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婚約解消されたオバカ令嬢、前世を思い出す  作者: 鷹居鈴野


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1/63

プロローグ 不死鳥の歌

馬車の扉が開いた瞬間、セレスティーヌは扇を三分の一だけ開いた。


目元に影を落とす角度。今夜のために、鏡の前で何度も確かめた角度だった。


夜の王都に、満月が浮かんでいる。


月まで、今夜だけは私のために輝いているような気がした。そのくらい、今夜の自分には自信があった。


誰に見せるでもなくそう独りごち、彼女は石段を降りた。踵の高い靴で危なげなく、本人としては社交界一優雅な降り方のつもりだった。


劇場の名は、ベル・ロワ・カーヴ。


古い言葉で「洞窟」と「星」。最近では若い令嬢たちが扇の陰で口を揃えて噂する場所だ。婚約者と話題の劇場に一緒に行こうと、今夜のドレスも靴も、この一夜のためだけに誂えた。


美しい容姿にこそ誇りを持ち、それこそが自分の価値のすべてだと信じていた。美しく着飾ること。誰より愛されること。セレスティーヌの世界は、その二つでほとんど出来ていた。恋に浮かれ、恋に泣き、恋こそがすべてだと信じて疑わない。星の数ほどいる、そんな令嬢の一人だった。


美しいものは好き、美しくないものは嫌い。それだけの、単純な物差ししか持たなかった。身分の低い者には見下すような目を向け、身分の高い者には愛想よくすり寄る。絵に描いたような差別主義者でもあった。


顔と装いにかける自信の分だけ、中身は驚くほど空っぽだった。難しい話をされればすぐに欠伸を噛み殺し、政治や経済の話題が出れば愛想笑いでやり過ごす。知的な会話など、生まれてこのかた、まともに交わした試しがなかった。


---


劇場のエントランスは、両開きの扉がすでに開かれていた。


銀と水晶のシャンデリア。白と紺の大理石が星座を模した床。壁際にはビロード張りの椅子が並び、ロビーは息もできないほどの貴族で埋まっている。


「セレスティーヌ嬢、ご機嫌麗しゅう」


通りすがりの伯爵令息が軽く頭を垂れる。


「ええ、ご機嫌よう」


セレスティーヌは扇をひらりと振った。(今、絶対に見惚れていたわね。ふふ)


伯爵令息はもう三歩先の令嬢に会釈していた。


派手な薔薇色のドレス。胸元には大粒のエメラルドと真珠。金の長い髪は丁寧に編み上げられ、宝飾の髪留めで飾られている。本当は、ヴィクトール様に見せたかった装いだった。けれど、振られたくらいで落ち込んだりしない。この美しさを見せつけて、私を捨てたヴィクトール様を、いつか振り向かせてやる。


「ねえティナ、すごい人ね、これ」


隣でマルゴが扇の影で囁いた。


「今日の観客、とんでもない人数だわ」


「噂通りだったのね。最近の社交界、ベル・ロワ・カーヴの話しかしていないもの」


「で、今日は何をやるんだったかしら」


「不死鳥よ」


「ああ、不死鳥。なんでも、獣人が主役を務める舞台なんですって」


「あら、随分詳しいのね」


セレスティーヌが扇の影で笑った。


「私たち、ベルロワ子爵家ご贔屓のお席をいただいているのよ。噂では、暁色の、稀少な獣人だとか」


「獣人? 獣人を舞台に?」


「そうらしいわ」


マルゴがわずかに眉を寄せた。


「獣人を舞台で見るために、貴族がこれだけ押し寄せるのね……。なんだか信じられないわ」


まあね。私たちは獣人を家畜のように扱う文化だもの。奴隷として売り買いされることだってある。その獣人が貴族の社交界で観劇の主役になるというのは、ちょっと斬新な光景ね。


---


席に案内された。


客席は扇形に広がり、舞台の中央を神殿の聖壇のように見上げる造りだった。真ん中の特等席は王太子妃殿下のお席と伺っている。セレスティーヌとマルゴの席は、その二段上の貴族用上席だった。


深く座り、天井を見上げる。


漆喰に星座が彫られ、その輪郭に小さな魔石が光っていた。


まあ。夜空を室内で再現しているのね。貴族令嬢が卒倒しそうになるロマンの極みじゃないの。


「ねえティナ、見て見て、あの天井」


「ええ、見ているわ」


「すごいわよね、見事な装飾」


「ええ、見事」


お父様は、領地の収益ではこういう装飾にお金を使えないっていつもおっしゃっていたわ。子爵家、最近本当に儲かっているのね。シャティヨン家は伯爵家なのに、近頃はベルロワ子爵家の方がよほど羽振りがいいなんて、癪だわ。


