11.
十時より少し早めに目的地へ到着した碓氷は、手元の地図と目の前の洋風邸宅を見比べていた。どうやら間違いないらしい。唾を飲み、「鳴門」と書かれた表札塀の門を潜る。
ドアの前まで来ると、一瞬の躊躇いの後、インターホンを鳴らした。しばらく待つも、反応がない。再度ボタンを触れようとすると、突然ドアが開いた。
メガネを掛けた三十代半ばぐらいの細身の男性だった。皺ひとつない青のシャツとスーツパンツに、神経質そうな顔立ち。彼が鳴門だろう。碓氷の顔をまじまじと見つめ、険しい表情のまま口を開く。
「寒河の知り合いで合ってるか?」
「はい」
ドアが大きく開かれた。中に入るよう促され、碓氷は鳴門の後に続く。
土足のまま中に上げられ、奥の部屋に通された。一般的な家庭の居間とは、かなり様相が異なっていた。長机を囲む椅子が八つ。さらに、その横に長椅子が二列並んでいる。加えて、どこからか漂ってくる薬品の臭い。その正体を知ったのは、壁に並ぶ本棚の中を見たときだった。一面に、びっしりと医学専門書が詰まっていたのである。
「医師の方ですか?」
「一応な。今は訳あり患者や怪我人の世話が主だが、数年前までは大学病院で勤務していた」
壁の隅の目立たないところに、医師免許がひっそりと飾られていた。碓氷がそれを眺めていると、
「コーヒーと紅茶、どっちがいい。どっちでもいいと答えたら水道水になるが」
「コーヒーで」
返事を聞くや否や、鳴門は暖簾で仕切られた奥のキッチンへ消えた。
飲み物を待つ間、碓氷は再び部屋の中を見回した。埃ひとつ落ちていない床。電源の消えたテレビも、やはり掃除が行き届いている。左手には裏庭があり、窓の手前に大きなサボテンが佇んでいた。そして、ちょうど正面にある白い扉。ここが診察室なのだろう。レイアウトの異様さとシンプルな点は似ながらも、「綺麗」を自称する某所よりも綺麗な印象を受ける。
一通り眺め終えたところで、ホットコーヒーが届いた。
同時にインターホンが鳴った。鳴門がモニターを確認し、無言で玄関に向かう。
碓氷はコーヒーに添えられていたミルクと砂糖を全部加え、掻き混ぜた。足音が近づいてくると、顔を上げて開口した。
「寒河、無事でよか――」
鳴門、寒河に続くもう一人の顔を見た瞬間、碓氷は硬直した。
「君も無事でよかった」
寒河がそう言い、向かいの席に腰を下ろす。
野崎は、凍りついている部下を一瞥すると、二人から離れた一番窓側の席に座った。
「飲み物、コーヒーと紅茶のどっちがいい」
「紅茶で」寒河が即答する。
鳴門は、回答を得られないもうひとりの来客を無言で睨みつけた。俯いたままでも視線を感じたらしい。野崎が不機嫌そうにこう答える。
「何でもいい」
鳴門は再び暖簾の奥に消えた。
「課長も連れてきたの?」
碓氷が驚いたように訊ねる。
「捨ててくるつもりだったが、乗り換えのときに手錠と足のどちらを破壊するか、迫られてね。申し訳ない」
二人が小声で話す中、
「そもそも、逃げられたのは俺のお陰だろ」
野崎が口を挟んだ。
「ああ。危険な壊し方をしていたものだから、てっきり暴発したのかと思ったよ」
「それを言うならお前だって一緒だ。運転中の奴に憑依して事故らせるなんて、どうかしてやがる。俺ひとりの手首が飛ぶのと全員あの世行きになるの、どっちが危険か考えるまでもないだろ」
「あれはわざと起こしたんじゃない。後ろの奴らに巻き込まれなければ、もう少しマシな止め方をしていた」
暖簾が上がり、鳴門が帰ってくる。寒河の前にはホットティーを、野崎の前には無色透明な液体の入ったコップを置いた。
野崎が何か言いたそうに目で訴えるが、鳴門は無視して寒河の横に立った。
「それで? 誰から逃げてきたんだ?」
「漸義会の連中だ」
鳴門は大きな溜息を吐いた。
「面倒な奴を敵に回したな。まだ安地組のほうが――」
「安地組からも見つかると厄介だ、繋がってるのがいる」
「はぁ?」二度目の溜息だった。「何をしたってんだ。俺じゃ面倒見切れないぞ? いっそ異保に通報したほうが――」
「異保はダメだ、見つかると相当まずい」
今度は溜息すら出なかった。
「何だよそれ」
鳴門は頭を両手で掻き毟りながら、白い扉の中に去っていった。
ガチャン、と大きな音が立った。衝撃でテーブルの上の飲み物が揺れる。
碓氷が奇特そうに扉を見つめていると、
「概ねわかっているかもしれないが、宇都宮を殺したのは花山だ」
寒河が切り出した。碓氷が向き直る。
「ただ、全容を暴くためには香川も捕える必要がある。そこで、どちらから切り込んでいくべきかという話だが……」
