ことのなりゆき 3
クレアには文句のひとつでも言ってやりたいところだが、その為に余計な厄介事を引き寄せるのはごめんだ。
ただでさえ妙なことに顔を突っ込んでしまっているのに、これ以上はさすがに荷が重い。
コーデリアはグラスに残っていた葡萄酒をひと息に呷り、ああ、と小さく声を漏らした。
「そう言えば、私とおまえが付き合ってるって話。もうクレアのところにまで回ってたぞ」
空になったグラスをテーブルに追いやって言う。
「そういう振りをしている、って言っておきたかったんだけどな。でも誰が聞いているか分からない状況で、それを打ち明ける訳にもいかないだろ? だからクレアの勘違いは、そのままになってるんだ」
「誤解されたままではまずいのか?」
そう不思議そうに問われて、コーデリアは目を瞬かせた。
「そりゃあ、まずいに決まってるだろ。あいつは顔が広い上に口も軽い。知り合いやそれ以外の連中に、私たちの関係が広がることになる」
「――ああ、そうか。確かに、知られて厄介なことになりそうな頭の固い連中がいるな。話が出回り過ぎるのも問題か」
「自由恋愛なんてけしからん、って未だに言ってるお歴々もいるからな。もしあの人たちの耳に入って、留学生たちが帰国した後に別れました、なんて言ったらどうなることか」
想像しただけでうんざりする。頬杖を突いて顔を顰めたコーデリアを見て、イライアスはちらと苦笑を浮かべた。
「オドネルには俺から口止めしておこう。どれほどの効果があるかは分からんが」
「口止め? それじゃあ誤解はそのままか?」
もちろん、とイライアスが頷く。
「欺くにはまず味方から、と言うだろう。真実を知る者は少ない方が良い」
「相変わらず用心深いことだ。そこまで徹底するようなこととは思えないが、まあ、いい。協力すると言った以上は、おまえの指示に従うさ」
イライアスがすべてを話していないだろうことは、彼の口振りからなんとなくの予想がつく。だがここで問い詰めても意味はないだろう。
ことを成すのにすべてを詳らかにする必要はない。
そも情報の管理と調整は、士官学校で徹底的に叩き込まれる事柄だ。基礎とも言えるそれで、まさかイライアスが下手を打つことはないだろう。
コーデリアは内心だけで頷いて、壁掛け時計に目をやった。騎士団寮の門限まで、あまり時間がない。イライアスに視線を戻して言う。
「共有が必要そうな話は、こんなものかな。またなにかあれば次の機会に報告するとして、今日のところはここで帰らせて貰う。食べるばかりで後片付けを手伝えないのは、すまないが」
謝罪を口にしながら立ち上がると、イライアスが紳士よろしく席を立った。
ハンガーに掛けていた上着を寄越してくれる。
「気にしなくていい。それよりも寮まで送ろう。おまえの腕を侮るつもりは僅かもないが、この時間に女性の独り歩きはさせかねる」
「その手の気遣いは必要ない、と言いたいんだけどな。付き合っている振りをしているからには、送って貰った方が違和感が無さそうだ」
苦笑しながら受け取った上着に袖を通し、コーデリアはイライアスのアパルトメントを後にした。
日中は汗ばむこともある初秋の今も、陽が落ちてしまえば寒さが足元から忍び寄ってくる。上着一枚では肌寒いくらいだったが、酔い醒ましには丁度良い。
すっかり人通りの消えた住宅街を歩きながら、コーデリアは傍らのイライアスに視線をやった。
「そう言えば、次をどうするか決めてなかったな」
「次? また俺の家ではなにかまずいのか?」
「別にまずくはないが、そうじゃなくて、おまえにも休みには予定があるだろ? それなのに私が週末ごとに行ってたら邪魔じゃないか。あっちに動きがあるならともかく、することも無いのに会う必要なんてないだろうし」
イライアスが残念なものを見るような目をしている。
そんな顔をされる意味が分からなくて、コーデリアは思わず眉根を寄せる。するとイライアスが意味有りげに溜め息を吐いた。
「……俺のことは気にしなくて良い。それよりも大変なのは、休みでもないのに半日を潰す羽目になっているおまえの方だろう。だから次は俺ではなく、おまえの休日に合わせよう」
「それは別に構わないが、でも四日後だぞ。さすがに頻繁過ぎないか?」
「そういうものだ、気にするな」
