2. 出勤
翌日いつも通りの朝を迎えた。
ジェシカはまどろみの中で朝が来たことに気づいていたが、何年分もの積もり積もった疲労のせいで、なかなか目を開ける決心がつかないでいた。
けれど、隣で寝ているセシルが徐々に覚醒し、もぞもぞと動き始めたので、どうにか目を覚ます。
「おはよう」
セシルのことを軽くハグして本格的に起こす。
毎朝おこなっている儀式だ。
日課にしているにも拘らず、セシルは嬉しくてたまらないといった笑顔になる。
しかしこのハグを本当に必要としているのは、むしろジェシカのほうだった。
セシルの体温は、一日をがんばりきるためのエネルギーとなる。
ベッドからふたり同時に出ると、そこからはテキパキと動きだす。
手早く着替えを済ませ、パンとわずかなチーズ、それからジェシカが魔法で作り出した水で腹を満たす。
魔法学校から合格通知が届いたことの興奮は、とっくにおさまっていた。
「さあ、今日も張り切っていこうね」
「うん!」
盗まれる心配をしなければならないものなどないが、一応部屋に鍵をかけて下宿を出る。
ジェシカはセシルの手を取って通りを歩く。
まず向かうのは幼児保育所である。
町はすでに動き出していた。
人々は早足にそれぞれの目的地へと向かう。
が、時折、その流れを遮るように大きな荷台を引っ張る者や、新聞スタンドの前で足を止める者が混じる。
ジェシカとセシルは道の際の際を歩いた。
大きな石が落ちていたり長い草が生えていたりと、非常に歩きにくい。
子どものセシルにとってはなおさらなのだが、セシルを朝の雑踏から守るためには仕方がない。
セシルの歩幅に合わせて、ジェシカもゆっくり歩く。
ふたりの歩調はぴたりと合っている。
ジェシカはふと、ジェシカとセシルのふたりだけが世界から切り離されているように感じた。
(ああ、でも、実際に私たちはこんなふうに生きてるじゃない)
世間の隅っこで。
もう3カ月もすれば、セシルは魔法学校に入学する。
ますます成長し、いずれはジェシカの手から少しずつ離れていくだろう。
しかし、少なくともあの日から今日までは、ずっとふたりで生きてきた──
ジェシカに夫はいない。
未婚でセシルを妊娠した。
その当時はまだ故郷であるヨルデン州に暮らしていた。
体調の変化を感じ始めたときから、妊娠の可能性に薄々気づいていた。
たった1度とはいえ、心当たりがあったのだから当然だ。
しかし、まさか大丈夫だろう、と自分に言い聞かせて誤魔化し続けた。
そうしているうちに月日が経ち、とうとう誤魔化しきれない段階に至った。
が、まだ若く収入もなかったジェシカ。
子どもの父親には、そのことを告げられる状況にはなかった。
頼れたのは両親だけだった。
それは、とても勇気の要ることだった。
あれほど怖かったことは、後にも先にもない。
必死で涙を堰き止め、震える声で妊娠を告白した。
あのときの両親の顔を、ジェシカはおそらく一生忘れることはないだろう。
怒りと失望と悲しみと心配と──
あらゆる種類の負の感情を湛えていた。
『助けてほしい』と懇願した。
けれど、それに対する両親の答えは、ジェシカの望むそれではなかった。
堕胎するよう言われてしまったのだ。
両親の言い分はもっともだった。
親からの経済的援助を前提に子どもを産みたいなど、まともな考えではない。
しかも未婚でだ。
ジェシカもそれは理解できた。
しかし、どうしても承服できなかった。
まだ見たことのない子ども。
性別すらも分からない。
それでも確かに自分のお腹に存在していて、そして日々成長しているのを感じていた。
ジェシカにとって、すでに慈しむべき存在となっていたのだった。
だからジェシカは、夜中に最低限の荷物だけをもって家を出た。
ノーステリア州の教会を目指して。
ノーステリア州は産業が発達していて、ほかの州に比べて豊かだというのは有名な話だった。
そのお陰で税収を福祉にも回せる余裕がある、とも聞いたことがあった。
路銀は家からくすねた。
すでにこれ以上ないくらいの親不孝者になり下がっているのだ。
さらにもう少しばかり親不孝を重ねたところで、たいして変わりはないだろうと思った。
しかし、道中は自ら決心したこととはいえ、不安しかなかった。
(もし噂が単なる嘘や誇張だったら?)
(縁者も知り合いもいない土地に逃げて、本当にどうにかなるの?)
