利用する者される者 1
迎賓施設であるシトラ宮には、その広い敷地内に使用人棟が併設されている。石造りの古びた建物だが、その頑丈さは折り紙付きだ。
かつての戦争時には騎士団の作戦司令部が置かれ、大砲の一撃にも耐えたという記録が残っている。オーサントの留学生を受け入れるにあたって、使用人棟の一角が護衛騎士本部とされたのは、なかなかに皮肉の効いた話と言えるだろう。
小隊長に貸与されている執務室で書類に目を通していたイライアスは、扉をノックする音に気付いて面を上げた。
短く応えを返すとすぐさま扉が開いて、部下のひとりが慌ただしい足取りで入室してくる。
今年の夏に小姓から従騎士となった少年で、名をジャック・オーリンと言う。イライアスの遠縁にあたる狼の一族だ。
彼はあどけなさが残る顔を安堵でいっぱいにして、大げさな口調で言った。
「ああ、空気が美味しい! シトラ宮は臭いが本当にひどくてひどくて、こっちに戻ってくると心底ほっとしますよ」
「……恥を晒すような言動は止せ、オーリン。なにより上官を前にして礼を忘れるなど、小姓からやり直した方が良いんじゃないのか?」
イライアスの副官であるルイス・セヴァンが渋い顔で言う。
ジャックは慌てた風情で姿勢を正すと、拳を胸に当てる略式の敬礼を取ってみせた。
その調子の良さに苦笑して、直れと言う代わりにイライアスは手を軽く振った。
「いい、面倒だ。それよりも、すまなかったな。復帰したばかりだと言うのに、おまえには無用な苦労をかける」
「いえ、そんな、滅相もないです! そりゃ、まあ、臭い相変わらずきついですけど、でも前ほどじゃないですし。初めてシトラ宮に行った時なんか、臭くて気持ち悪くなるわ頭が痛くなるわで、本気で死ぬかと思いましたからねぇ。それに比べたら臭いだけなんで、ほんと全然っすよ」
へらりと笑ったジャックに、ルイスが深く溜め息を吐く。
「オーリン、口調が乱れている。いい加減、従騎士となった自覚を持て。何度言わせるつもりだ」
「あ、やべ――じゃなくて、大変失礼いたしました。駄目元で出した人事申請ですが、隊長が予想なさった通り却下だそうです。それと先ほど第一分隊のピアソン隊長にお会いして、こちらをお渡しするよう言付かってまいりました。急ぎの案件のようです」
どうぞ、と振る舞いも慇懃に書類綴じを差し出してくる。ふたつ折りのそれを開いて、イライアスは僅かに眉根を寄せた。
イライアスの反応に察するものがあったのか、ルイスが手元を覗き込んでくる。
「隊長、それは……内務府からですか?」
「ん? ああ、シトラ宮警護の騎士に対する協力要請だ。頻出している体調異常について、ようやく本格的な調査が入ることになったらしい」
ルイスが安堵と呆れの入り混じった息を吐く。
「ようやくですか。このまま人員を使い潰し続けるのかと思っていましたが。さすがに尻に火がついたんでしょうか」
「近衛の数が減れば、王族の方々も身動きに困るからな。要請が内務府ということを鑑みれば、どこがせっついたかは推して知るべしだ。まったく気の毒なことだ」
「そんなもの彼らの自業自得でしょう。ですが総括役まで置くとは思いませんでした。第一所属のクレア・オドネル――ですか。聞いたことのない名ですね。お飾りとして担ぎ出されたのでないと良いんですが」
お役所仕事に煮え湯を飲まされてきただけあって、くさす声の調子には実感がこもっている。それに微苦笑を浮かべて、イライアスは書類綴じから一枚を取り出した。
ペンとインク瓶とを手元に引き寄せながら言う。
「その心配はない。手技の腕がどうかまでは知らないが、オドネルは突出した頭脳の持ち主だ。訓練過程の座学試験では、首位の座を一度も譲らなかったからな。もちろん指揮も上手かった」
「……もしかして、お知り合いですか?」
意外そうな声で問われて、イライアスは頷く。
「士官学校の同期だ。特に親しくしていた訳ではないが、人となりは知っている。今回の件で動いていたことも話には聞いていたし、そうそう下手は打たないだろう」
口を挟まず大人しくしていたジャックが、感心した声を上げた。
「へええ、騎士だったんですか。あれ、でも隊長の同期ってことはかなり若いですよね。お偉方に舐められちゃいません?」
