34.胸のいたみ
深まる寒さと共に、体調は更に悪化した。
以前は身体が労働に慣れていなかったせいで体調を崩したが、今回は違う。
終始肌寒いし、最近は咳も止まらない。咳止めの薬草を煎じて飲むが、いっときは軽くはなっても、快方に向かうことはなかった。
──いままで、こんなことはなかったのに…。
風邪を引いても、ここまで長引く事はなかった。ベッドに伏したまま、口元を押さえていた手を外す。時折、そこへ血が混じることもあった。
──もしかしたら、肺をやられているのかな?
肺病を患うとそうなると、師匠にあたる、王家お抱えの薬師に教わった。さまざまな病状を知った上で薬を処方する必要がある。ひとおりの病は心得ていた。
──まだ、胸に痛みはないけれど。
部屋の暖炉も勿体ないからと朝と寝る前につけるのみ。日中はベッドで毛布にくるまり、しのいでいた。
ブルーナは遠慮せず焚けばいいと言うが、やはりそれはできない。薪を割るのはブルーナの仕事だ。秋にある程度、薪は用意されていたが、冬を越すのに必要最低限で。
ブルーナにはすっかり身の回りの世話まで任せてしまっているのに、これ以上、無理はさせられなかった。冬を越えれば、春が来る。もう少しの辛抱だ。
──そう言えば、あの巣箱、どうなっているかな?
毎年、新しいものに作り替えていた。今年は作る前にリーマの元へ来たため、作っていない。
冬の間に作って、春になってから、まだ野鳥が渡って来ない時期に、付け替えるのが常となっていた。
──サイアンが作ってくれたかな?
けれど、マレがいなくなった今、それも手をつけていないかも知れない。
ゼーゼーと呼吸が荒くなり、また咳がで始める。一度で出すとなかなか止まらないのだ。全身で咳と戦っていると、目の端に涙がこぼれた。
──僕は、冬を越せないかもしれない。
この前、窓辺で死んでいる鳥を見つけた。いつも、マレの食べきれなかったパンを啄んでいた野鳥だ。寒さにやられたのか、窓にぶつかってしまったのか。その姿が自身と重なる。
そうしている間にも、咳が酷くなって、マレは身体を丸めてやり過ごす。
サイアンと二人、笑いながら巣箱を取り付けた日々が懐かしかった。
咳が軽くなる頃を見計らって、薬を作る為にベッドから身体を起こした。
これだけは、止めるわけには行かない。なるだけ厚着になって、机に置いてあった乳鉢で、途中で放ってあった薬草を擦りだす。安らぐ時間の一つだ。
ブルーナに無理を言って、最近この薬を匿名で近くの孤児院へ送る様にしている。大量には送れないが、少なからず助けになればと。
アロ達より更に悪い環境で過ごしている者は多かった。
ブルーナの話では、孤児院でもかなり重宝されているとのことで。売っている薬など、高くて手が出せない。日々を食つなぐため後回しになってしまうのだ。
──せめて、この身体がもう少し、丈夫だと良かったのだけれど。
擦り終わって粉状になった薬草へ、練った蜂蜜を少しづつ加えて練って行く。甘い香りと共に生薬独特の、ツンとした香りが鼻をついた。
──いい匂い。
これを嗅いでいると、幾分、体調も良くなる気がした。以前の自分に戻った気がする。
マレであった頃の自分。
ふと指先を見れば、薬草を弄るせいですっかり黒ずんでいた。手元だけ見れば、以前の自分の様。
この指先が真っ黒になるくらい、夢中で薬草を採っていた。──サイアンの為に。
けれど、それはもう叶わない。
──せめて、アロの役にたちたい。
それが今のマレの思いだった。
✢
その日、ブルーナはマレの作った薬とお菓子を携えて、アロの家に立ち寄った。
最近はマレの体調がおもわしくなく、菓子まで作れない。せめてもと、ブルーナがマレの為に用意した菓子を、全てアロに渡していた。
別に買う事を提案したが、マレは聞き入れなかった。これも全てブルーナの善意からと分かっているから、それ以上の量を頼むという無理は言えないとのことで。
