チャプター9
〜夜〜
「んん……」
エルリッヒは不意に目が覚めた。テントに居ては星の位置などから時刻を知ることはできないが、遠くに聞こえるフクロウの声などから、おそらくはまだまだ夜明けには時間があるのだろう。
なぜだか知らないが、背中に妙なぬくもりを感じていた。なんだろうと思い、寝返りを打ってみるも、寝返りが打ちにくい。無理矢理寝返りを打ってみると……
(〜〜~っ!! 何これ〜!!)
目の前には、安らかに眠るフォルクローレがいた。先ほどの様子からすると、ずっと背中に抱きついていたのだ。寝ている時に自然に抱きついてきたのか、こちらが先に寝てしまって抱きつかれたのかはわからないが、とにかくしっかりと抱きつかれていたらしい。フォルクローレの左腕が下敷きになっていた。
(フォルちゃん、本気だったのか……なんだかなぁ)
はじめに許可をしたのは自分だし、背中は暖かかったし悪い気はしない。のだが、どうにも落ち着かない。やはり、後で一度話をしたほうがいいだろう。
ゆっくりと起き上がると近すぎるフォルクローレを本来の場所に寝かせ、布団をかけてやる。そして、朝までもう一眠り。
「今度こそ……安眠安眠」
エルリッヒも床に戻り、再び眠りにつく。朝はまだ遠い。
〜アーレンの森 三日目〜
朝、テント越しに朝の光が入ってくる。エルリッヒは朝の気配を感じ、ゆっくりと目を覚ました。仕入れに出る必要がないため、いつもよりゆっくり起きたが、それでもフォルクローレよりは早く起きているはずだ。
寝ぼけ眼で昨夜の出来事がぼんやりと思い出されてくる。そうだ、フォルクローレはちゃんと眠っているだろうか。体を起こす前に、体の感覚を確かめてみる。
「んん? っ!!」
やはりだ。またしても、背後にぴったりと抱きついている。念のために背を向けていてよかった。正面から抱きしめられていたら、何をされていたかわからない。しかし、そんなに抱き着き心地がいいのだろうか。首をかしげながらも再び引き剥がしてから起床する。
「はぁ……フォルちゃんてば……」
安らかな寝息を立てるフォルクローレを再び自分の寝床に戻してやる。こうして見ていると、本当にいい子なのに。起きている時だけでなく、寝ている時でさえ予想を超えた行動をするとは。
なんとか防げればいいのだが、無意識の行動はコントロールできない。一体どうすればいいのか。数秒間首を捻るものの、結論などは出ない。
「ま、今は考えても仕方ないか。どこかで話をする機会もあるでしょ」
そうして、フォルクローレを起こさないようにテントから出る。とりあえず、先に起きることができてよかった。もし、先を越されようものなら、何をされるかわからない。なんとなく、そういう危険を感じていた。
テントを出ると、昨日と同じように顔を洗うところから始めて、朝食の準備に取り掛かる。いい匂いにつられて起きてくるかもしれないし、すっかり出来上がってから起きてくるかもしれないし、もしかしたら起こしてあげなければならないかもしれない。とにかく、ここでは自分にできることをやるだけだ。
もちろん、「食堂の主人兼フォルクローレの友人」として。
「フォルちゃん、今日も採集中心?」
「んー、実は、ちょっと考えてることがあるのだよ」
朝食を終え身仕度を整えると、二人は今日も森の奥地へと足を進めていった。基本的に動物や亜人種は出てこないらしいので、やはり今日も採集活動が中心になるのかと思いきや、フォルクローレには何かアイディアがあるらしい。腰につけた道具袋を漁っている。
そして、取り出したのは小さい袋。中に何が入っているのかもよく分からないものだったが、表面に描かれたコウモリのシルエットが妙に不気味だった。
「それ、何?」
「これ? これはねぇ、匂い袋と言います。もともとは、家の中でネズミなんかをおびき寄せて駆除するために使う道具なんだけど、こういうところで使うとあら不思議、今まで一匹たりとも出て来なかった動物が出てくるのです! これで、毛皮もお肉も角も牙も、確保し放題!!」
自信満々に説明する姿を見るに、市販品ではなく自作の道具なのだろう。それはそれですごいことなのだが、なぜ昨日の時点で使わなかったのだろうかという疑問が浮かぶ。少なくとも、昨日の時点ですでにお肉を食べたい、という話題は出ていたのだ。他の素材はいつでもいいとしても、食材は日々の消耗品である。ともすれば、昨日の夕食では干し肉ではない肉料理が出せていたかもしれないのだ。それを考えると、もったいないと言わざるをえない。
