1話 1人だけの世界
冷たい雨が降っていた。
空は厚い雲に覆われ、廃墟と化した街並みは、濡れた灰色の中に沈んでいる。ぬかるんだ地面を蹴るたびに泥が跳ね、雨を吸った外套は肩に重くのしかかった。破裂しそうなほど心臓が脈打ち、指先の感覚はとうに失われている。
背後から、複数の足音と鋭い号令が迫ってくる。
もう何も考えられない。ただ必死に駆けるしかなかった。
足がもつれる。
倒れた。ぬかるみに手をつき、白い息を乱しながら何とか立ち上がる。再び走り出そうとした、その瞬間――追っ手に追いつかれた。
目の前に一人、立ちふさがる。
向けられた剣の切っ先に、身体が強張る。動けない。
直後、後方からも追っ手たちが追いつき、逃げ道を塞ぐように周囲を取り囲んだ。
目深に外套をかぶっているため表情は見えない。だが、間合いの取り方、包囲の間隔、そこに一切の乱れはなかった。よく統率され、最大限の警戒を保っていることが一目で分かる。
降りしきる雨の中、時が止まったかのように、誰一人動かなかった。
やがて追っ手の一人が目の前に進み出てきた。
「古の召喚士、リナ殿とお見受けした。」
その男は低い声で、自分たちはリナを拘束するために来たのだと告げた。
リナは何も答えない。
ただ視線を伏せる。
その後ろで、別の追っ手が押し殺した声で仲間にささやいた。
「相手は魔女だ。油断するな」
そのとき、空の奥で雷雲がごろごろと唸り始めた。
リナは目をきつく閉じた。
追っ手たちは一層、周囲への警戒を強める。
次の瞬間――追っ手の背後、至近距離に落雷が走った。
轟音。
白い閃光。
衝撃に、追っ手たちの注意が一瞬途切れる。
その隙を逃さず、リナは眼を見開き、右手に握っていた杖を頭上に振り上げた。
同時に、杖の先端から目を開けていられないほどの強烈な光が放たれ、周囲を真っ白に染め上げる。
視界が徐々に戻り始めたときには、もう彼女の姿はなかった。
「追え!」
指揮官らしき男が鋭く叫ぶ。
「まだそう遠くへは行っていない。必ず捕獲しろ!」
その声に追っ手たちは勢いを取り戻し、周辺の捜索を再開した。
だが、そのすぐ近く――
崩れた廃墟の陰に、リナは身を潜めていた。
祈るように目を閉じ、少しでも気配を悟られないように身を縮こませる。
追っ手たちが遠ざかっていくのを、ただひたすら待っていた。
「どうか……神様……」
声にならないほどかすかな囁き。
耳に届くのは、自分の心臓の鼓動と、抑えきれず漏れ出る呼吸の音だけだった。
雨の音。
遠くの足音。
廃墟を打つ風の気配。
リナは周囲の物音にじっと耳を澄ませる。
強く閉じたまぶたの奥で、眉間が引きつるほどに。




