第三十五話 ヴィクトール、行動
ラファエルの求愛の噂は、たちまち王都を駆け抜けた。
その夜、モンテーニュ侯爵邸の書斎で、ヴィクトールは机を拳で叩いた。
「サン・ジュスト卿、ついにお申し出になったか」
家令のジルが、青ざめた顔で頷いた。
「左様でございます。シャティヨン家のお嬢様のお返事は、一ヶ月後とお聞きしております」
「一ヶ月」
ヴィクトールは深く息を吐いた。
何年でも待つと誓った。だが、それは黙って指をくわえて待つという意味ではない。
「ジル」
「はっ」
「私は明朝、シャティヨン伯爵邸に出向く」
「ヴィクトール様、それは無理がござ――」
「無理を押す」
「お、お嬢様は、すでに一ヶ月のお考えの時間を――」
「ジル」
ヴィクトールは立ち上がった。
「私は一年、お待ちすると伝えた。だが、いま、それを撤回する」
「と、おっしゃると?」
「私は、お返事をいただくのではない」
「はっ?」
「彼女に、お示しに行く。私が、彼女と共に生きたい男であると」
ヴィクトールは深く息を吸った。
「私はもう、空回りしない」
ジルは、恭しく一礼した。
---
翌朝、ヴィクトールはシャティヨン伯爵邸の門の前に立っていた。
「ヴィクトール・ド・モンテーニュと申す。シャティヨン家のお嬢様にお会い申し上げたい」
門番は戸惑いの顔で屋敷へ走った。
---
セレスティーヌは朝の執務室で、産科日誌をつけている最中にその報せを受けた。
「ヴィクトール様が、いま門に?」
「左様でございます。お一人で、馬でいらしております」
セレスティーヌの頬が、みるみる赤く染まった。
――違う、これは動悸だ。四十路の血圧のせいだ。
そう言い聞かせるほど、頬はますます熱くなった。
「お通ししなさい」
「畏まりました」
応接間にヴィクトールが通され、セレスティーヌが降りてきた。
「ヴィクトール様」
「セレスティーヌ嬢」
二人の目が合った。
ヴィクトールは歩み寄り、セレスティーヌの両手を取った。
「セレスティーヌ嬢」
「そう……」
――令嬢らしい相槌ひとつ、四十年生きても身につかない。
「貴方を、私の妻として迎えたい」
セレスティーヌは息を止めた。
――ヴィクトール様が、おっしゃった。
――ついに、おっしゃった。
「ヴィクトール様、お顔を上げてくださいまし」
「いえ。これは、求愛にございますので」
ヴィクトールはしっかりと両手を握ったまま、顔を伏せていた。
「サン・ジュスト卿に先を越されました。ですが私は、貴方の過去ごとお慕い申し上げております」
「……」
「あの仮面の下で過ごされた十二年間も含めて、私は貴方のすべてをお慕いしたい」
「……ヴィクトール様」
「お返事は、いただかなくて結構です。今日は、申し上げたかったことを申し上げに参りました」
ヴィクトールは丁重に一礼し、応接間を退出した。
セレスティーヌは応接間に一人、立ち尽くした。
手のひらに、まだ彼の体温が残っている。
耳の奥で、鼓動が速まるのが分かった。
――これは動悸だ。断じて、違う。
そう思うそばから、頬はまだ熱かった。