まあいいわ。私にはヴィクトール様が——


いえ。


ヴィクトール様は、もう私のものではないんだった。


なんでこんな夜空の下で、振られたことを思い出しているのかしら。


セレスティーヌの心臓が、ちくりと痛んだ。


「ねえティナ」


マルゴが心配そうに囁いた。


「私が来てよかったの?」


「チケットもったいないじゃない」


「……ティナ、強がりすぎるわよ」


「強がりじゃないわ。ただ、舞台に罪はないもの」


軽薄に笑ってみせる。扇の影で唇を噛んだ。


朝のことだった。モンテーニュ侯爵邸の応接室で、幼馴染が静かに告げた。


——もう君とは無理だ、セレスティーヌ。


ヴィクトール。五歳のとき両家が証印を押した、あの黒髪の少年。庭で彼の背中を追いかけ回した十二年。不機嫌そうな顔で、それでも振り返ってくれたあの肩。


私が好きだった、あの顔。


「いいのよ、マルゴ」


扇の奥でセレスティーヌは微笑んだ。


「あの程度の男、世界中に星の数ほどいるわ」


嘘だった。彼女の知る世界に、ヴィクトールの代わりはいなかった。けれど、ここで泣くわけにはいかない。シャティヨン伯爵家の長女、セレスティーヌ・ド・シャティヨン。社交界の華と呼ばれる女が振られたくらいで取り乱しては、笑い者だ。


「ねえティナ、今日の不死鳥の噂、聞いた?」


マルゴが話題を変えようとする。優しいマルゴ。


「美形らしいわよ。それもため息が出るくらい、涙が出るくらい、下手をすれば気絶するくらいの衝撃なんですって。私のお友達、先週観たそうで、目を見た瞬間に扇を取り落としそうになったって」


「あら、本当?」


「うん。なんでも暁色の髪というらしいわよ。朝日のような、燃える銅色」


「燃える銅色、ね」


「うん」


いいわ、見せてもらいましょう。美しいものには目がないの。振られた私の心の傷を、せめて上澄みだけでも、その暁色の不死鳥で上書きしてもらおうじゃないの。


---


ベルが鳴った。


劇場の入り口の扉が静かに閉ざされていく。天井のシャンデリアが暗くなり、代わりに舞台の両脇から淡い紺色の魔石の光が降り始めた。


あら、これ。青白いろうそくの光かと思ったけれど、違う。ろうそくでは絶対に出ない波長の、青い光だ。


なぜか、見覚えがある気がした。生まれてこんな光を見たことなど、あるはずがないのに。


楽団の前奏が始まった。聞いたことのない楽器の組み合わせだった。弦楽器が風のように鳴り、木管楽器がそれに寄り添うように低く震える。打楽器は最初、聞こえないほど静かに、鼓動のように刻んでいた。


これ、何かによく似ている。何だっけ。思い出せない。なんだろう、私、どうかしている。


幕が上がった。


舞台の中央に、ただ一人、少年が立っていた。


——ああ。


セレスティーヌは扇を取り落としそうになった。


少年はただ立っているだけだった。それだけなのに、舞台中央の自然な引力が観客の視線をすべて吸い込んでいる。


暁色と聞いていた彼の髪は、紺色の舞台の光の中で、朝日が燃える赤と金と銅の混ざり合った、不可思議な色をしていた。肌は雪の白さ。頬の輪郭は彫刻めいて繊細で、眉はすっと伸び、わずかに上向きの角度を描いている。


そして、その瞳。世界で一番美しい宝石のような、そんな瞳。


燃える宝石だと噂で聞いていた。しかし、それは宝石ではなかった。もっと、もっと深い何かだった。


---


セレスティーヌは瞬きを忘れた。


「……まあ」


隣でマルゴが扇を口元に当てたまま固まっていた。


劇場中の観客が、一拍おいてどよめく。そのざわめきすら、すぐに消えていく。


少年はゆっくりと頭を垂れ、口を開いた。


最初の音が響いた。


低く深い男の声ではなかった。高く軽い少年の声でもない。その中間の、聞いたことのない声。絹の手触りと、蜜の甘さを併せ持つ声だった。


なに、これ。この声。


声は少しずつ音域を上げていく。低く優しい朝霧の質感から、すこし明るい、朝日の最初の光の色へ。そして、そこから伸び始める。


セレスティーヌの肌がぴくりと震えた。


歌詞を聞いていたはずだった。不死鳥が何度も灰から蘇る神話の歌。死んでも死んでも蘇る不死の鳥の、孤独と希望の歌。


しかしセレスティーヌの頭から、歌詞はいつの間にか消えていた。ただ声だけが残った。


声が身体に入ってくる感覚があった。肺を震わせ、肋骨の隙間に染みていく。心臓に触れ、脊柱をゆっくりと撫で上げていく。


そしてその声は、私の頭の奥に触れた。


この声、変だ。マイクも拡声魔法も使っていないのに、隅々まで磨き上げられた、作り物のように完璧な響きがする。生まれて一度も聞いたことがないはずなのに、何度も聞いた気がした。


