16.晩餐
正装を一式だけ持ってきていてよかった。シャツの替えはあるが、正装となるとそうはいかない。普段着しかなければ、今ごろ、サイズの合わない衣装を執事や下僕に借りるところだった。
ダイニングルームの食卓には、既にリーマが付いていた。食器の用意はやはり二人分のみ。リーマは優雅に傍らの席を指し示す。
「席につけ。何か飲むなら自由に頼むといい。ワインは飲むのか?」
「…いいえ」
リーマのグラスには、赤ワインが注がれている。マレは下僕が引いた椅子に座るが、問題は食事が喉を通るかだった。目を食卓へ移すと、磨き抜かれた銀食器が目に眩しいくらい。
座るとすぐに食事が運ばれてくる。前菜に始まり、スープに魚料理、肉料理と続く。が、思っていたより量は少なく、ホッと息をついた。
昔から他所では食が進まない。しかも、今はリーマが傍らにいるのだ。味などろくに感じなかった。
「…静かだな? ラクテウス家でもそうなのか?」
「いえ…」
「気にすることはない。普段通り、気楽に過ごせばいい。幾らサイアンを手に入れたいからと言って、少しくらい不興を買っても、おまえを罰することは無い。──したくともできないしな…」
クックと肩を揺らしリーマは笑う。仕方なく会話の糸口を探った。
「…ここには、お独りでお住まいなのですか?」
当たり障りのない会話の一つだった。天気がいいですね、くらい、ありきたりの。
けれど、どうやら不興を買ったらしい。ふっと、リーマの笑いがやむ。一瞬、控えていた執事や下僕が息をのみ、空間が凍りついた気がした。
──何か余計な事を言っただろうか。
しかし、リーマはまた笑みを浮かべると、ナイフを取り上げ、手の中で弄ぶ。
「知らないから仕方ないが、前に同じ質問をした従者の口を、聞けなくしてやった事がある…」
「……」
マレは黙り込む。
「だが、おまえは今、客人だ。それに、私が会話を許したのだからな? ──ああ、ひとりさ。ここへ来てからずっと…。私は『狂王子』と呼ばれている。噂くらい耳にしたことはあるだろう? 流石に父上も、誰かと一緒にしては、危険だと思われたのだろうな?」
リーマは高らかに笑う。
「そんな…」
ひとしきり笑った後、ふと視線を遠くへ向け。
「客人ならたまに来るが──皆、次はないな。面白いぞ。今食べているそれは、昨日、粗相をした下僕の肉だと脅せば、すっかり震え上がってな。冗談も通じない…」
そう言って笑うが。今まさに、肉料理に手を付けたばかりだったマレも、思わずそれに目を落した。
丁寧に焼かれ味付けされたそれは、親しんだことのある味だ。そんなことはあり得ないと分かる。
けれど、客人が青くなるのは、もしかしてがないとは限らないからだろう。リーマは続ける。
「…人ではないが、そいつが贈り物だと連れてきた馬の肉を食わせてやったのさ。媚びを売る奴らには吐き気がする…」
マレは勝手に震え出した手を、きゅっと握りしめ。
「──なぜ、そんなむごい事を? 馬に罪はありません。それに…なぜ、媚びを売ろうとするのか考えた事は? あなたを恐れているからではありませんか?」
リーマの動きが止まる。視線がゾロリとこちらに向けられた。細められた目は鋭く。およそ人らしからぬ、獣の様な目つきだ。
シンと静まり返った室内には、まるで空気がないかのように息苦しい。
「…久しぶりだな。私にその様な口を聞く者が現れるとは」
「……」
マレは黙って手元の皿を見つめる。しばらく、凍りついた時が過ぎる。
その空気を壊す様に、リーマはグラスに残ったワインをひと息にあおると、
「──私が幼い頃、そうやっていつも注進してくる従者がいた。大人しく言うことを聞くふりをしていたが、ずっと、気に食わなかった。…だから、始末してやった」
✢
「…なに、を?」
喉はカラカラなって、張り付いていた。緊張で指先はすっかり冷え切っている。
