愛しき伴侶 1
イライアスと腹を割って話し合うなら、早いうちに済ませておいた方が良い。
なぜなら時間が経てば経つごとに決意は鈍っていくし、なんだか面倒になって腰が重くなるだけだからだ。
しかしそう思う心とは裏腹に、いつまで待ってもクレアによる接近禁止令は解けなかった。オーサントに盛られた薬の影響が、なかなか抜けきらなかったのだ。
めまいや吐き気などの身体的な症状は改善したものの、理性に関わる部分に少しばかり不都合が残っているらしい。とりわけ伴侶と定めた相手に対するそれが顕著で、つまりコーデリアに会えばなにをするか分からないのだという。
また咬みつかれては困るだろう、とクレアに言われれば従うより他ない。新年の休暇を一緒に過ごす、という約束は当然のように流れて、イライアスと会えることになったのは、春の気配に陽射しが緩み始めた頃のことだった。
オーサントの留学生たちは、目前に迫った帰国の準備に慌ただしくしているらしい。おかげでかかる負担の減った近衛騎士たちは、一時の多忙が嘘のような日々を過ごしているという。
一隊を任されているイライアスでさえ暇を持て余しぎみで、コーデリアに合わせて休日を取る余裕があるのだから、まったく羨ましい限りである。とは言えイライアスがわざわざ休みを入れたのは、腰を据えて話す必要がある、と彼も判断したからに他ならない。
イライアスからせっかくだから昼食を共にしよう、という誘いに内心喜んで、コーデリアは久しぶりにアパルトメントに向かった。
手土産のバターケーキを携えて、ノッカーを鳴らす。ほどなくして扉が開いて、現れたイライアスはコーデリアを見てほんの一瞬だけ表情を強張らせた。
ふたりの間にそこはかとない緊張感が漂ったが、コーデリアはそれを無視して皮肉っぽく笑ってみせた。
「久しぶりだな。――少し痩せたか」
病み衰えたという雰囲気ではないのだが、頬のラインが少しすっきりしている。それを指摘すると、イライアスが軽く溜め息を吐いた。
扉を大きく開けて、コーデリアの手から荷を取り上げて言う。
「……薬を身体から抜くのに色々とあってな。減った体重がなかなか戻らなくて、かなり難儀している」
「筋肉が落ちたようには見えないし、痩せる分には別に良いんじゃないのか?」
脱いだ上着を渡しながら言うと、イライアスが首を横に振った。
「あまり痩せすぎるのも良くないらしい。実際、もう春が目の前だと言うのに寒くてかなわん」
困りきった口調で言うイライアスに、コーデリアは目を瞬かせた。
そう言われてみれば、以前よりも室内がふんわりと暖かい気がする。耳を澄ますまでもなく薪の爆ぜる音がして、居間の暖炉に火が入っているのが分かった。にもかかわらず目の前のイライアスは、真冬のように厚手のニットを着込んでいる。
なるほど、これは珍事かもしれない。
「おい、ちゃんと食べてるのか? まさかひとりだからと言って、食事の手を抜いていたんじゃないだろうな」
しかつめらしく言うと、イライアスが微苦笑を浮かべる。彼はコーデリアの手を取り居間へと促しながら、わざとらしく視線を逸らして言った。
「……食べるのが自分だけだと思うと、どうにも作り甲斐がなくてな。だが食べてはいたから問題はないだろう」
「言っておくが、酒とつまみは食べた内には入らないからな」
ちらと睨めつけて彼の悪癖を指摘する。イライアスは困ったような、気まずさを誤魔化すような、曖昧な笑みを浮かべてみせた。
「そのぶん腕を振るったから、今日のところはそれで勘弁してくれ。栄養のバランスは考えてあるし、おまえの好きなパイも用意してある」
「……キドニーパイか?」
「それとソーセージロールも作ってある。後はかぼちゃのポタージュと野菜のグラタンだ。他に希望があれば作り足すが」
そこはかとなく得意げに言われて、コーデリアは眉間に皺を寄せる。
イライアスの言ったメニューは、どれもこれもコーデリアの好物ばかりだ。文句の口をふさぐ意図が透けて見えて、それがなんだが気に食わない。だが居間のテーブルに並べられた料理の数々を見てしまうと、面白くないと思っていた気分はあっさり吹き飛んでしまった。
思わず相好を崩したコーデリアに、イライアスが笑いかける。
「喜んでもらえたようでなによりだ。――さあ、冷めないうちに食べよう」
それに否やはない。コーデリアは頷いて、暖かな居間のテーブルに着いた。
久しぶりのイライアスの手料理は、相変わらずの美味しさだった。メニューの目新しさより、コーデリアの好みを優先したからだろう。ただでさえ旨かったのが、ただで食べさせてもらうのが申し訳ないくらいの味になっている。