気付けば両手で頬を押さえていた。口は半分開いたまま、呼吸を忘れていたらしい。


「……ティナ、ティナ?」


隣でマルゴが囁いた。


「ティナ、顔色」


「……マルゴ」


「うん?」


「これ、何」


「歌よ」


「これが、人間の喉から出る声なの」


「らしいわよ」


「……嘘よ、これ」


ふと、頭の奥で誰かが呼んだ気がした。


——緒方、真理子。


誰、それ。私、いま何を考えたの。聞いたことのない名前のはずなのに、耳の奥に絡みついて離れない。


視界が、わずかに揺らいだ。


少年の歌声は、さらに高みへと伸びていく。舞台の照明が、少年の輪郭に合わせて緩やかに虹色に変化していった。


その虹色の、ある特定の色合いに、目が止まった。


それ、知っている。なぜ、知っている?


その波長は「LEDの特定の青色」だったと、セレスティーヌはなぜか知っていた。何度も見た記憶がある——大きな会場で、大勢のアイドルが歌うときの、あの光だ。


LED? アイドル? それ、なんだろう。わたしの頭の奥に、何か別の人生がある。


この声も、この光も。知っている。私は、これを知っている。


少年の声が最高音に到達した。軽やかで、甘く、朝の最初の光を思わせる高音。


高音が伸びる。伸びる。伸びる。頂点へ。


息を、止めた。


その瞬間。


セレスティーヌの頭の奥で、何かが——弾けた。


---


白い天井。


蛍光灯の光。規則正しく刻む電子音。心電図のモニター音だった。


「先生、応答してください」「先生!」


誰かが、私を呼んでいる。


手術着の袖が汗で湿っている。両手には、まだ患者の血の感触が残っている。


緊急帝王切開。母体は子癇発作を起こし、胎児の徐脈が進行していた。


「コードブルー、コードブルー」


院内放送が流れる。私は走っていた。


「先生、ご家族が」


廊下で看護師に呼び止められた。


「今日のお誕生日のご予約に先生がいらっしゃらないから、ご心配なさって。ロビーまでいらしています」


白衣のまま、私はロビーへ走った。夫と、五歳の息子が立っていた。


「ごめんね、今すぐには帰れないの」


しゃがんで目線を合わせる。息子の目に、みるみる涙が溜まっていく。


「やだ、やだ! 一緒に誕生日するって言ったのに!」


抱きしめようとした、その時。


「先生、患者様が急変です、今すぐ戻ってください!」


背後からナースの声が飛んだ。私は立ち上がり、身を翻した。


「ママ、行かないで!」


息子が、私を追いかけて駆け出した。玄関を抜け、車道へ。


「危ない!」


振り返った視界の端に、トラックのヘッドライトが見えた。


考えるより先に、体が動いていた。息子を突き飛ばすように抱え、道の外へ押し出す。


衝撃が、私の背中を貫いた。


視界が崩れていく。夜の街灯が、流星のように流れる。


最後に見たのは、末っ子の、五歳の顔だった。


——ママ、誕生日、来てね。


——ママ。


——ママ……。


緒方真理子、四十歳。産婦人科医で医長を務め、三人の子の母だった。息子を庇い、家族の目の前で死んだ。


---


「ティナ!」


マルゴの声が戻ってきた。


劇場だった。気づけば、セレスティーヌは座席から滑り落ちかけていた。舞台の上では、少年がまだ歌い続けている。不死鳥の歌を、変わらぬ声で。


ああ。ああ、そうか——私は。


「ティナ! ティナ、しっかりして!」


マルゴの声が遠くで聞こえた。


座席から滑り落ちかけた体を、誰かの腕が支えた。


冷たい男の手だった。額に触れた指先から、淡く温かい光が皮膚の下へと流れ込んでくる。


「失礼、ご令嬢」


低く落ち着いた声が、耳元で響いた。


「私は治癒師だ。失礼を許せ」


光の温度がゆっくりと頭蓋骨の奥まで染みていき、弾けた何かを慎重にほぐしていく。


うっすらと目を開けた。


銀色の髪、その下に金色の瞳が見えた。襟元には公爵家の徽章。


ああ、と彼女は思った。


——ラファエル・ド・サン・ジュスト。