もちろん、単に忘れていただけかもしれないし、そういういい加減なところもまたフォルクローレの魅力なのだ。だから、あえて得意げな顔をしているところに水を差すようなことを言ったりはしなかった。
「それでね、これ、一つ注意点があるんだけど……」
ごくり、と喉が鳴る。あえて仰々しく「注意点」などと言われると、気になるではないか。まさか、猛獣もおびき寄せてしまうのだろうか。それとも、亜人種も? いや、それ以上の副作用があるのかもしれない。とにかく、気にさせる言い方をしているのに対し、素直に気になった。
「実はね、結構匂いが気になるんだよ、これ」
「臭い、てこと? あんまり歓迎しないのは確かだけど、匂い袋っていうくらいだし、それは仕方ないと思うけどなあ。まさか、匂いが服や髪に付いて取れないとか、ものすごい腐敗臭がするとか、そういうこと!?」
考えうる匂いについてのデメリットを挙げてみる。思いつくのは匂いの強さか種類くらいなものである。確かに、あまりの悪臭で吐き気をもよおしたのでは意味がないが。
「惜しい! なんて言うかね、臭いは臭いんだけど、単純に悪臭っていう感じじゃなくってね。あー、形容しがたい! とにかく、人間じゃない生き物が好む匂いは人間に理解出来る感じじゃないんだよ」
「な、なんなのそれ。とにかく、使う前には教えてよね。一応、心の準備はしておきたいし」
今一度道具袋にしまう姿を見て、一応の警告は伝える。どんな匂いがするのかはわからないが、異様な匂いがするものを突然噴霧されたのではたまらない。フォルクローレもそれは分かっているのか、笑顔で大きく頷いた。了解、という意味に受け取って間違いはないはずだ。
「あ、だけど、もう少し進んだら使おうと思うからね。もちろんその時になったら言うけど、心の準備よろしく」
「え。早いね。そんないいスポットがあるんだ……」
正直、この森のことはよく分からない。だから、「そんなもの」が本当にあるのかないのか、はたまたフォルクローレの適当な発案なのかも判断できない。もしかしたら、過去の経験で一番動物の出現率が上がった場所かもしれない。だが、今は従うのみ。その思いに変わりはなかった。
「さあ、まずはその場所まで目指すよ! 頑張ろう!!」
大きく腕を振り上げ、フォルクローレは再び歩き始めた。
「というわけで、到着しました。ここでさっきの匂い袋を使います」
「いよいよだね」
少し移動すると、そこは少し開けた場所だった。どういうわけかは分からないが、木々の植わっていない場所が小さい広場のようになっている。ベースキャンプに選んだ泉のほとりといい、もしかすると、この森にはそういう場所がいくつかあるのかもしれない。
何しろ、普段森に入ることの少ないエルリッヒには、想像の世界でしかなかった。
「じゃあ、今から使うから、少し離れててくれるかな」
「う、うん」
仰々しく取り出したそれを、おもむろに足元に置く。何か自動で中の匂いが広がる仕掛けでもあるのか、それともフォルクローレが人力で内容物を広げるのか、遠巻きに見つめるエルリッヒは目が離せない。
息を飲んで見つめる中、フォルクローレがこちらを一瞥したかと思うと、今度は屈み込んで何かをしている。どうやら、袋の封を開けているらしい。煙のように肉眼で判断できるものは何も出てこないが、確かに辺り一面に異様な匂いが立ち込めた。
それは、腐った肉のようでもあり、その辺りの野草のようでもあり、小汚い裏路地のようでもあり。いくつもの匂いが混ざりあって形成されている、としか判断できない匂いだった。とにかく、「臭い」ことに変わりはなかった。
(な、何これ〜! 鼻が、鼻が曲がっちゃう〜!!)
そんな中、慣れた様子のフォルクローレがこちらにやって来る。平気ではないのだろうが、表情一つ変えないでいるのは、やはり作者ゆえか、使用経験の多さゆえか。
「さ、エルちゃん、そろそろ危なくなるから、気をつけてね」
「え? っ! は、鼻が!」
とっさに口を開くと、件の臭いが鼻を抜け、肺に到達してしまった。えも言われぬ虚脱感が襲う中、一瞬にして辺りに動物の気配が満ちていくのを感じた。
なるほど、これは効果抜群だ。
「それじゃ、少しの間危険になるけど、よろしくね」
「う、うん」
無責任とも自信満々とも取れるような、そんな物言いで肩を叩いたフォルクローレの瞳には、好奇心の光が宿っていた。
〜つづく〜