閑話④ 舞踏会の彼女、頬の赤さ 〜ヴィクトール視点〜
それは、王宮主催の、春の舞踏会だった。
ヴィクトールは、本来、出席する予定では、なかった。
婚約解消したばかりの男が、社交界の、最大の華やかな場に、顔を出すのは、不自然だった。
父も、母も、控えるよう、勧めた。
しかし、ヴィクトールは、出席した。
理由は、自分自身でも、上手く、説明できなかった。
——いや、説明、できる。
——あの女が、来る、と、聞いた。
——シャティヨン家の、令嬢として、出席する、と。
——……それと、
——……サン・ジュスト公爵令息も、出席する、と。
王宮の、大広間。
シャンデリアが、煌々と、燃えていた。
楽団が、優雅な、舞踏曲を、奏でていた。
貴族たちが、輪を、作って、踊っていた。
ヴィクトールは、広間の隅で、ワイングラスを、持ったまま、立っていた。
——あの女、まだ、来ていないのか。
時計を、見た。
すでに、開始から、半時。
普通の令嬢なら、もう、到着している頃合いだった。
——遅刻、するつもり、か。
——派手な登場で、目を、引こうと、しているのか。
——おバカ令嬢ティナなら、必ず、そう、する。
しかし、それは、変わったらしいセレスティーヌでは、ない筈だった。
「ヴィクトール、なぜ、隅で、一人、立っている」
声を、かけられた。
ヴィクトールは、振り返った。
旧友の、レオン・ド・ヴァロワだった。
伯爵令息、社交界の華やかな青年。
「やあ、レオン」
「お前、解消後、初の、社交界出席だろう。もう少し、堂々と、振る舞え」
「うむ」
「いや、というか、なぜ、来た。お前、こういう場、好きじゃないだろう」
「……たまには、いい」
「ふん」
レオンが、ニヤリと、笑った。
「お前、本当は、シャティヨン家のお嬢様が、気になっているんだろう」
「は?」
「いや、いいんだ、隠さなくても。私は、お前の、旧友だ。皆、お前の気持ち、察している」
「レオン、私は——」
「ヴィクトール」
レオンが、わずかに、声を、低めた。
「あのお嬢様、お前が、解消したのが、信じられないほど、変わったぞ」
「……噂は、聞いている」
「いや、噂じゃない。私、実際に、先週、シャティヨン伯爵主催の、内輪のお茶会で、お会いした」
「……どうだった?」
「あのね、別人だ」
「別人」
「うん。別人。雰囲気が、まず、違う。落ち着いている。話す、内容が、深い。社交辞令だけじゃない。本当の関心を、相手に、寄せている。そして——」
レオンが、ワインを、軽く、揺らした。
「平民への、視線が、ない」
「視線が、ない、とは」
「軽蔑も、優越感も、ない。皆、同じ人間として、見ている、ような目だ。昔とは大違いだ。別人だよ」
ヴィクトールは、ワイングラスを、強く、握った。
——……。
——……。
——別人、か。
——皆、口を、揃えて、そう言う。
「ヴィクトール、私、お前に、忠告するが——」
レオンが、彼の肩に、軽く、手を、置いた。
「もし、お前が、彼女を、取り戻したいなら、急いだ方がいい」
「……?」
「彼女、サン・ジュスト公爵令息と、頻繁に、書状を、やり取りしている、と、社交界中で、噂だ。今日も、二人、揃って、入場する、らしい」
ヴィクトールの心臓が、わずかに、軋んだ。
——揃って、入場?
——婚約者でも、ないのに、揃って、入場?
