閑話⑧ 短くなった、君を 〜ヴィクトール視点〜
その夜、ヴィクトールは書斎にいた。片付けかけの書類を前に、ペンを置いたところだった。
そこへ家令のジルが、慌ただしく駆け込んできた。
「ヴィクトール様、火急の知らせでございます」
「何だ?」
「シャティヨン家から密使が参っております。お嬢様が誘拐された、と」
「……なんだと?」
ヴィクトールは椅子から跳ね上がった。
「誘拐?」
「はい。つい先程、王都北の路地で馬車を襲われ、お嬢様が連れ去られたそうです」
「ロザリー嬢は」
「ご無事です。お嬢様がロザリー嬢を馬車に残し、ご自身お一人で刺客たちについて行かれた、と」
「……彼女らしい」
「シャティヨン家、サン・ジュスト家の両家、いま護衛団総動員で捜索中でございます」
「ジル」
「はい」
「私の馬を出せ」
「ヴィクトール様、それは――」
「行く。出せ」
ジルはわずかに迷ったあと、深く礼をして走り出した。
ヴィクトールは剣掛けから自分の剣を取り、その柄に軽く口づけた。
――頼む。彼女のもとまで、私を最も速く運んでくれ。
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ヴィクトールはシャティヨン家の密使から、可能な限りの情報を聞き出した。
「捕らえに来た者たちは、ヴェルニエ侯爵派の刺客かと思われます」
「行き先の心当たりは」
「侯爵様の屋敷へお連れになるとは考えにくく――」
「では、別の隠れ場所か」
「王都北のはずれに、廃工場がいくつかございます。サン・ジュスト家が現在、そこを虱潰しに調査中です」
「ふむ」
ヴィクトールは頷き、馬を駆った。
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夜の王都に、雨が降っていた。
ヴィクトールは馬上で、震える手に手綱を握っていた。
――頼む。彼女を、無事でいてくれ、セレスティーヌ。
――婚約を解消した私が、いまお前を捜している。お前から見れば、滑稽な光景だろう。だが。
――お前を護りたい。お前を護れる男に、私は戻りたい。もう二度と、お前を独りにしない。そう神に誓う。
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王都の北。ヴィクトールは何件目かの廃工場の前で馬を止めた。奥からわずかに灯りが漏れている。
馬を降り、剣を抜く。雨音に紛れさせながら、息を整えた。
――いる。彼女はここにいる。
扉に近づき、力任せに蹴り破る。
「セレスティーヌ!」
声が廃工場に響いた。
灯りの奥のテーブルに、束になった長い金色の髪。切られたそれが、力なく丸まっていた。
テーブルの前に、女が立っている。
セレスティーヌ。肩で揃った、短い髪。
剣を握る手が、止まった。
――髪が、切られている。肩で揃うほど短く。
――これは……いったい、何だ。
セレスティーヌが振り返った。ろうそくの灯りが、その顔を照らす。
短くなった髪が頬をかすめ、顎の線があらわになった。首筋が、雨にかすかに濡れている。
――ヴェルニエ派の暴挙だ。社交界における侮辱だ。断じて許してはならない。
頭の中では、そう組み立てたはずだった。
その理屈は、彼女がふと目を伏せた瞬間、跡形もなく消えた。
――可愛い。
二十一年かけて積み上げてきた誠実さと分別が、たった一房の髪に、無条件降伏した。
ヴィクトールは口を開いた。何か言おうとして――言葉が、出てこない。
「……ヴィクトール様?」
セレスティーヌがほんの少し首を傾げると、短い髪が揺れた。
――それは、反則だった。
「セレスティーヌ」
ようやく、声を絞り出す。
「無事か」
「ええ、無事ですわ」
「……髪は」
「ええ、切られましたわ」
「……」
「ふふ、お見苦しいかしら、ヴィクトール様」
――見苦しいわけがない。お前はいま、世界でいちばん可愛い女だ。
ヴィクトールは剣を握る指に力を込め、口の中で唾を飲み込んだ。そして、ようやく答えた。
「……無事で何よりだ」
「ふふ、ありがとうございます」
セレスティーヌが軽く礼をする。短い髪が、また頬をかすめた。
ヴィクトールは、その一房から目を離せなかった。
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廃工場の奥から、刺客たちはすでに逃走していた。扉を蹴り破る音を聞いて、即座に退散したらしい。
ヴィクトールは剣を鞘に収め、セレスティーヌに近づいた。
「お疲れでしょう」
「ええ、まあ」
「外に馬車を用意した。サン・ジュスト家の護衛も、まもなく到着する」
「サン・ジュスト家とおっしゃると、ラファエル様ご自身も?」
「ああ」
「……ありがとうございます」
セレスティーヌが、わずかに微笑んだ。
媚びも作り物めいた甘さもない、凛とした笑み。二週間前、観劇の夜に別人になってから見せ始めた顔の中でも、いちばん美しい一つだった。
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馬車に乗り込む前、ヴィクトールは深く息を吸った。
「セレスティーヌ」
「……はい?」
「貴方の髪は」
「……はい」
「短くて、よく似合っている」
セレスティーヌの頬が、ほんのり色づいた。
――また頬が赤くなった。私を見ると、彼女はいつもこうなる。
――これは私だけが見られる姿だ。
――彼女を、もう二度と誰にも渡したくない。
ヴィクトールの中で、最後の疑念が、最後の冷たさが――ぱきりと割れた。
「ヴィクトール様」
「……何だ」
「お顔色が、お悪くなられましたわ」
「いえ、何でもない」
――彼女に心配されている。たった二週間前、私が婚約を解消した女に。
――私はいつから、こんなに好きだったんだ。
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馬車の中、ヴィクトールは向かいの席のセレスティーヌの横顔を、一度も見られなかった。
シャティヨン伯爵邸まで護衛し、別れるその瞬間まで、彼は一言も発せなかった。
剣を抜いて敵陣に踏み込んだ男が、いまはただ、床の木目を数えている。
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書斎に戻ったヴィクトールは、胸のポケットから、彼女の別れの手紙を取り出した。たった一枚のそれを、ろうそくの火に近づける。
――燃やそう。こんな別れの手紙など、燃やしてしまえ。
――いや、燃やせない。これは彼女の決別の宣言だ。
――ならば私は、これを燃やすのではない。覆すんだ。
手紙をろうそくから離し、胸のポケットにそっと戻す。
彼は初めて、声に出して呟いた。
「次に彼女に会ったら、私は必ず伝える。……貴方を、まだお慕いしている、と」
雨が上がった王都の空に、朝の最初の白い光が、差し始めていた。