リーマは薄ら笑いを浮かべると。
「奴が──私を襲ったと見せかけたのさ。気分の悪くなったフリをした私を介抱させてな。当時は誰も私を疑わなかった。──簡単さ」
「それで…その人は…?」
「──さて。聞いた話しでは、仕事もなくし、信用も失い。一族は離散、奴は自ら死を選んだとか。私の機嫌を損ねるとそうなる」
「私も、…そうなると?」
「言っただろう? お前に手は出せない…」
リーマはテーブルに肘をつくと、こちらを見据えてきた。食事はすでに終わっている。
リーマの口元には笑みが浮かんでいたが、目は笑ってはいない。
「…馬はなにもしてはいない。かわいそうと言えばそれまでだが、献上品を受け取れば、奴を受け入れたのと同じことになる──」
マレはリーマを見つめた。
「媚を売るのは、私の機嫌をとりたかったからだ。気まぐれな王子のお気に入りになって、ゆくゆくは自身の娘を送り込もうとしていた。──要は王族に加わりたかったのさ。奴は商人だった。自身の私欲を肥やす為のあしがかり…。王宮から離れた屋敷に住む私なら、近付きやすいと思ったのだろう。──そんな下賤な奴にはかかわりたくはない」
黙っていられず、つい口を開いた。
「なら、ただ追い返すだけで良かったのでは? それでは、あなたが余計に恐れられるんじゃ? …誰も、よりつかなくなります…」
その言葉に、リーマはマレに冷えた一瞥を向けると。
「ふん…。今更、好かれようとは思わない。これが私の生き方だ。──他の生き方など知らない」
今度はマレが、リーマを見つめる。そう語る横顔からは、何も読み取ることができないが。
──寂しいな。
そう思った。確かにリーマは怖い。
怖いけれど、こうして傍にいると、強い孤独を感じた。
しんとした邸内。まるですべてが生気を失ったようにそこにある。その中にいるリーマは、その生気のなさの中心にいるように思えた。
「そうだ。一つ覚えておけ」
「…はい?」
「私はお前に手は出さないが、代わりに必ず、サイアンを手に入れる。──必ずな」
「!」
驚いて腰を浮かしかけるが。リーマは余裕の笑みを浮かべながら。
「私は奴を手に入れる力を得た。もう──子どもではない。欲しいものを自身の力で手に入れることくらいできる。お前をここへ呼んだのもそのためだ。お前を餌にサイアンを私のものにする…。近いうちに、夜伽の相手にしてやるさ。お前の命と引き換えにとでも言えば、すぐに応じるはず…」
「そんなこと──っ!」
「──させない、か? だが、お前になにができる? 何もできはしない…。せいぜい、ラーゴが送り込んできたメイドに、手紙を託す事だけだろう。私に近付くな、言う事を真に受けるなと」
リーマは小馬鹿にしたように笑む。
「……っ」
「それとも、王命を無視して家に帰るか? ──そうなれば、ラクテウス家の印象は悪くなるだろう。青の騎士団の団長自らが王命を無視するとはな…。王は私に甘い。それなりの処罰も覚悟せねばな」
「……」
リーマは話しながら、ずっとこちらを注視している。リーマはすべてわかっているのだ。
だいたい、いくら危険を知らせる手紙を書いたところで、余計な心配をサイアンにさせるだけで、リーマから遠ざける事には繋がらないだろう。
「…それとも、ここで私を殺してみるか? 皆がよろこぶだろうな」
そう言って高らかに笑って見せた。
「そんなこと、しません…」
いくらリーマの行動を阻止したくとも、それをしてしまえば、リーマと同じになる。
邪魔なものは力で排除する──。横暴で短絡的な行動だ。
「遠慮するな。私は死など怖くない。もう生きるのも飽きてきた…。どうせ私はここで一生を過ごすのだろうからな? 血に汚れた手だ。誰も取ろうとはしない…」
薄っすら口元に笑みを浮かべ、そう語った目は、まるでガラス玉の様で。
何の感情も見出すことはできなかった。