むっと眉間に皺を寄せていると、悠然とパイを口に運んでいたイライアスが微苦笑を浮かべた。
「なにか気に食わなかったか?」
そう余裕たっぷりに訊かれて、コーデリアの眉間の皺がいっそう深くなる。
「少しも思ってないくせに、そういうことを訊くんじゃない。気に食わないどころか大満足だ。素晴らしく旨い。おまえの体重が戻るより先に、私の方が太りそうなくらいだ」
「それはなによりの褒め言葉だな」
ふ、と微笑った顔が驚くくらいに柔らかくて、思わずまじまじと見つめてしまう。それに気づいたイライアスが、不思議そうに首を傾けた。
「……どうした、コーデリア。なにか顔に付いているか?」
「そういうわけじゃないんだが……おまえ、本当に薬の影響は抜けたのか? なんだか、前と様子が違う気がする。なんて言うか、妙に当たりが柔らかくなってないか?」
「ん? ――ああ、そうか。そうだな、おそらく余裕ができたからだろう」
「余裕?」
言葉そのままに問い返すコーデリアに、イライアスは穏やかに笑んで頷いた。手にしていたカトラリーを置いて、ナフキンで口元を拭ってから言う。
「伴侶に望んだ相手が自分の匂いをさせて、作った料理を喜んで食べている。狼にとって、これほど幸せを感じることはないからな。……もっとも、身勝手な願いを押し付けられたおまえには、災難なだけだっただろうが」
溜め息混じりの苦い声に、コーデリアはむっとする。
「災難だったかどうか、それを決めるのは私だ。おまえの勝手な考えを押しつけるんじゃない。そもそも自嘲して落ち込むよりも、まず言葉を尽くして説明するのが先だろう。なんの為に、こうして話し合いの機会を持ったと思ってるんだ」
ただ食事をしに来たわけじゃない、と主張したコーデリアに、イライアスは困ったふうに眉を下げた。
「だが俺のしたことは、二度と取り返しがつかない卑怯で愚劣な行いだった。いくら薬物の影響下にあったからと言って、決して許されることではないだろう。だがそのことよりも救いがたいのは、己の愚かさを自覚してなお、少しの後悔もしていないことだ。俺はおまえをいずれは咬んでやろう、そうずっと思っていたからな」
淡々とした口振りに反して、語る内容はずいぶんと物騒だ。咬んでやろうと思っていた、と言われてもどう反応すればいいのやら、だ。
度数が高めの酒が欲しい、そう心の底から思いながらコーデリアは口を開いた。
「……咬みつかれたことについては、正直どうでもいいんだ。今のところ、その影響をさほど感じていないからな。それにあれは特殊な状況だったし、私も手加減なしに反撃したから痛み分けだろう。ただ……おまえがそうしたいと思うようになった、その経緯については知りたいと思っている」
訊きにくいことを問う居たたまれなさに、コーデリアの頬がじわりと熱くなる。
だがこれについて知らないままでは、判断に迷いが生じてしまう。妙な誤解やすれ違いを避けるためにも、ことの根幹部分は明確にしておきたい。
それについてイライアスも異存はないようで、生真面目に頷いてみせた。僅かに迷うような間があって、イライアスが言う。
「狼が伴侶を見定めるのは、理屈ではなく本能に拠るものだ。直感、とも言えるだろう。もっとも他種族でも恋情とは、そもそもがそういうものだ。さまざまな要因や説明し難いものごとがあって、そうして相手を好ましいと感じる。俺の場合は初めて会った瞬間に、おまえを伴侶にしたいと感じたに過ぎない。要するに、世間一般で言う一目惚れだな」
さらりと熱の籠もったことを言われて、コーデリアは飲んでいた水を吹き出しそうになった。変に喉に入って噎せていると、素早く席を立ったイライアスが、新しいナフキンを手にすぐさま戻ってくる。
コーデリアの隣に座ると、イライアスは咳き込むコーデリアの背を撫でながら、ナフキンを差し出した。受け取ったそれで口を拭って、コーデリアは隣のイライアスを睨めつけた。
「……おまえが変なことを言うから、気管に入ったじゃないか」
「それはすまない。俺としては当然のことを言っただけなんだが……なにか、おかしかっただろうか」
「分かってるくせに訊くなよ。顔が笑っているし、白々しいにもほどがあるぞ」
とは言えそれはからかう類のものではなく、嬉しくて仕方がない、というふうな笑い方だった。
金の瞳は甘く蕩けるようで、垂れた目元にはあからさまな好意が滲んでいる。そうやって言葉よりも雄弁に恋情を示されてしまうと、どうしたって落ち着かない気分にさせられる。
思わず目を逸らしたら、今度は隣にある気配を意識せざるを得なくなった。戸惑うコーデリアの横で、イライアスが悠然とソファに背を預けた。背もたれに頬杖を突いて言う。