仕方なくそれを受け入れ、一人分の菓子を薬と共に渡しているのだ。
「ねぇ。マレはまだ良くならないの?」
アロは持ってきたお菓子を、自分の分と兄弟の分とに分け戸棚にしまい、薬はテーブルに置かれた木箱に大事そうにしまった。
そうしてから、ブルーナを振り返ってそう尋ねてくる。
「ああ…。最近はベッドに伏せている時間の方が長いくらいだ」
「お薬、作るの大変だね…」
アロは床へと視線を落すが、ブルーナは首を振り。
「この程度なら大丈夫だと言っていたよ。それに、寝たきりでは身体にもよくはない。いい運動になっていると」
ここを訪れる前、マレはそう言って笑って見せた。体調は思わしくないないのに、それを一つも口に出さない。
「ほんと? よかったぁ。この薬のお陰で、母さん、随分良くなったんだ。もう、咳も殆どでないし。洋裁の内職も少しづつできるようになったんだよ」
見れば窓際に置かれた机に、針箱や裁ちばさみが置かれている。部屋の隅には、糸の通された古びた足踏みミシンも置かれていた。作業している様子が伺える。
「それは良かった。マレにも伝えておこう」
と、そこへ奥から人の出てくる気配がした。顔を向けると、戸口に痩せた女性が立っている。
頬の肉はすっかり落ち、目の周りもクマが出来ていたが、それでも肌の色は幾分良さそうだった。肩には以前、アロに渡した青いショールをかけている。アロは嬉しそうにその腕に絡みつくと。
「お母さんだよ!」
「あの…、いつもありがとうございます。アロの母です」
「いえ、こちらこそ、お邪魔しております。──そろそろ私はお暇を。また薬が無くなるころを見計らってきます」
「あの…」
出て行こうとするブルーナを母親が引き留めた。なにかと振り返ると、
「なにか?」
「お薬、かなり高価なのでしょう? いつもお代も払わずに…。いったい、どちらのお方がお作りなのですか? このショールのお礼も申し上げたくて…」
「気になさらず。友人の趣味で作っているものですから。ショールはアロへの感謝の気持ちかと。随分、話し相手になってくれた様ですから」
「そうだよ! マレとはたくさんお話ししたよ。お薬もお金はいらないって言っていたもの。マレは優しんだ! それで、真っ黒な髪でとってもきれいな青い目をしてるんだ。森の外れに住んでいて──って、言っちゃいけないんだった…」
興奮気味に話していたアロは、慌てて口をつぐむ。ブルーナはちらと母親に目をむけた。母親は幾分怪訝な表情をみせたものの、微笑むと。
「あら、お約束しているなら、話してはだめね?」
アロはむっとしてしかめっ面になる。ブルーナは会話を引き取って。
「そうですね。友人はあまり人に知られなくないようですから。──あの、今アロが言ったことは、ここだけの秘密と言う事で…」
すると、母親はええと微笑み。
「ええ。分かっています。ほら、アロ。玄関までお送りして」
「うん!」
そうして、アロに見送られ、アパートを後にした。
✢
そのまま、ブルーナはまっすぐ帰らなかった。買い出しもあったが、それよりも先に寄りたい所があったのだ。
それは、以前、リーマの元で執事をしていた男のもと。彼は今、仕事を引退し街で暮らしている。他の貴族から仕えないかと誘われたが、それを辞退したのだ。
たしか、この男はリーマから別れ際、ネックレスを託されていた。それに、入れ替わりの多い使用人の中で、数少ない最後まで仕えていた者のひとりで。リーマも彼にだけは手を出さなかった。
彼はリーマを、昔から見てきた。
──いったい、何がリーマを変えたのか、知っているかもしれない。
そう考えたのだ。ブルーナの聞き及んでいたリーマと、今、自分が接している控えめで謙虚なリーマと。どちらが本物なのかも。
「ああ、来ましたか…」
すでに知人を通して、了解を得ていた。元執事の男は、ひとのいい笑みを浮かべ、部屋の中へと招き入れる。白髪の、ものごしの穏やかな、いかにも執事全とした男だった。
