3 熊との遭遇
昼休み、すみれはぼうっと考え事をしながら、売店への道を辿っていた。
考え事というのは、もちろん食後の口寂しさをどのお菓子で紛らわすかである。彼女にとって、非常に悩ましい問題だ。
その悩めるすみれの前に、突然ぬっとなにか大きく黒いものが現れた。
黒い壁に驚愕しながら立ち止まろうとしたが、大してスピードを出していなかったにも関わらず、すみれの体は上手く止まれなかった。
咄嗟に痛みを覚悟したすみれは、ぽすんと、額が軽くその壁にあたり、止まった。
思ったよりも随分痛みの無い当たり心地に、その状態のままその壁の正体を掴もうと右を見ると、がっしりとした腕が目に入った。
「…あ、すみません、大丈夫ですか?」
頭上から、低い声が降ってくる。すみれは背中の毛が逆立つような感覚を感じながら恐る恐る顔をあげると、なんだか見覚えのあるしっかりとした顔があった。その人は、すみれと目が合うと意外そうに眉を上げた。
「あ、この前の日本人形じゃないか」
すみれはその言葉にそっと辺りを見回すが、近くに日本人形なるものは存在しなかった。
「ぶつかってすまなかったな。痛い所とかないか?」
どうやら自分に話しかけているらしいと理解したすみれはこくこくと頷きながら体を離し、改めて相手の顔を見上げた。
「……あ…。」
この前、蒼十郎を引っ張っていった闖入者だった。
「あのときの、えっと、袴の…」
「熊井だ」
すみれはその名に衝撃を受けた。なんて似合った名前なのだろう。
しかし、『井』は余計だ。熊で十分なのに、なんで井なんて邪魔なものが入ってしまっているのだろう。はっきり言って、蛇足としか思えない。
そこですみれは、その井の存在をきっぱりすっきり無視することにした。
「…熊先輩、えと、剣道部員の方だったんですね」
「熊井だぞ。そうそう。あんたは茶道部なんだよな?」
「はい。森野すみれと申します。1年4組です」
「いや、別に組はいいけど。森野は蒼十郎と仲いいのか?」
すみれは『仲がいい』と言えるかどうか非常に悩んだ。
「…良くわかりませんが、世間話はするなかです」
「なるほど」
熊井はふむ、と少し考え込む素振りをした。
「なあ森野。もし蒼十郎がそっちに顔を出したら剣道部の方に行くように言ってくれないか。適当にたたき出していいからさ」
叩き出すという不穏な言葉に、すみれは思わずぎょっとした。
「ええ!なぜですか」
「今度試合があるんだけどさ、俺はあいつに中堅をやってもらおうと思ってる…あ、レギュラーのポジションのことな。だけどあいつちっとも練習に身を入れてくれないんだよ。蒼十郎を戦力に数えれるかどうかでまた勝率も変わるんだよなぁ…」
「そうなんですか」
良くわからないまま、すみれは無難に相槌を打った。
「むかつくけどセンスってものがあるからな…あいつの抜き胴まじで綺麗なんだ」
熊先輩はどこかうっとりとした表情で、蒼十郎先輩の「なきどう」とやらの素晴らしさについて熱く語ってくる。
「熊先輩、あの、なきどう、とはなんですか」
「こら、熊じゃないって言ってるだろ、熊井だ。そして抜き胴な、ぬ・き。腹の辺りに極める技のことだ」
そう言いながら、熊井は自らのお腹を斬るような仕種をした。
それを見ているのかいないのか、すみれはぼんやりと颯爽とした袴姿の蒼十郎の姿を想い浮かべた。
なんて凛々しい。
すみれは自分の想像のなかの先輩の雄姿にひどく感動を覚えた。
「熊先輩、わたしも二宮先輩のその技をぜひ見たいです」
「いや、熊井……お前、人の話聞かないよな」
その日は丁度金曜日であったこともあり、一人でお茶室に居座るすみれの許に蒼十郎が訪れた。
実に、久しぶりの登場である。
早速、いそいそとすみれがたてたお茶を静かに飲む蒼十郎を見つめること十秒。
蒼十郎がその視線を無視できず、不思議そうに、すみれを見返したとき、すみれはついに口を開いた。
「あの、今度、剣道の試合を観てみたいのですが」
蒼十郎は虚を突かれたように一瞬言葉を失った。
「試合?剣道わかるの?」
「はあ、全くわかりません」
少しの間、二人の間に沈黙が降りた。
「…多分、面白くないと思うけど」
「そんなことありません!わたし、先輩の…ぬき胴が見たいです!」
拳を作りながら『ぬき』に妙な気合を入れて発音をするすみれをどこか怪訝そうな顔で見ながら、蒼十郎は尋ねた。
「なんで抜き胴?」
「はい、今日熊先輩に、ぬき胴の華麗さについて教えて貰いました」
「熊…。晴彦か…」
蒼十郎は眩暈でも抑えるように右手で額を覆って呻いた。
そんな様子に頓着せずに、すみれはうきうきと言葉をつなげる。
「今度の試合が県立体育館であるんですよね?楽しみです」
「…楽しみって?」
「はい、熊先輩に招待してもらったので見に行こうと思ってます。先輩の試合してる姿、初めてみれます」
「俺、出るってまだ決めてないんだけど…」
蒼十郎は、はあ、と息を吐き、抹茶を飲み干すと、いつものように礼を言って立ち上がった。
「ごちそうさま。じゃあまた」
「あっ!はい!失礼します」
何時もより短い時間で去ってしまった後ろ姿を追うように、すみれは閉められた扉をぼうっと見つめた。今日はあまり喋れなかった、と少し寂しいような感情が湧いたのを、すみれは少し不思議に思う。
もう、秋でも来たのだろうか。
ものすごく久しぶりになりました…
すみれは本当に掴めない子ですねー