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涙と膿 9

 部屋に戻ると、香織が心配そうな顔で出迎えた。


「追っ払ったよ。もう来ないと思う」


「殴ったでしょ?」。香織が言ったので進之助は黙った。「なんでも暴力で片付けようとするのは、進ちゃんの悪いところよ。もし相手が刃物なんて持ってたりしたら・・・」


 そもそも香織を助けるためにしたことなのだが、香織は香織で自分のことを心配してくれているのだから、言い返すこともできない。

 進之助はバツが悪そうに頭を掻こうとした。


「進ちゃん!」。香織が叫んだので、進之助はビクッと体を震わせた。「その手!」


「え?」。進之助は自分の右手を見た。歯のところを殴ったせいだろう。手の甲が3センチばかり切れて、血が流れていた。「どうってことないよ、こんなの」

 舐めときゃ治るよとは言わなかった。そうすると、あのストーカー野郎と間接キスすることになってしまう。


「ダメよ。ちゃんと消毒しとかないと、化膿するよ。ほら、こっち来て!」


 確かに。その点については賛成だった。ついさっき殴った奴は、ドブネズミばりに厄介なバイ菌を持っていそうだ。


 進之助が洗面台で血を洗ってリビングに入ると、香織は大きな救急箱を出して準備していた。白いプラスチック製の救急箱で緑の十字がついていた。中が何層かに仕切られていて、全部取り出すと、控え目に言っても学校の保健室くらいの設備になりそうだ。

 ずいぶん本格的な救急箱があるなと思った。あの心配性で神経質な香織の父親が持たせたであろうことに疑いの余地はなかった。


「はい。手を出して」

 香織はひんやりした手で進之助の手を優しく掴み、まだあふれ出してくる血を脱脂綿で丹念に拭った。


 怒りが冷めるにつれて段々傷が痛みだしたが、香織の手の感触の方が一千倍も刺激的に思えた。


 毎日喧嘩して怪我すれば、毎日手当してくれるだろうかなどと、つまらないことまで考えだす。

 もちろん、そんなことを香織と日本の法律が許すはずもない。


「思ったより深いわ。病院に行った方がいいかも」


「行かなくても大丈夫だよ」


 進之助が言うと香織はため息をついた。「病院嫌いは変わってないね。昔、進ちゃんが自転車で用水路に飛び込んだときも、説得するのが大変だった。頭を怪我して、顔半分血で真っ赤にしてるのに『嫌だ!病院なんか行くもんか!』って・・・」

 香織は傷口に消毒液をかけ、ガーゼを一枚傷にはりつけると、包帯を巻始めた。


 手当に夢中で下を向いたままの香織の顔を見ながら、進之助はその美しさにゴクリと唾を飲んだ。今なら好きなだけ彼女の顔を見ていられる。その幸運に感謝した。


「あんときは八針縫ったな」


「長坂さんちのロッキーに噛まれたときも・・・」


 進之助は懐かしくなって笑った。「狂犬ロッキーか!懐かしいなぁ。度胸試ししてたんだよな」。Tシャツを捲って二の腕についた傷跡を出した。「まだ歯形が残ってるよ」


「笑いごとじゃないのよ。噛まれる場所によっちゃ・・・」


「女の子になってたかもね」


「バカ。首なんか噛まれたら、死んでたんだからね!」

 彼女は巻きあがった包帯を、慣れた手つきで整えた。


「・・・ごめん」。進之助はムスッとして謝った。


 心配してくれるのは嬉しかったが、子供扱いされるのは嫌だった。

 末っ子の特性かもしれないが、それだけじゃなかった。

 特に香織には、そんな風に扱われるのが我慢できなかった。


 そろそろ俺を男として見てくれたっていいじゃないか!

 だいたい今夜は、今夜だけは説教を受けるのは俺じゃないはず。


「香織さんこそ・・・」。進之助は口を尖らせて反撃に出た。「言わんこっちゃないじゃないか!若い女性が、こんな治安の悪い町で、オートロックもないマンションで一人暮らしだなんて!」


 香織は顔を上げて進之助を見た。


 綺麗な、真っ直ぐな眼差しに貫かれて進之助は怯んだが、悟られまいと香織の目を見返した。

 これに比べれば、不良少年同士でやる喧嘩前の睨み合いなど、なんと楽なものか。


「仕方ないじゃない。だって私、まだ新入社員でお金もないし・・・」


「俺だけじゃない。おじさんだって、おばさんだって、紀之だって香織さんのことを心配してるんだ」

 そうだ。世界で一番貴重な宝石が、防犯装置もついていないショーケースに入っていて良い訳がない。


「だって、あんな人に狙われるだなんて思っていなかったから・・・」


「何かあってからじゃ、遅いだろ!」。思わず、進之助は怒鳴った。


 香織は驚いて短く息を吸い込み、そのまま俯くと黙ってしまった。


 しまったと思ったが、もう遅かった。

 短気は損気なんて言葉があるが、俺ほど短気で損している人間も珍しいだろう。


 香織は耳を真っ赤にして、小刻みに震えていた。

 怒っているか、悪くすれば泣いているだろうと進之助は思った。


「え?」。進之助は訊き返した。香織が何か言ったような気がしたのだ。


「ごめんなさい」。消え入りそうな声で、もう一度香織が言った。


 うなだれた彼女の頭が、もう少しで進之助の胸につきそうだった。


 進之助の両腕が勝手に動いて、香織の細い肩を抱き締めようとした。何故だか今、そうすることが正しいように思えた。

 だが、そうすることの必然性を見出せない進之助は、意思の力でそれに抗おうと努めた。

 葛藤の時間は長く、長く続いた。少なくとも進之助にはそう感じられた。

 ずっと待ち望んでいた瞬間が、すぐ手の届くところにやってきたような、町の反対側まで遠ざかってしまったような気が、同時にした。


 進之助は立ち上がった。


 おいおい、マジかよ。このチャンスをふいにするつもりか?


 カーテンを開け、外を見て、街灯の下に誰もいないことを確かめた。

「大丈夫。いないみたいだ。じゃあ、俺は帰るけど、もし何かあったら飛んでくるから、いつでも連絡できるようにしといて」


 香織も急に我に返ったように立ち上がって「うん。そうだね。明日仕事だもんね。ありがとう。助かった。また連絡するね」。早口で言った。


 進之助は香織の目を見ないように肯くと、そのまま逃げるように部屋を出た。


 あーあ、やっちまったな。しかしこの、日野江進之助がこんなにも臆病者だったとはね。


 マンションを出ると、駐輪場のフェンス越しに、もう一度煙草屋の街灯を確認したが、あの男はもういなかった。


「仕方ねぇだろ。そんな簡単に手なんか出せるかよ」

 言い訳するように独り言を言って、進之助は自分のアパートに向かって歩き始めた。


 もう終電の時間はとうに過ぎていた。

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