——……。
——いや、医療の話題で、書状を、交わしているだけ、と、聞いていたぞ。
「揃って、というのは、どういう意味だ」
「サン・ジュスト公爵令息が、シャティヨン伯爵邸まで、馬車で、お迎えに上がって、ご一緒に、王宮まで、お越しになる、と」
「……」
「お前、まあ、解消したのは、お前だ。だが、解消したからって、彼女が、ほかの男に、手を、出されないとは、思っていなかった、よな?」
ヴィクトールは、答えなかった。
レオンが、軽く、肩を、すくめて、離れていった。
ヴィクトールは、その場に、立ち尽くした。
ワインの、味が、しなかった。
—-
そのとき、入場の、銅鑼が、鳴った。
「ご来場——サン・ジュスト公爵家、ご嫡男、ラファエル様。並びに、シャティヨン伯爵家、ご令嬢、セレスティーヌ嬢」
大広間の人々が、入り口の方を、振り返った。
ヴィクトールも、振り返った。
そして——
——息が、止まった。
—-
セレスティーヌが、立っていた。
藍色の、ドレス。
深い、夜空のような、藍色。
襟元と、袖口に、銀の、刺繍。
胸元に、慎ましやかな、真珠。
派手な薔薇色も、扇のひらひらも、ない。
化粧も、必要最低限の、品の良い、軽さ。
それなのに、
それなのに——
広間の、すべての人の、目が、彼女に、釘付けに、なっていた。
なぜなら、彼女が、立っていた、ただ、それだけで、
そこに、
ある種の、
凛とした、
光が、
存在していたから。
おバカ令嬢ティナでは、断じて、なかった。
その隣に、ラファエル・ド・サン・ジュスト。
銀の髪。
金の瞳。
公爵家の、礼装。
二人の衣装の色が、相互に、引き立て合っていた。
藍と、銀。
まるで、夜空と、月。
ヴィクトールは、ワイングラスを、強く、握った。
ガラスが、軋んだ。
——……。
——……揃って、衣装の色、合わせている。
——あの女、サン・ジュスト公爵令息と、衣装の色を、合わせて、揃って、入場している。
——婚約者の、入場、そのもの、ではないか。
入場した二人は、まず、王太子妃に、礼を、した。
それから、シャティヨン伯爵と、サン・ジュスト公爵に、続いて、礼を、した。
そして、セレスティーヌが、扇を、わずかに、開いて、広間を、見渡した。
その視線が、
ヴィクトールに、
止まった。
—-
二人の目が、合った。
たった、一瞬。
しかし、その一瞬で、ヴィクトールは、すべてを、見た。
セレスティーヌの、頬が、
瞬時に、
紅潮した。
—-
ヴィクトールの心臓が、強く、跳ねた。
——あ。
——いま、頬が、赤くなった。
——間違いない。
——彼女、私と、目が、合った瞬間、頬が、赤くなった。
——……。
——……、いや、待て。
——演技?
——いま、ここで、頬を、赤くする、演技?
——……できるものか、頬を、赤くする、演技?
セレスティーヌは、すぐに、視線を、外した。
扇で、口元を、隠した。
ラファエルが、何か、彼女に、囁いた。
彼女が、何か、答えて、二人は、広間の中央に、向かって、歩き始めた。
ヴィクトールは、その場で、固まっていた。
——いまの、頬の、赤さは、
——なんだ。
——私を、見て、赤くなった、のか。
——なぜ?
——なぜ、私を、見て、赤くなる?
ティナは、彼を見て、頬を、赤らめたことが、何度か、あった。
彼女が自分を見つめる目にはいつも恋の熱があった。
しかし、
今夜の、頬の赤さは、
違った。
無意識の、生理的反応、そのもの、だった。
——本物の、紅潮、だった。
—-
「ヴィクトール、あなたも、ご挨拶に、お行きなさいな」
母の声が、隣で、聞こえた。
ヴィクトールは、母の方を、見た。
「母上、私は——」
「行きなさい」
母が、扇を、軽く、振った。
「彼女、サン・ジュスト公爵令息と、出席している、というのは、社交界の、儀礼の話、ね。婚約は、まだ、決まっていない。あなた、まだ、機会を、失っていないわよ」
「……母上、私は、解消した、当事者です」
「あら、そうね」
母が、軽く、笑った。
「では、せめて、形だけでも、解消の挨拶を、なさい。社交辞令、というやつ、よ」
そう言って、母は、自分の腕を、彼の腕に、軽く、絡めた。
「お母様と、一緒に、行きましょう。それなら、不自然じゃ、ないわ」
——……。
ヴィクトールは、母に、引かれて、広間の中央に、歩き始めた。
セレスティーヌと、ラファエルは、すでに、王太子妃と、何か、談笑していた。
ヴィクトールが、近づくと、母が、軽く、声を、かけた。
「シャティヨン家の、お嬢様、ご機嫌よう」
セレスティーヌが、振り返った。
母の隣の、ヴィクトールを、見た。
