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婚約解消されたオバカ令嬢、前世を思い出す  作者: 鷹居鈴野


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第十八話 流行、雪崩

 ベル・エトワールが開店して、二週間が経った。

 開店前から列ができる美容室など、王都のどこにも存在しなかった。

 新規の来店客、二百名。

 そのうちボブヘアに整えた女性、百十二名。


 数字だけ見れば、もう革命だった。


---


 夕方の執務室。

 ロザリーが震える指で帳簿を抱きしめ、立ち尽くしていた。


「……お嬢様」ロザリーの声が、かすれていた。


「ロザリー、落ち着いて」


「お嬢様、これ……これ、すごいことです」


「うん、すごいわね」


「私、店長でございますが、もう一人ではお客様を捌ききれません」


「マチルダさんがいるじゃない」


「マチルダさんも、もう夜はふらふらでいらっしゃいます」


 セレスティーヌは扇を開いた。ぱちり、と。まるで診察を締めくくるときの仕草で。


「では、人を雇いましょう」


「人? どんな人を?」


「平民街の若い女性。手先が器用で、目が優しくて、家計を自分で立てる必要がある人」


「お嬢様、心当たりが……たくさん、ございます」


「ふふ、では、お願いするわ」


 扇が、ぱちんと閉じた。交渉成立の合図のように。


---


 その夜、ベル・エトワールの相談室で、ガイウス薬師がセレスティーヌに報告した。


「お嬢様。過去二週間で相談室を訪れた女性は、計百三十五名です」


「そう」


「内訳は、月経の相談が四十五名、妊娠の相談が二十八名、産後の相談が十九名、避妊の相談が十五名」


「なるほど」


 この「なるほど」は、令嬢の相槌にしては、いささか重すぎる。ガイウスは毎回それに気圧されながらも、報告を続けた。


「そして——それ以外が、二十八名」


「と、いうと?」


「家庭内暴力の痕跡をお持ちの女性が、二十八名おります」


 セレスティーヌの表情が、静かに固まった。扇を持つ指先に、力が入る。


「……ガイウス」


「はい」


「そういう方々を、私たちはどうお助けできるかしら」


「お嬢様、それは医療の範囲を超えております」


「そうね」


「ですが、サン・ジュスト公爵令息様とご相談すれば、隠れ家を別途ご用意できる可能性が——」


「ガイウス」


「はい」


「すぐにご相談いたしましょう。これは放っておけない」


「畏まりました」


 緒方真理子として、四十年、家庭内暴力の犠牲者を何人も見送ってきた。産婦人科医とは、誰よりもそれを知る職業だ。

 まさか、ここでもこの戦いをすることになるとはね——。


 セレスティーヌはペンを取り、新しい事業計画書に一項目を書き加えた。


> 「ベル・エトワール 隠れ家構想」

>

> ・家庭内暴力の犠牲者の女性と、その子供の保護

> ・サン・ジュスト公爵家領地内の、使われていない別邸を複数活用

> ・保護後は自立支援。ベル・エトワール、ベル・サンテ、看護師職業学校への就業支援

> ・予算はシャティヨン家とサン・ジュスト家の両家で折半

> ・保守派からの攻撃を想定し、秘密の保持を最優先とする


---


 翌週、王宮のサロン。ボブヘアの王太子妃が、社交界最高位の貴婦人二十名を招いてお茶会を開いた。

 それから二週間後には、王宮の貴婦人たちの半数が、ボブヘアになっていた。


 社交界の日刊紙——王都通信には、連日このような見出しが躍った。


> 「ボブヘア、社交界を席巻する」

> 「シャティヨン家のお嬢様、新しい女性の姿を創出」

> 「美容と医療、王国初の融合空間」

> 「貴族令嬢、産婆さんばを雇う新時代の到来」


 セレスティーヌ・ド・シャティヨンの名は、いつしか「希望の名」と呼ばれるようになっていた。


 ――大層な二つ名だこと。緒方真理子としては、ただの外来診療の延長のつもりなのだけれど。


 その噂は、もちろんヴェルニエ侯爵の書斎にも届いていた。


---


「……馬鹿げている」


 ヴェルニエ侯爵は新聞を握りつぶした。


「あの女、髪を切られて社交界から消えるはずだったのだぞ」


「閣下、それが——」


 部下が、震える声で報告した。


「あれが、流行になってしまいまして」


「分かっている」


「今後、いかが致しましょうか」


 ヴェルニエ侯爵はしばらく新聞を見つめ、それから低く笑った。


「あの女、もはや社交界の流れそのものになったか」


「左様でございます」


「ふん。流れは、変えればよい」


「と、おっしゃると?」


「あの女の医療事業を、王命で止める」


「閣下、王宮の保守派の長老方に、もはやそれだけの説得力は……」


「ならば、保守派を結集させる。次の議会期で、産科法の議論そのものを潰す」


 ヴェルニエ侯爵は新聞をろうそくの火にかざした。紙の端が、じりじりと黒く縮れていく。


「あの女は、必ず潰す」


「閣下」


「見事勝ちきったと思っているなら——その自惚れを、私が削ぎ落としてやる」


 炎が、見出しの一文字ずつを舐めていった。

 「シャティヨン家のお嬢様」の文字が、灰になって崩れた。

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