第四十七話 父と、継母《けいぼ》、和解と、決別
シャティヨン伯爵邸、執務室。
伯爵は机に向かい、二通の書類を広げていた。羽根ペンを握った手が、さっきから同じ行を行ったり来たりしている。
ノックの後、セレスティーヌが入ってくる。
「お父様、お呼びですか」
「うぅむ、ティナ、座りなさい」
椅子に腰を下ろす。背筋を伸ばす。二十年、外来で染みついた姿勢だ。
「ティナ、お前の結婚が決まったな」
「はい」
「お父さんは、お前を誇りに思う」
羽根ペンが、机の上に転がる。乾いた音。伯爵の目が、光った。
「お父様……」
「だが、ティナ。家庭内に、まだひとつ問題が残っている」
「アガト様のことでいらっしゃいますね」
伯爵は深く頷いた。
「お前の改革で社交界の評判が上がっていく間、アガトは贅沢を加速させた。シャティヨン家の財政は傾きかけている」
セレスティーヌの中で、四十年分の経理感覚が、静かに目を覚ます。これは、家庭問題ではない。経営問題だ。
「お父様、私の信託をお使いください」
「ティナ、それはお前の夢のための金だ」
「お父様、家の財政が傾けば、私の夢も続きません。どうかお使いください」
「ティナ……」
伯爵の声が湿る。(交渉はまだ途中でしょう、真理子)
「ですが、お父様。条件がございます」
「うぅむ?」
伯爵の背筋が伸びる。娘の声の温度が変わったのに、気づいたらしい。
「アガト様には、シャティヨン家からお別れいただきます」
伯爵は、答えなかった。
窓の外で、鳥が一声鳴いた。
「お前、本気で言っているのか」
「ええ、本気です」
「アガトは、私の二度目の妻だ」
「お父様、私はアガト様を敵に回すつもりはありません。ですが、味方にもなれないと、申し上げたはずです」
「そうか、そうか」
「離縁ではなく、別居で十分でございます。アガト様のご実家はご裕福ですもの。別邸で、悠々とお暮らしいただきましょう」
伯爵の眉が、わずかに緩む。安堵だ。
「そうか」
「分かった、ティナ。お父さんが決めよう」
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伯爵の署名がまだ乾かないうちに、アガトが執務室へ踏み込んできた。
「これは、どういうことですの」
絹の裾を掴んだ手が、震えていた。
「アガト様、お聞きになりましたのね」
「お前が入れ知恵したのでしょう、ティナ。昔から、そういう子だったわ」
「入れ知恵ではございません。家の財政をお救いする条件を、お父様にご相談申し上げただけです」
「財政、財政。お前はいつもそれね。私はシャティヨン伯爵夫人よ。この立場にふさわしい暮らしをして、何が悪いというの」
アガトは扇を握る手に力を込めた。
「悠々自適な別邸暮らし? 結構だわ。ですけれど、格下げされたと社交界に思われるのは、私は御免よ」
「アガト様……」
「覚えておきなさい、ティナ。私を追い出したこと、いずれ後悔させて差し上げるわ」
アガトは扇を鳴らして踵を返すと、振り返ることなく執務室を出ていった。
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その日のうちに、正式な別居が成立した。アガトは、荷物三十個を馬車に積んで去っていく。見送りは、誰もいなかった。シャティヨン家の財政は、セレスティーヌの信託によって、静かに立て直しが始まった。
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夜、自室のベッド。セレスティーヌは仰向けになり、天井を見つめた。
蝋燭の炎が、揺れている。
家庭の懸案が、また一つ消えた。
指先で、灯りをそっと消す。
暗闇の中、セレスティーヌはひとつ、微笑んだ。