彼の知る、見慣れた、眉。
黒髪。
灰色の、瞳。
セレスティーヌの、頬が、
ふっ、と、
赤くなった。
——また、赤くなった。
——いま、また、赤くなった。
ヴィクトールは、内心で、息を、止めた。
「モンテーニュ侯爵夫人、ご機嫌、麗しく」
セレスティーヌが、丁寧に、礼を、した。
「ご令息様も、お久しゅう、ございます」
声に、震えは、ない。
顔は、いつもの、上品な、微笑み。
——だが、頬は、赤い。
——確実に、赤い。
「ご令嬢、お元気そうで、何よりだ」
ヴィクトールが、何とか、言葉を、絞り出した。
「おかげさまで、ヴィクトール様」
セレスティーヌは、礼儀正しく、応えた。
そして——
すぐに、視線を、隣の、ラファエルに、戻した。
ヴィクトールには、もう、一切、目を、向けなかった。
「ラファエル様、では、踊りに、参りましょうか」
「ええ、セレスティーヌ嬢」
ラファエルが、彼女の手を、取った。
二人は、舞踏の輪に、加わった。
ヴィクトールは、その場に、立ち尽くした。
母が、軽く、彼の腕を、引いた。
「ヴィクトール、行きましょう」
「……母上」
「うん?」
「母上、いま、お嬢様の、頬が、赤くなった、ように、見えませんでしたか」
「あら、あなた、お気付きになりまして?」
「気付くも、何も——」
「ええ、そうね、お嬢様、あなたを、ご覧になるたびに、赤くなる、お嬢様、本当に、可愛いお方ね」
母が、軽く、笑った。
「あなた、解消なさったけれど、お嬢様は、まだ、あなたを、お気持ちに、お持ちなのよ、ヴィクトール」
ヴィクトールは、答えなかった。
母に、引かれて、別の貴族たちに、挨拶に、回った。
しかし、彼の頭の中は、ぐるぐると、回っていた。
——彼女、
——本当に、私を、見て、赤くなった。
——あれは、演技、ではなかった。
——では、なぜ。
——なぜ、彼女、私には、素っ気ないのに、頬は、赤くなる?
——なぜ、私を、避けながら、頬だけは、隠せないんだ?
——……。
——……ヴィクトール、それは、それは、つまり、
——彼女は、まだ、お前を——
——いや、
——いや、待て、
——いや、考えるな。
——考えるな、ヴィクトール。
——考えると、後悔する。
——考える、と——
—-
舞踏会の、半ばで、ヴィクトールは、思い切って、セレスティーヌに、近づいた。
ラファエルが、たまたま、王太子に、呼ばれていて、彼女が、一人で、ワインを、飲んでいる時を、狙った。
「セレスティーヌ嬢」
声を、かけた。
セレスティーヌが、振り返った。
「……ヴィクトール様」
彼女の、頬が、また、赤くなった。
「一曲、お相手、願えるか」
ヴィクトールは、勇気を、出して、手を、差し出した。
セレスティーヌは、しばらく、彼の手を、見つめた。
それから、扇を、軽く、開いた。
「あら、申し訳ありませんわ、ヴィクトール様」
「……うむ?」
「私、次のお相手、もう、お約束しておりますの」
「……」
「ラファエル様、と」
セレスティーヌは、軽く、微笑んだ。
「またの、機会に、お願い、申し上げますわ」
そう言って、扇で、口元を、隠して、彼女は、王太子の方に、視線を、向けた。
ラファエルが、王太子に、何か、答えて、彼女の方に、戻ってきていた。
ヴィクトールは、差し出した手を、ゆっくりと、引っ込めた。
そして、礼を、して、その場を、離れた。
—-
広間の、隅で、
ヴィクトールは、再び、ワインを、飲んだ。
味は、しなかった。
——彼女、私を、見ると、頬は、赤くなる。
——だが、私が、近づくと、避ける。
——私が、踊りを、申し込むと、断る。
——他の男と、踊る。
——……分からない。
——あの女、何を、考えている?
——私を、まだ、想っているなら、なぜ、断る。
——想っていないなら、なぜ、赤くなる。
——演技でないなら、なぜ、矛盾している?
ヴィクトールは、ワインを、空にした。
そして、そのまま、舞踏会の、退場の、刻限を、待たずに、
王宮を、
退出した。
—-
馬車の中で、
彼は、額に、手を、当てた。
「演技なら、もっと、アピールするはず、だ」
「演技でないなら、なぜ、頬が、赤くなる」
「演技でないなら、なぜ、私を、避ける」
「演技でないなら——」
「演技、で、ないなら——」
馬車の、轍の、音が、深く、響いた。
その夜、ヴィクトールは、また、眠れなかった。
引き出しの中の、彼女の、たった一枚の、手紙を、何度も、取り出して、何度も、しまった。
「ご多幸を、お祈り、申し上げます」
その、一行を、なぞった指が、ほんの、少しだけ、震えていた。