瀟洒な街並みが広がる一角にあるアパートの一室。居間に通され、お茶を出される。家人は他になく、時折、心配する姪っ子が様子を伺いに訪れるのだと話してくれた。
「それで、聞きたいのはリーマ様のこととか?」
「そうです。あなたは幼い頃からあの方に仕えておいででした。屋敷を去る前の間、特に変化はなかったかお尋ねしたかったのです」
「どうして、そのような質問を?」
「それが…。私の聞いていたリーマ様と、実際、お仕えしているリーマ様が少し違うようで…。何か心境の変化があったのかと」
すると、元執事は手にしていたカップをテーブルに置き、小さく息をついたあと。
「──変わったと言うなら、例の橋での事故のあとからでしょうか…」
「ラクテウス家のマレが亡くなった?」
「はい…。あの事故の後、暫くして意識を取り戻したのですが、ご自身をあの事故で亡くなったマレだと思い込んでいらっしゃいまして…。事故のショックで、一時的に記憶が混乱しているのだとは医師の話でしたが。──傍にいた侍女の話では、なぜか手鏡でご自身のお顔を確認して、酷く驚いていたご様子だったとか。──とにかく、暫くはそんな調子でした」
「……自分を、マレだと?」
元執事は頷くと。
「マレが仕え出したころ、しばらくして、リーマ様の態度が以前とは異なる様になりました。今まではなにもかも興味を示さず、投げやりであったのが、それまでの態度を改めるようになりまして…。マレが来たことで、心境になにか変化があったのだと思います。このネックレスも──」
そう言って、胸ポケットから小さな箱を取り出し、それを開けて見せた。そこにはキラと輝く、緑色の石があった。
「ずっと大切にされていたのを、偶然、マレが見つけ、ネックレスにしてリーマ様にお渡ししたのです。あの頃からでしょう。リーマ様に変化があったと言うなら…。マレを傍に置くようになって、心をお開きになられ始めていた…。そこにあの事故です。ショックは当然でしょう」
「…しかし、自分を間違えるなどと、そんなことがあると?」
「わかりません…。ただ、実際、リーマ様はそうなられましたし、幽閉が決まるまでの間も、随分、変わられましたから」
「──変わったとは、どのように?」
「そうですね…。──ああ、そうです。まるでマレのようでした。自身が心をお開きになられた相手になりたかったのでしょう。でも実際、本当にマレかと思う時もありましたが…。そんなはずがあるわけありませんからな」
元執事は笑って見せた。
そうして、しきりにリーマの今の様子を尋ねてきた。そんな元執事に話せる範囲で様子を語ると、満足したものの表情を曇らせ。
「薬草に興味をお持ちとは知りませんでした…。それもマレの影響でしょうか。彼は詳しかったようですから。──しかし、体調がすぐれないとは…。幼い頃から身体はお強い方ではありませんでしたが。これからもっと冷え込みます。十分気をつけるよう、お願いいたします」
「…わかりました。それでは──」
元執事は帰るブルーナを、戸口まで見送りながら。
「あなたがリーマ様の世話係でほっといたしました。あなたなら、酷い仕打ちはなさらぬでしょう。世間では酷い言われ様です。確かにしてきたことを思えばなにも言い返すこともできません…。──ですが、私には大切な主人だったのです」
寂し気に微笑んだ元執事に、胸の痛みを覚えた。
確かに、ブルーナはいわゆるひどい扱いはしていない。食事は与え、身の回りの世話も怠らない。
だが、あの元執事の様に、無償の愛でリーマを見ているわけではないのだ。
それに──。
買い出しを終え、最後に立ち寄った薬屋でいつもの薬を購入した。それを懐へと仕舞い、足早に屋敷へと戻る。
今のリーマはどう見ても善人だった。普通にいれば、その人柄を好ましく思い、いい友人となれただろう。
──だが。
やはりブルーナも、愛するものを奪われたもののひとりだったのだ。