いざノーステリアの教会に着いてみると、心配は完全に杞憂であることが判明し、ジェシカは逆に驚いた。
そこはまさに噂に聞いていた通りの場所だった。
無事にセシルを出産し、住まいと職を見つけるまでの間、教会付属の保護施設で面倒をみてもらえたのだ。
間違いなく、その頃が、セシルを妊娠してから現在までで最も穏やかに過ごせた時期だった。
そこを出て、自活するようになってからのことは『とにかく大変だった』という感想に尽きるが。
特に始めの頃の記憶は曖昧だ。
細かいことは覚えていない。
産後の体で、安い給金のために日中くたくたになるまで働いた。
にも拘らず、夜は授乳があり、ゆっくり休むことはできなかった。
常に寝不足だった。
その頃を思うと、依然として経済的には厳しいが、体力的にはずいぶんと楽になった。
少なくとも夜は熟睡できているのだから──
保育所の入り口に先生が立っているのが見える。
「セシルくん、おはよう」
「おはようございます! じゃあね、ママ」
元気に保育所の建物の中へ駆けていく。
ジェシカはその背中に向けて声を張った。
「行ってらっしゃーい。今日もみんなと仲よくねー」
セシルは素早く振り返って、母親に手を振る。
けれども、またすぐに向き直ると、パタパタと音を立てて行ってしまった。
ジェシカとふたりのときはジェシカにべったり甘えてくるくせに、今は友達と遊びたいという気持ちでいっぱいなのだろう。
ジェシカはそれを、とても子どもらしいことだし、いいことだと思う。
自分にはもう戻ってはこない時間だ。
だからこそ、セシルには子どもでいられる時間を享受してほしい。
「先生、今日もよろしくお願いします」
「はい、お預かりしますね」
ジェシカはひとりになると、表情をきっと引き締め、ほかの町行く人たちと同じスピードで足を動かし始めた。
セシルを保育所に預けたあとは、職場である工場まで急ぐのみだ。
出産を終えたジェシカが、何のツテもないノーステリア州で職探しをするにあたって、唯一特技にできたのは魔法だった。
そのお陰で、魔道具を製造する工場に就を見つけることができた。
といっても、中等教育までしか受けていない。
魔法使える者は多くないとはいえ、中等教育修了程度で使える魔法ではたいしたことはできず、たいしたお金にはならないのが現実だ。
さらに、働き始めた当初は乳児を抱えていた。
セシルは今でこそ体が丈夫になったが、乳児の頃はしょっちゅう熱を出し、ジェシカはその度に仕事を休まなければならなかった。
給金が安くても、雇い続けてもらえただけ御の字だと思わなければいけない。
そのお陰で、ギリギリの生活とはいえ、春を売る商売に身を落とすこともなく、セシルと生きていけているのだから──
ジェシカは工場の門をくぐる手前で従業員たちの波に合流し、一緒くたになって敷地内へと流れこむ。
門を通過するときは従業員が密集しているが、ひとたび敷地内へ入ってしまえば、人波は一気に分散してしまう。
いくつかあるうちでも特にボロい建屋の一画が、ジェシカの所属する第七班の作業エリアだ。
同僚のマーサとリアナは先に来ていた。
おはようと軽く挨拶をしてから、使い慣れた自分の作業机に着くと、マーサが訊いてきた。
「ジェシカ、昨日はどうだった?」
「昨日?」
「届いたの? セシルくんの結果」
「あっ、ああ、それね。うん、無事に合格したわ」
ジェシカはここのところ毎日のように、『結果がまだ来ないのよ』とグチをこぼしていた。
だから、ジェシカと仲のいいマーサリアナも気にかけてくれていたのだろう。
ふたりは目を見開き、『おめでとう』と言いかけた。
と、そのとき、タイミング悪く工場内にベルの音が鳴り響く。
始業開始の合図だ。
マーサとリアナは残念そうに眉尻を下げ、口の動きだけで『おめでとう』と伝えると、仕事に取り掛かった。
(私もセシルの学費を稼がないとね)
ジェシカは、足元に置いてある木箱から、おもむろに空っぽのガラス製の容器をひとつだけ取り出した。
蓋はきっちりとは締まっていない。
落ちない程度に軽くかぶせてあるだけだ。
それを開けると、魔法で容器を水で満たした。
そうして蓋をしたあとで、しっかりと魔法のシールで固定する。
一切の空気が残る余地も許してはならない。
そうすることで清浄な水を長期保存できるのだ。
医療施設や、旅行者、冒険者などに需要があるそうだ。
しかし、売り値はたいして高くない。
所詮はただの水だから。
魔法で作り出さなければならないものではない。
価格を上げれば買い手がいなくなってしまう。
ジェシカは黙々とガラス容器に水を張り続けた──




