幸福の家
――三年後――
朝起きる時間になったと言うのに、春の暖かい陽気のお蔭でイアンはベッドの中から抜け出せずにいた。
「イアンさーーん、そろそろ起きて下さいよーー」
部屋の扉を叩く音と共に、マリオンに呼び掛けられる。
起きなければいけないことは分かっている。だが、全身に泥でもこびりついているのかと錯覚する程に、身体が重たくて動かない。
マリオンはイアンを起こすことを早々に諦め、すぐに立ち去った様だ。
再び、うとうととまどろみ出しだイアンの耳に、バンッ!と乱暴に扉を開ける音が聞こえてきた。
(あーー、これはマズいぞぉ……)
危険を察知してすぐに起き上がろうとしたイアンだったが、時すでに遅し。
危険人物が自分の身体目掛けて、勢い良く飛び乗って来たからだ。
「おとーしゃ!!おちろぉぉぉぉぉぉ!!!!(おとうさん、起きろ)」
子供の甲高い声、それも耳元での大絶叫――、鼓膜に響き渡って頭がガンガンと痛くなる。
「分かった、分かった!!今、起きるから!!大声を出すんじゃない、ノエル……」
耳を手で押さえながら起き上がると、イアンは自分の腹の上にちょこんと跨っている息子ノエルを宥める。ノエルは、母親譲りの黒髪とやや彫りの深い顔立ちに、イアン譲りの薄いブルーの瞳が特徴的な、二歳の男の子だ。
「おかーしゃとにいちゃ、まってゆ(おかあさんと兄ちゃんが待ってる)」
「へぇへ」
イアンの適当な返事にノエルはムッとして頬を膨らませる。顔が可愛い癖にやたら気の強い性格といい、今の怒った表情といい、あいつに似過ぎだろう。
すぐに着替え、ノエルを抱きかかえながらテーブルに着くイアンに向かって、シーヴァが一言、冷たく言い放った。
「イアン、遅い。あと少ししたら、間違いなく朝食抜きにしていたわよ」
「はいはい、すいませんねぇ」
「はいはい、は、要らない!」
シーヴァは子供を産んでから、益々強くなっている。
(もう一人、生まれたら……、どうなることやら……)
今でさえ、完全なるカカア天下だと言うのに、考えるだけで恐ろしい。
「若くて美人で、働き者のしっかりした良い奥さんだねぇ。羨ましい限りだよ」と、周りの男衆はこぞって羨望の眼差しを送り付けてくるが、実際は恐妻と言っていいくらいだぞ、と反論したくて堪らない。勿論、口に出したら最後、少なくとも一回は飯抜きにされ兼ねないので黙っているが。
朝食のパンを齧っていると、イアンの膝の上に乗っていたノエルが通り掛かったシーヴァに「おかーしゃ、だっこ」と甘える。シーヴァは、「ノエルはお兄ちゃんになるのに、甘えん坊ね」とクスクス笑いながら、ノエルを抱き上げる。
「シーヴァ、抱っこしても大丈夫なの??」
マリオンが心配そうにしていたが、「少しくらいなら大丈夫よ」と、シーヴァは穏やかに微笑む。
イアンは、目立ち始めたシーヴァの腹を大きな掌でそっと撫でる。
「ノエルがね、今度は女の子が生まれるって」
「本当か?!」
「まぁ、子供の言う事だから何とも言えないけど」
「確かに。でも、無事に生まれてきて元気に育ってくれるなら、俺はどっちでもいいさぁ」
「そうね。私もそう思ってる」
シーヴァはノエルの背中を、ポン、ポンと、ゆっくりとした一定のリズムで撫でるように優しく叩く。
「ノエル、お母さんに抱っこされてご機嫌だなぁ」
朝食を食べ終わったイアンは椅子から立ち上がり、シーヴァと一緒になってノエルの背中を撫でる。
「……お前が一人前に育つまで、お父さんはくたばるなんて絶対にできないな」
イアンがぽつりと漏らした言葉に、シーヴァが反応する。
「ノエルはもちろん、お腹の子が働ける年になるまでは元気でいてよね、イアン」
「てことは、少なくとも、俺は五十半ば過ぎても元気でいなくちゃいけないのか……」
「そうですよ、イアンさん。シーヴァや子供達のために、いつまでも元気でいなきゃ。イアンさんは仕事を頑張り過ぎちゃうから、もう少し僕に頼ってもいいんですからね」
爽やかな笑顔を浮かべるマリオンに、「……ったく、シーヴァといいマリオンといい、お前ら揃って生意気だぞ……」と、イアンは情けない声で呟く。
「そんなの今に始まったことじゃないでしょ。ほら、食べ終わったんだから、サッサッと仕事して!!」
シーヴァが手でシッシッと追い払う仕草をしてきたので、「俺はどら猫か!!」とぼやきながら、イアンはマリオンと共に離れの作業場に向かったのだった。
(終わり)
最後までお読みくださり、ありがとうございました。
本作はこれにて終了ですが、続編でマリオンが主役の「争いの街」という作品があります。
ほのぼの要素を引き継ぎつつ、フィルムノワール風(あくまで風味))といった、本作とは少し趣の違うお話ですが、宜しければそちらにも目を通して頂けたら幸いです。