ガッデンハイル公爵夫人 1
翌朝、ローザリンデは伯爵夫人がレオンに用意した、金ぴかな寝台で目を覚ました。
部屋の主であるレオンは、まだレースで縁どりされた赤ん坊用の寝台で眠っていて、異母姉が勝手に使ったと怒ることもない。
半地下ではないこの部屋の東の窓からは、朝焼けが見えた。
まだ、早朝。
パトリックが帰ったあの後、伯爵夫人は当初の予定通り、どこかの夜会に出かけたりしたのだろうか?
まさかと思いながら、しかし義母が起きてくるのは、いつでも早くてお昼過ぎだったと思いなおす。
ラーラも、家庭教師が来る日は早めだが、それでも朝のお茶の時間に起きていれば良い方だったなと、考えながら。
(違うわ。確か婚約が決まった瞬間、ラーラは座学の家庭教師を全員クビにしたんだった)
なにより机に座ってじっとしているのも苦痛なくらいだ。
だから、ダンスやピアノ、声楽は好きだったけれど、それ以外はもう必要ないと、解雇したはずだった。
だが、それでは困る。
なにより彼女には、今回はカスペラクス家に嫁いでもらわなければならないのだ。
後十カ月しか猶予はない。遊んでいる暇はなかった。
侯爵夫人の求める、一族の妻の資質は分かっている。
頭の回転が速く、良く気が利いて、相手にイニシアティブをとらせない教養と社交術を身に着けた女性、だ。
しかも侯爵家は、ああ見えて家族間の愛情が濃い。
それは逆に、家族がバラバラで、すべての時間を自分のためだけに使うことに慣れたラーラには、自由が無くて辛いだろう。
前の記憶の通りなら、侯爵家はこの息子の婚約者に不満を抱いているはず。
前と同じことが起きなくても、他の理由で横槍を入れてくる可能性がゼロではない。
ラーラが次に侯爵家に行くまでに、何とかしよう…。
今度こそ、間違った道へ進んだ自分たちの人生を正しい道に戻さなければ…。
ローザリンデは一つ息を吐く。
昨夜夢で見た、かつてのゲオルグ。
その彼が、この世界では思い出ではなく、本当に生きる実体として昨日この屋敷の中にいたのだと思うと、未だに彼に執着させる『愛』という感情に振り回されそうになる。
前の時、何度そのせいで辛い思いをしただろう。
そして、そのせいで自分もゲオルグも、そしてラーラも不幸だった。
ゲオルグと出会ってはならなかった。
ラーラは正当な婚約者として、カスペラクス家に嫁がなければならないのだ。
そして、自分は自分の幸せのために、今度は己の境遇を決してあきらめず、伯爵夫人にもラーラにも、そして自分に無関心な父にも、立ち向かわなければならない。
自分の中には、前の人生で培った経験がある。
それなのに、同じ轍を踏むわけにはいかなかった。
ローザリンデは巻き戻った二日目の朝、心に決めた決意を、何度も何度も声に出さず唱えた。
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一枚きりのデイドレスに今日も袖を通し、ローザリンデはちょうど目を覚ましたレオンを抱いて、部屋を出た。
二階には、レオンの部屋と家族用の食堂、居間、執務室などの扉が並び、まだ静まり返っている。
階段に向かって歩いていると、執務室の扉が開き、中から執事が姿を現した。
ローザリンデに気が付くと、すぐに一歩控え、恭しく頭を下げる。
なかなかに優雅な所作だ。執事と下僕は伯爵が選別をしたと言う。家政婦長とは出来が雲泥の差だ。
使用人の質は、すなわちその家の家格につながる。
「おはようございます。今日はわたしが確認すべき書類はありますか?」
各省よりの通達、商会からの請求書、一族の傍系からの要求に屋敷内の会計業務。税金に申請に、許可証に…。王都屋敷ですべき、様々な雑事をこなしているのは、前の時も今も、ローザリンデだった。
しかし、すべての書簡が彼女の元に来ていたわけではない。
社交に関するものは、伯爵宛てに来たものもすべて伯爵夫人の元へ持って行くよう、執事は指示されそれを守っていた。
「はい。大きなところでは、次の社交シーズンまでの出費の予算書を送るよう、ご領地の家令殿より報せが来ておりました」
それは大きな作業だ。前の時は、この執事の手を借りながら作り上げた。しかも、せっかく作ったものを、何度も伯爵夫人に手直しさせられた。主に伯爵夫人とラーラの予算の増額のために。伯爵に見せるため、ローザリンデの予算も書類上は組まれてはいたが、実際それが彼女に使われることはなかった。
しかし、今のローザリンデなら、資料さえあれば自分で確実に作成できる自信がある。
