第九話 逃亡
突如現れたアーシェにあっけを取られたエレノアは、取られた手に気付くことなくいつの間にか窓の近くにまで来ていた。
そこでようやく正気に戻った彼女は、つかまれていた手を振りほどいた。
「な、なにをしているんだ!」
「わかっているでしょう。この家からあなたを連れ出しに来ました」
「馬鹿なのか! お前が退学にならないようにどれだけ手を尽くしたことか!」
今のこの状況――彼女の行いがすべてパーにされたようなもの。
彼女が怒るのは正当なものだ。しかし、アーシェには特に何も響いていないようだった。
「早く行きましょう。今の騒ぎでこの屋敷の衛兵が時機に集まってきます」
「だから、お前は今何をしてるのか――」
何もかも強引な彼の言動に彼女は軽く恐怖を覚える。だが、同時に彼がいることに対して、彼女はどこかうれしさのようなものがこみあげてきていることに気付く。
その事実に胸を締め付けられるような感覚を覚えたが、今は目の前の男を家の者たちに見つからないうちに家から出すことが最優先だった。
「早く家を出ろ。窓のことはどうにかごまかしておく――」
「エレノア様は、この婚約を受け入れて幸せですか?」
「は?急に何を――」
「アヴィジリア家に嫁ぐことになったのが決まったって聞いて、エレノア様あそこの令息のこと嫌いだったでしょう? 婚約して今幸せですか?」
「お前はなにを言っている。貴族の結婚というものはそういうものだぞ。愛などない。お互いの利害を鑑みて行われるものだ。平民以上の特権を持っているからこそ、私たちにそこの自由はない。それは貴族であるお前も理解しているはずだ」
彼女の言葉は正論。だがどうしてだろうか。彼女の胸はこの上ないほどに締め付けられていく。
その理由を彼は叩きつけた。
「じゃあ、殿下との婚約も利害だけだったんですか」
「それは……っ!?」
「俺には殿下には特別な感情があるように見えました。たとえ利害がスタートであったとしても、エレノア様は好きだったはず。それを諦めて、嫌いだった男のもとに行くなんて。嫌じゃないんですか」
「本当に、お前は……」
彼女はわかっていた。本当は頭で理解はしていた。だが、彼女は貴族。
わがままなんて言えるはずがない。
「俺はあなたのことのすべてを理解できるわけじゃない。でも、エレノア様の今のその表情。とても幸せとは思えません」
「くっ……」
「逃げましょう。何もかもから――今のエレノア様なら何だって怖くありませんよ」
彼の嫌な誘惑。その言葉で思い出されるのは、彼と初めて出会った日のことだった。
◇◇◇◇◇◇
とあるパーティーの日
会場の真ん中で、公爵家はさんざ真名貴族とあいさつを繰り返していた。
公爵家に取り入りたい者。牽制をしたい者。堅物と言われる男の愛娘というものを見たい者。
様々な思惑の人間が周囲にいた。
多くの人の波に押され、当時幼かったエレノアは少しだけ気分が悪くなっていった。
そんなときに彼女に声をかける幼い声があった。
「大丈夫ですか?」
他者が自分をアピールしようと顕示欲に溺れるような声を聴き続けた中で、唯一自分を心配してくれた声。彼女は反射的に声の主の方を見る。
声の主は自分と同じくらいの年齢の少年で、隣にはその少年の父親であろう人物も立っている。
特にこれといった特徴はない。顔も悪くないが、それ以上もない。彼女第一印象はそんな程度。体調不良にいち早く気づいてくれたあたりは好印象だったが、当時、特に気にもとまらない男だった。
しかし、父親は彼の到着を待っていたかのように、他の者たちとの会話を切り上げて少年の方へと向かった。
「来たかグラメスタ卿。その子が――」
「はい、私の息子です。お嬢様の側付きとして使ってやってください」
「ふむ……エレノアの体調不良にいち早く気づくあたり、他の者とは違うようだな。良いだろう、エレノア、これから私に話を通せないときは彼を遣いなさい」
「わかりました。お父様。お前、名前は」
「アーシェ=グラメスタ。以後、よろしくお願いします」
彼女の質問に、少年は答える。
ただ端的な返答だったが、彼の存在は後の彼女にとって大きな存在になることは露ほども思っていなかった。
◇◇◇◇◇◇
「お前はなぜここまでする? 今学園で静かに過ごしていれば研究職や騎士職にだって就けたはず。それを捨ててまで私のもとに来た理由は」
「そんなことを聞くんですか? てっきり、とっくに気付いているものだと思っていましたけど」
アーシェは彼女の質問に答えを出そうとすると、突然周囲が騒がしくなり始める。
家の衛兵が窓の音で少しずつエレノアの部屋へと集まってきているのだ。
ドタドタと足音が集まってきたかと思えば、今度は彼女の部屋の扉が激しくノックされる。
『エレノア様、大丈夫ですか!』
声の主はエレノアの使用人のもの。いち早く駆け付けたあたり、強い忠誠心を持っているように思える。
だが、彼女は使用人の呼びかけに対してなにも返さない。
彼女が待っているのは、アーシェの返事だけだった。
「なあ、なんで来てくれたんだ。私は、ひどい女なんだぞ」
「そんなことありません。俺はあなたのためならなんだってします。エレノア様、あなたの笑顔のためなら。この国だって敵にする。だから、俺の手を取ってください。絶対にあなたを笑顔にして見せます」
『お嬢様は無事なのか!』
『わからん。中から声はするらしいが……突撃するぞ!』
固く施錠された扉がもうじき破られる。
もう時間の余裕などない。彼女の出した答えは――
「本当は、嫌なんだ。あんな男のもとに嫁ぐなど――私は、殿下が、殿下のために生きたかった!だが、それが叶わぬのなら……」
「行きましょう、エレノア様。この国を出て、何者からも逃げましょう」
「ああ、最後の最後まで私を信じさせてくれ」
彼女は彼の手をとる。その行動の真意はアーシェにしか伝わらない。
ついに扉を破壊され、衛兵が部屋の中に飛び込んでくる。
しかし、もうすべてが遅い。
すでにエレノアを抱えたアーシェが窓際に立ち、部屋から逃げようとしていた。
「なにをしている!」
「……嬢の身はいただいていく」
「早く捕まえ――ろ……?」
衛兵の隊長らしき人物が号令を出すが、言い終わるよりも前に二人の姿闇夜の中へと消滅した。
その後、国内の御者の目撃証言を最後に、エレノア=イグフレアとアーシェ=グラメスタは国内から姿を消した。