イライアスは肩を竦める。
「それは実力で捻じ伏せるしかないだろう。もっともオドネルの名を耳にした古参に、対応をしくじる愚か者がいるとも思えないが」
末尾に署名を入れた書類を机に滑らせて、イライアスは傍らの副官に目をやった。
「これは件の体調不良者を対象にした、検体の提供要請だ。うちの隊ではセヴァンとオーリン、おまえたちふたりが該当する。丁度良いからここで確認して、問題が無いようなら署名をしていってくれ」
「なるほど、手回しが良い。やれ検査だ治療だと血液を搾り取っておいて、また寄越せとは厚かましいことこの上ないですが、解明に役立てるなら協力するのもやぶさかではありません」
そうしかつめらしく言って、ルイスは書類に署名を入れる。続くジャックも躊躇うことなくペンを取って、癖のある字を書き込んだ。
ジャックが撒いたインクの吸い取り砂を木箱に落とし、イライアスは書類に再び目を通す。特に問題が無いことを確認してから、署名入りのそれを書類綴じに戻した。
「旧知のオドネルが担ぎ出されたのは、ある意味運が良かったのかもしれないな。同期の誼で訊ける話もあるだろう。これの提出がてら、少し探ってみる」
言ってイライアスが席を立つと、ルイスが眉を顰めた。
「間諜の真似事など、隊長のする仕事ではないと思いますが」
「仲間から情報を仕入れるのに、その言い草はないだろう。そもそもオドネルとは旧交を温めてくるだけだ。――ああ、それとオーリン。おまえは少し休憩を入れてくると良い。無理をすれば、また倒れる羽目になるぞ」
やった、と零したジャックの呟きを背に聞きながら、イライアスは執務室を後にした。
使用人棟を出た目と鼻の先ほど距離に、シトラ宮はある。本来であれば行き来は容易いのだが、今は警備上の都合で通用口が封鎖されている。それでイライアスは離宮沿いの道をぐるりと回って、正面口に設えられた詰め所に足を向けた。
詰め所で控えていたのは見知った騎士たちで、イライアスが携えている書類綴じを見て、ああ、と得心したふうの表情を浮かべた。彼らに軽く挨拶をしてから腰に佩いていた剣を預け、差し出された書類に署名する。ご丁寧にもクレアの元まで案内すると申し出てくれたのを断って、イライアスはシトラ宮へ足を踏み入れた。
正面の入り口を抜けた途端、お馴染みの不快感が身に纏わりついてくる。
部下のひとりはこれを肥溜めに落とされたかのようだと言い、別のひとりは監獄の最下層のようだと言う。イライアスは腐敗した臓物に鼻面を突っ込んだように思えるのだが、ともかく臭いことには変わりない。それを誤魔化すように、花の香りが混ざっているのがまた、不愉快をいや増していた。
顔を顰めそうになったのを辛うじて堪えて、イライアスは豪奢な廊下を足早に進んだ。
以前は使用人の待機室に押し込まれていたクレアだったが、統括役となった今はドローイングルームに居を移している。
護衛役として当然のことだが、宮殿内の構造は頭に叩き込んである。それでイライアスは迷うことなくドローイングルームに辿り着いた。
黒樫の扉をノックすると、ややあって応えが返ってくる。名乗るとすぐに扉が開いて、従者らしき少女が礼儀正しく頭を下げた。
少女に促されるまま部屋に入る。すぐ正面には応接用のテーブルとソファがあって、右奥の窓際、カーテン越しの光が射す位置に両袖机が据えられている。重厚な作りのそこに主よろしく陣取っていたクレアは、顔を上げると晴れやかに微笑ってみせた。
「やあ、ディグラント。そろそろ来る頃だと思ってたよ。久しぶり、元気だったかい?」
「見た通りだ。そういうオドネルは……変わりなさそうだな。此度の統括役の就任おめでとう、と言うべきか?」
「いやだなぁ、その可愛くない言い方。なんだかわたしが悪いことしたみたいじゃないか。今回の人事はたまたま、単なる偶然の結果だよ。家名の影響があっただろうことは、もちろん否定しないけどね」
返答に困ることをさらりと口にして、クレアは従者の少女に視線を向けた。
「ユール、悪いけど隣にお茶を頼んで貰って良いかな。それと出来たらなにか甘いものもお願い」