ローザリンデは少し考えると、執事に確認した。
「それなら、早速取り掛かります。昨年までは誰が?」
「伯爵様が、自らされていらっしゃいました」
「そう。それなら簡単そうね。過去のものも執務室に?」
「おっしゃる通りでございます」
「では、ケイティに、レオンの朝の準備をもって、執務室に来るように言ってくれるかしら?わたしの朝食もこちらでいただきます」
てきぱきと指示を出すと、執事は少し目をしばたいた。
きっと、昨日までのローザリンデとの違いに驚いているのだろう。
しかし、そんな私見を口に出すようでは執事失格だ。
「かしこまりました」
承諾の返事だけを発すると、執事は執務室の鍵をかけずにその場を去った。
前の時、この部屋にローザリンデだけで入室したことはなかったなと思う。それは伯爵から、この部屋の管理を任された彼の責任感からだろう。
しかし、一夜にして、ローザリンデはこの執事の信用を得たのだ。
久しぶりに入る執務室は、昔の記憶のまま、インクと蒸留酒の匂いが混じる落ち着いた内装の部屋だった。
そして、窓の前に鎮座する、オークで出来た大きな執務机の上の文箱を見て、ローザリンデはおやと思った。
そこには、伯爵夫人に回すようにいわれている、色とりどりの招待状が。
ひとつひとつ見てみると、伯爵夫人やラーラ宛てのものは混ざっていなかったが、父や、自分宛のものがそこには積まれていた。
執事は、そこもローザリンデを優先することにしたようだ。
その中から、見覚えのある紋が封蝋に施された手紙をつい手に取った。学院で親しくしていた上級生、チュラコス公爵家の紋章だ。自分と父宛に二通も来ている。
気になって自分宛のものを開けると、懐かしい角ばった文字の招待状が出て来た。
チュラコス家の茶会への招待状。しかも直筆。
そう言えば、結婚した後、どこかの夜会でチュラコス公爵となったこのかつての上級生と会った時、何度も招待状や手紙を送ったのにと、少し恨めしそうに言われたのだった。
(本当に送られて来ていたのね)
恐らくこんな風に来ていたローザリンデ宛の招待状は、すべて伯爵夫人によって握りつぶされていたのだろう。なんなら流用されていたかもしれない。早くラーラが求婚されたおかげで、変に悪用されなかっただけ不幸中の幸いだった。
「まずは帳簿と今までの予算書の確認ね」
一昨日までもローザリンデが見ていたのだろうが、このローザリンデが帳簿を見るのは二十年以上振りだ。
お腹が空いてぐずり出したレオンをあやしながら、ローザリンデは執務室の書架から帳簿を引っ張り出すと、机の上に広げた。
そこへ激しいノックの音がした。
昨日の早朝のバーゼル夫人のノックを思い出し、ローザリンデが一瞬身をすくめると、続いてケイティの騒がしい声が。
「ローザリンデお嬢様!入ってよろしいでしょうか!」
執事の所作は優雅だったが、ケイティにはもう少し教育が必要だと思いながら、「入りなさい」と返事を返す。
今の返事は、三十八歳のローザリンデっぽいわねと思いながら。
ケイティが、おどおどしながら大きなバスケットを抱えて入って来た。
そう言えば、このハウスメイドが執務室に入るのは、初めてのことだろう。
通常は掃除も下僕が行っていた。
「ローザリンデお嬢様~。執務室なんて、わたしごときが入っても良いんですか~」
ローザリンデはふふふと笑って、執務机からソファーに移動した。
入るだけでなく、何ならここで、今からレオンのお尻を綺麗にしなければならないのだが。
バスケットから毛布を取り、その上にレオンを寝かせて着衣を寛げると、案の定ケイティは「ここで!」と大きな声を上げる。
侯爵家では、四人の子どものお尻も、侯爵夫人の執務室で何度も綺麗にしたものだ。
手際よく終わらせ、ケイティにレオンを預けると、ローザリンデは執務机に戻った。
そして、さあ、帳簿に目を通そうと思った時だった。
下僕のヘンドリックが、早口で扉の外から声を掛ける。
「ローザリンデお嬢様、急ぎの要件です。よろしいでしょうか!」
一瞬ローザリンデとケイティは顔を見合わせ、「どうぞ」と返答した。
扉を開けたヘンドリックは、つかつかと執務机のローザリンデへと歩み寄ると、やおらその身を折り、ローザリンデの耳へ小声で話しかけた。
しかし早口で。
「お嬢様。ガッデンハイル公爵家より、お迎えの馬車が来ております。パトリック様ではなく、公爵夫人が御自らお出ましです」
ローザリンデは目を見開いた。
今はまだ来てほしくない人の、来訪だった。
読んで下さり、ありがとうございます。