと経済の力だけでひれ伏させた王妃マリアージュの逸話は、もはや神話の域に達していた。
「……信じられるか? あのガリアの十万の大軍が、戦う前に戦費を使い果たして引き返したんだそうだぞ!」
「それだけじゃない! 王妃様は、敵国の兵士の子供たちにまでパンを買うための金を貸してやったそうだ。なんて慈悲深い方なんだ……!」
街角の酒場でも、市場の露店でも、人々が口にするのは王妃マリアージュの賛辞ばかりであった。
かつて、彼女は「贅沢病の王妃」と蔑まれていた。
民の血税を貪り、外国製の高価な宝石や派手なドレスを買い漁る悪婦。王都の広場では「あの女をギロチンへ送れ」という陰惨な噂すら囁かれていたのだ。
だが、今の民衆の目に映るマリアージュはまったく異なっていた。
彼女の進める「贅沢」は、自分一人を満たすための道楽ではない。
国産のウールや綿を買い支え、農民に仕事を与え、職人に最新のミシンや溶解炉を買い与え、貧しい少女たちをお針子として自立させる——「国全体を豊かにするための贅沢」なのだと、誰もが理解していた。
「王妃様が新しいドレスをお作りになれば、俺たちの給料が増える!」
「王妃様がお茶をお飲みになれば、村のハーブ畑が広がる!」
いまやマリアージュの選択する「美」は、ルテティアの民にとって希望そのものであった。
澄み渡る秋晴れの日。
マリアージュは、完成したばかりの「王立第1裁縫ギルド」と「サロン銀行・中央本店」の視察のため、オープン馬車に乗って王都の大通りへとくり出していた。
隣には、漆黒の礼服に身を包んだ国王リュシアンが座っている。
護衛の騎士たちは緊張した面持ちで周囲を警戒していたが、マリアージュはペールブルーの軽やかな新素材ドレスに身を包み、優雅な笑みを浮かべていた。
馬車が王都の中央広場へと差し掛かった、その時だった。
「マリアージュ様だ……! 王妃様がお見えになったぞー!!」
一人の若い職人の叫び声を皮切りに、広場を埋め尽くしていた数千、数万の民衆が一斉に馬車へと押し寄せた。
「マリアージュ様! ありがとうございます! おかげで妹が学校に通えるようになりました!」
「サロン銀行の融資のおかげで、自分の店を持つことができました!」
「王妃様! どうか私たちの作ったハーブをお受け取りください!」
民衆の手から投げ入れられたのは、色とりどりの野の花や、採れたてのハーブの小さな花束だった。
かつて王妃の馬車に向けられていたのは、泥や腐った野菜、そして殺気立った憎悪の視線だった。だが今、馬車を包み込んでいるのは、溢れんばかりの感謝と熱狂的な歓声だった。
「マリアージュ様万歳! ルテティアの母、サロンの女主人様万歳!!」
「マリアージュ様万歳!! 国王陛下万歳!!」
地鳴りのような「マリアージュ様万歳!」の合唱が、王都の空を揺らす。
マリアージュは驚きに青い瞳を見開いた後、胸の奥からこみ上げてくる熱い感情を抑えきれず、静かに愛用の扇子を胸に当てた。
前世の記憶。
断頭台の冷たい刃の下で聞いた、民衆の狂気的な怒号と罵声。
「死ね、贅沢女!」「国賊をギロチンへ!」という絶望の叫び。
そのトラウマが、いま目の前で巻き起こる温かな歓声によって、完全に上書きされていく。
(ああ……私、本当に届いたのね。私の『贅沢』が、この人たちの笑顔になったのね……!)
マリアージュは馬車の上に立ち上がると、民衆に向かって優雅に、しかし親しみやすく手を振った。
その瞬間、広場からは耳を deafening ばかりの割れんばかりの歓声が巻き起こった。
「……すごい人気だな、我が妻よ」
隣でその光景を見つめていたリュシアンが、可笑しそうに、そして誇らしげに目を細めた。
彼はマリアージュの細い腰をしっかりと抱き寄せ、耳元で静かに囁いた。
「かつて私に『半年で成果を出せねば処分する』と言われた女が、いまや私以上に民に愛される『この国の真の支配者』になるとはな」
「あら、リュシアン様」
マリアージュは照れくささを隠すように、クスリと悪魔的な笑みを浮かべた。
「私が支配しているのは国ではありませんわ。……人々の『美と豊かさへの欲』ですの。誰だって、飢えるよりは満たされたいし、薄汚い布を纏うよりは綺麗な服を着たいでしょう? 私はただ、その当たり前の幸せを皆様に叶えて差し上げているだけですわ」
「フッ……それをやってのけるのが、どれほど困難なことか。……本当にお前は、最高の王妃だよ」
リュシアンは民衆の歓声も憚らず、立ち上がったマリアージュの手を取り、その手の甲に熱い接吻を贈った。
国王夫妻の仲睦まじい姿に、広場の民衆からはさらに大きな「お二人万歳!」の歓声が上がった。
その日の夕刻。
王宮の離宮『未来サロン』のテラス。
遠く王都の街並みからは、夜の祝祭を楽しむ民衆の歌声や、工房から漏れるランタンの光が美しく輝いていた。
マリアージュは温かなハーブティーのカップを手に、静かに夜風に当たっていた。
背後から、寄り添うようにリュシアンが抱きしめてくる。
「……マリアージュ。これで、お前の欲しかったものはすべて手に入ったか?」
「いいえ、リュシアン様」
マリアージュは夫の胸に深く背中を預け、星空を見上げた。
「私の『贅沢』に、終わりなんてありませんわ。ルテティアの服とハーブを世界中に広め、サロン銀行の力で貧困をこの大陸から無くし……そして、何よりも」
彼女は振り向き、リュシアンの黒銀の瞳をまっすぐに見つめた。
「あなたと二人で、この温かな国をずっと見守り続けること。……これ以上の贅沢が、どこにございますかしら?」
「……相変わらず、強欲な王妃だ」
リュシアンは深く、深く愛を込めて彼女の唇を塞いだ。
断頭台の影に怯えていた一人の王妃は、知恵と情熱、そして独自の美学によって、運命を完全に塗り替えた。
「贅沢病の悪役王妃」は消え去り、いまや彼女は、国を世界一の繁栄へと導く「希望の女主人」として、人々の心の中に永遠の王国を築き上げたのだった。