社交界で噂は聞いたことがある。若き公爵嫡男にして、希少な光属性治癒師。冷たい目をした、近寄り難い貴公子——そう評判の人物だった。


その人がいま、自分の額に手を当てている。


「……失礼、いたしまし……」


声を出そうとしたが、舌がうまく動かなかった。


「喋らないでいい。ご気分はいかがか」


「あ、頭が……」


「割れるように痛むだろう。今、和らげている。深く息を」


言われた通り、ゆっくりと息を吸っては吐いた。吸って、吐いて、また吸う。


反射的に、右手が自分の手首を探った。脈を診ようとして——分厚い夜会用の手袋に阻まれ、指先は何も感じ取れなかった。


コルセット、キツすぎる。これじゃ倒れるのも当然ね。医学的に見て、健康に悪すぎるわ。


前世は医師だった。たった今、思い出したばかりの記憶だ。その本能と、令嬢の体の相性は、最悪だった。


繰り返し呼吸するうちに、舞台の音がいつの間にか止んでいることに気づいた。


劇場のざわめきが、四方からひそひそと聞こえてくる。


「あれ、シャティヨン家のお嬢様じゃない?」


「サン・ジュスト公爵令息が、ご介抱を……」


「まあ、なんと……」


——ああ、明日には王都中の噂になっているわ。


セレスティーヌはぼんやりと、そう思った。


それから、自分のその冷静さにぎょっとした。


——いえ、待って。噂になる、それが、どうだというの。どうでもいいじゃない。……どうでも、いい。


恋愛脳で、頭が空っぽだと言われていた令嬢、ティナ・ド・シャティヨンなら、こう考えたはずだった。この噂がヴィクトールの耳に入って、少しは後悔するかどうか。それしか、考えない。


でも、いま、私の中には別の声がいる。


——まず、患者の容態を確認して。血圧は。脈は。瞳孔反応は。搬送の判断は誰がするの。後遺症が残る可能性だって、ゼロじゃないのよ。


手袋を外して、自分の脈を診なきゃ。鏡はあるかしら。瞳孔はどうなっているの。


その声は、四十歳の女のものだった。


緒方真理子——産婦人科医、医長。私の前世だ。


セレスティーヌは目を閉じ、深く息を吸った。


「マルゴ」


掠れた声で親友を呼んだ。


「ここにいるわ、ティナ」


マルゴが座席の横に膝をつき、彼女の手を握った。青ざめた顔に、涙が浮かんでいた。


「ティナ、本当によかった、よかった……」


「マルゴ、ありがとう」


セレスティーヌはわずかに微笑んだ。


ふ、とマルゴの指先に力がこもるのがわかった。


「……ティナ?」


「うん」


「ティナ、なんか雰囲気変よ」


セレスティーヌはもう一度微笑んだだけだった。答えは返さず、代わりに頭上のラファエルを見上げた。


「サン・ジュスト公爵令息」


「ラファエル・ド・サン・ジュストだ。以後、お見知りおきを」


「ラファエル様。お助けいただき感謝いたします」


「ご気分が戻ったのなら、何より」


「あの……一つ、お尋ねしてもよろしいかしら」


「どうぞ」


彼女は囁くように尋ねた。


「先ほど流していただいた光。あれは——身体のどの部分まで届くものですの?」


ラファエルの金の瞳が、わずかに見開かれた。


「……治癒の力に、興味がおありなのですか?」


その声には、隠しきれない戸惑いが滲んでいた。令嬢からそのような問いを向けられたのは、初めてなのだろう。


「いえ、ただの好奇心ですわ」


セレスティーヌは軽く笑った。いつも周囲に見せてきた、屈託のない微笑みだった。


ラファエルはしばらく彼女を見つめた後、静かに答えた。


「表層の組織まで。骨格、血管、ある程度の神経。だが内部の臓器、特に命の根に近い場所には、私の光は届かない」


「届かない、というのは」


「治癒師では治せない、ということだ」


セレスティーヌは頷いた。


「ありがとうございます」


——やっぱり。この世界の治癒魔法は表層的なものなのね。感染症、敗血症、内臓疾患には届かない。だから産褥死は減らないんだ。母体の出血、感染、子癇。そして、新生児の——