なにがそういうものなのかさっぱり分からないが、イライアス話は済んだとばかりに半歩先を進んでいる。コーデリアは肩を竦めてから、イライアスの隣に並んだ。
住宅街から四半刻ほど歩くと、王城の外れに辿り着く。城壁には刳り貫くように開かれた通用門があって、そこを抜けたすぐ先に騎士団寮がある。騎士であれば通用門の出入りは自由で、それでイライアスは当然のように王城の敷地内に足を踏み入れた。
どうやら律儀にも寮の手前まで送ってくれるらしい。
騎士団寮とひと口に言ってもその規模は大きく、建物もいくつかに別れている。コーデリアが住まうのは近年になって増設された建物で、煌石の明かりが真新しい漆喰壁を白々と照らしている。建物群の外れにあるせいで、周囲は閑散として人の気配も疎らだ。
寮の入り口で足を止めたコーデリアは、イライアスを振り返った。
送ってくれた礼を言おうとして、ふと口を噤む。
視界の端、暗紅色のなにかが映り込んだ気がする。さり気なく視線をやると、明かりの影が落ちる位置に、身を潜ます人の姿がある。夜目の利くコーデリアには、暗紅色をしたお仕着せの皺まで見て取れた。
白のメイドキャップを被ったその人物には見覚えがある。
ガレアンの森にアリシア・ハイドが紛れ込んだあの日、彼女を迎えに来ていたオーサント人の侍女だ。彼女たちの仮住まいであるシトラ宮から離れた場所で、こんな時間に偶然行きあったとは考え難い。なにかを探りに来ているのは明らかで、その対象は恐らくコーデリアだろう。
まだイライアスはそれに気付いていないらしく、急に黙り込んだコーデリアを不思議そうに見つめている。見張られている状況を伝えようにも、ここで声を潜めては不自然だろう。
仕方がない。コーデリアは内心で溜め息を吐いて、イライアスの腕を引いた。
不意打ちのそれにイライアスが姿勢を崩したのも構わず、コーデリアはそっと伸び上がる。イライアスの首に腕を回して、鼻先が触れ合う距離まで顔を近付かせた。動揺しているのか、それとも緊張しているのか、イライアスが身体を固くしている。それを小さく笑って、コーデリアは囁く声で言った。
「騒ぐなよ。前に森の外で見たのと同一人物だと思うんだが、オーサントの侍女がそこにいる」
「…………オーサントの」
「恐らくアリシア・ハイドが、おまえとのことを怪しんでいるんだろう。もしくは別れろ、とでも侍女に言わせるつもりだったか。ともかく誤魔化すためにも、恋人らしい振る舞いは必要だろう。おまえも不審に思われたくなかったら、少しはそれらしく動いてくれ」
それらしく、と呟いたイライアスの身体に力が入る。なにかを躊躇うような間があって、大きな手がコーデリアの背に添えられた。
ぐ、と腰を引かれて、イライアスとの間にあった僅かな距離が無くなる。もう片方の手が後頭部に回って、探る動きで指先が髪に埋まった。唇に温く吐息がかかり、あれ、と思うより先に柔らかなものが触れる。
括っただけの髪をぐしゃぐしゃにされて、貪られ息が上がり始めた頃合いで、イライアスが顔を離した。
ごく近い距離で視線がぶつかる。煌石の明かりを受けて燦めく金の瞳の美しさに、目を奪われて息を飲む。だが首筋を撫でる手に危うい気配を感じ取って、コーデリアは、はたと我に返った。
「あー……イライアス。その、これはさすがに、ちょっとやり過ぎじゃないか?」
苦笑含みに言うと、イライアスが眉間に皺を刻む。
「恋人らしく振る舞え、と言ったのはおまえだろう。それよりも、オーサント人の侍女はどうしている」
「……ちょっと待て」
言いながらイライアスの腕から逃れ、それとなく周囲を見渡す。
先ほどまで侍女がいた辺りに人影はなく、探ってみても気配すら感じられない。
大丈夫、と言う代わりに頷くと、イライアスが思いの外真剣な声で言った。
「しばらくは、身の回りに気を付けてくれ。常識の違う相手だから、なにをしでかすか予想がつかない」
「ああ、うん。そうだな、気を付ける」
上滑りした声音でそう返して、コーデリアは深く溜め息を吐いた。
たった今起こったことについて、どうやらイライアスはこれ以上なにか言うつもりはないらしい。有耶無耶にされるのは面白くないが、さりとて踏み込まれるのはコーデリアの手に余る。
それでコーデリアも深入りはせずに、送ってくれたことの礼と暇だけを告げる。予想外の事態に喚き立てたい気持ちでいっぱいだったが、コーデリアは平静を装って騎士団寮に逃げ込んだ。