頭の中で、医学的な思考が勝手に組み立てられていく。止められないし、止める必要もなかった。


ああ、そうだ。私はこの仕事が好きだった。命を救うことに迷いなく熱中できた、あの自分が誇らしかった。


思い出してしまったからには、もう止められない。令嬢らしくないと言われても構わない。この新しい生でも、私は医師でありたい。


「ご令嬢」


ラファエルが低く呼んだ。


「あなたは、医学を学ばれたのですか?」


セレスティーヌは視線を上げた。金の瞳と目が合った。


賢い男だった。たった一つの問いで、彼女の中に『医学的な思考』があると見抜いている。


——警戒しなさい。前世のことは、まだ誰にも明かしてはいけない。急に人が変わったと思われては、いらぬ詮索を招くだけだわ。


これまで通りの、いつもの笑い方を、彼女は素早く取り繕った。


「ふふっ、それは内緒ですわ」


扇を軽く広げる。


「乙女には秘密、あるものでしょう?」


ラファエルはしばらく彼女を見つめた後、わずかに口元を緩めた。


——よし、ごまかせた。


セレスティーヌは内心でほっと息を吐いた。


そして思った。


——ねえ、真理子。あなた四十歳の医師なのに、どうしてこんなに上手に、十七歳の令嬢のふりができるのかしらね。


——大人だから、よ。そう、四十歳の大人。三人の子供の母親。


思い出せば思い出すほど、後悔ばかりが押し寄せてくる。仕事に生きた四十年だった。家族より、患者を優先し続けた四十年だった。


ティナとは、正反対だ。恋愛だけがすべてで、他には何も見えていなかった、あの娘。


もしかしたら——足して二で割れば、ちょうどいいのかもしれない。仕事にすべてを捧げた女と、恋にしか目のなかった娘。その両方を、今の私は抱えている。だから、この体に、この記憶が宿ったのかしら。


——ねえ、子供たち。元気にしてる?


——ねえ、あなた。あの最後のラインの返信、来てた?


——ねえ。……ねえ。


——今夜はもう、誕生日のことを考えるのはやめよう。私はきっと、本当に死んでしまって、まったく別の世界の、別の体の中にいるんだもの。


セレスティーヌは長い息を吐いた。


「マルゴ」


「うん」


「お屋敷に帰りたいわ」


「もちろんよ、馬車を呼ぶ」


マルゴが勢いよく立ち上がり、周囲をぐるりと睨めつけた。誰か止める者がいたら殴りかかりそうな顔つきだ。


ラファエルも立ち上がった。


「伯爵には私から連絡する。馬車はサン・ジュスト家のものを。屋敷まで付き添おう」


「公爵令息様にそこまでしていただくのは——」


「治癒師の責任だ」


きっぱりとした声だった。


セレスティーヌは抗わなかった。正直、立てる自信がなかった。


立つ前に、彼女はもう一度舞台を見上げた。


幕はもう降りていた。だが彼女の頭の中には、まだあの少年の歌声が残っていた。


不死鳥の歌。


——あの拡声魔石の使い方、あの照明の波長、あの座席の配置、そして幕間に焚かれた、あの煙の魔石のスモーク。あれを設計した人は、絶対に、絶対に、日本のドーム公演を知っている。


——この世界に、私の他にも前世を思い出した人がいる。


馬車の中で、彼女は深く目を閉じた。


サン・ジュスト家の家紋の入った黒塗りの馬車。向かいの座席にラファエルが静かに座り、隣ではマルゴが彼女の手を握っている。


「ティナ」


マルゴが囁いた。それだけだった。何かを言いかけて、やめたような顔をしている。


うまく言葉にできない違和感が、マルゴの中に育っていくのを、セレスティーヌは肌で感じ取った。


セレスティーヌは微笑んだ。


「気のせいよ」


馬車が夜の王都を、ゆっくりと走っていく。


ラファエルの金の瞳が窓の外を見ていた。その瞳に、街灯の光がちらちらと映っていた。


セレスティーヌは、その横顔をしばらく見ていた。何も考えず、ただ見ていた。


そして、ふと気づいた。ヴィクトールに振られたことを、もう一秒も考えていない、と。


それが可笑しくて、彼女は小さく笑った。


夜が馬車を運んでいく。シャティヨン伯爵邸まで、あとしばらく。


窓ガラスに、若い娘の顔が映っていた。


金の巻き毛、青い瞳、まだ涙の跡が残る頬。


その奥から、見知らぬ女がまっすぐにこちらを見返していた。


——よろしくね、セレスティーヌ。


馬車は、夜を割るように走り続けた。

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