寒河は一度、紅茶を啜った。半分減らしたところで、脇に寄せていたミルクと砂糖を一気に投下する。
「花山は正直なところ、どう動くか選択肢が多くて予想ができない。香川を始末しようにも、手段は多様だ。誰に何をどう頼るのか。すべてカバーするには身体の数と時間が足りなすぎる。対して、香川は私の携帯を持ったままだ、居場所自体は特定できる」
寒河はサブ端末をテーブルの上に出した。地図上の点が、池袋のある場所で止まっていた。
「としま第一ビル」
碓氷が呟く。かつて、安地組が経営するキャバクラや居酒屋、パチンコ店などがひしめいていた場所だ。取引などが活発に行われていたのだが、特殊だったのは南池袋一丁目に存在し、多くの一般人も知らずに利用していたことだった。異保ですら、昨年ビル一階の居酒屋で取引時のトラブルを現行犯で押さえるまで気づかなかった。
テナントがすべて退去し、今は空きビルになっている――そういう認識だったが、まさか密かに利用されているとは思っていなかった。
「それなら、香川からのほうが早そうだけど……何か気になることが?」
寒河の表情がどうも冴えない。しかし、
「いや。何も」
はぐらかすように否定された。
「強いて挙げるなら、花山が茨城空港に向かう可能性もゼロではないことぐらいだ。ただし、向こうも漸義会の身内が張りついている、仮に行ったところで、逃げられるとは思わない」
「だったら、香川から捕まえましょう。その後に花山」
「香川が捕まれば、花山の選択肢は高飛び以外消える。自家用機で逃げるとわかってるなら、ある程度場所も絞られる。それで、一番厄介なのは――」
寒河が窓のほうを見た。視線の先には、コップの水を無表情で見つめる野崎の姿があった。
寒河は軽蔑の目を向けながらミルクティーを飲む。一方野崎も、自分の世界に入り込んでしまっていた。
見兼ねた碓氷が、軽く咳払いした。
「課長は、これからどうするつもりですか?」
野崎は、ぼんやりしたまま顔を上げた。ゆっくりと数度瞬きすると、徐に口を開いた。
「わからない」
「正気か?」寒河がすかさず口を挟む。
「いや、頭では理解している。花山には死んでもらって、碓氷には濡れ衣を着続けてもらう。俺が社会的に生き残れる選択は、これしかない。ただ……」
机の上に置かれる拳が小さく震えた。野崎は歯を噛み締め、唾を飲み込む。
「花山には死んで欲しくない」
明確に意思を持ちながらも、弱々しく震える吐息が零れた。呼応して、別のところから呆れ果てた溜息が聞こえる。
「つまり、花山につくと。いいんじゃないか? 生かしてくれると思うなら」
「そうだな。奴は失敗に厳しい。しくじった俺を殺すかもしれない。その一方で、真っ当な心の持ち主でもある。誠意を持って話せばわかってくれるはずだ」
寒河はうんざりしたようにそっぽを向いた。これ以上会話するつもりはないようだ。しかし、碓氷は違った。
「課長。今度の事件の真相を究明するには、香川・花山双方から話を聞く必要があります。どちらも死なせるつもりはありません。もし、花山の命さえ望めればいいのでしたら――異保官としての矜持がまだ残っているのであれば、協力していただきたいです」
野崎の瞳が大きく開かれ、部下の真剣な表情を捉える。わずかに口が開くも、声が発せられることはない。
時計の秒針の音が、沈黙の長さを物語っていた。
寒河が白い目で傍観しながら、ティーカップの中身を飲み干す。
そのとき、白い扉が勢いよく開いた。医療器具を乗せたワゴンを押しながら、鳴門が帰ってきた。
「あークソ、照明がお陀仏しやがった」
ワゴンが寒河と野崎の間の席に衝突する。長机が大きく揺れ、コーヒーと水が飛び出した。
テーブルの上に、白い腕が投げ出された。鳴門は息を荒げながら、右手に握った注射器を突き刺した。シリンダーの内容物が血管の中に押し出されていく。
ピストンが底に着くと、注射器を抜いてワゴンからアルコール綿を取り、軽く充てた。
鳴門の手から離れた注射器が、テーブルの上を転がった。やがて、水の入ったコップに当たった。
野崎の沈んだ目が、注射器を捉えた。それから鳴門のほうを向いた。
不気味な笑みを浮かべていた鳴門が、視線に気づいて振り向いた。口元から涎を垂らし、気持ちよさそうな息を吐く。
「なんだ? その湿気た面は。幸せが逃げてくぞ? どうだ、一発キメてみないか?」
野崎は再び注射器を見つめると、たちまち顔を青ざめた。
「おい。何だよ、それ」
「何って……仲間の一人や二人、常習してんのいんだろ?」
「はぁ?」
「はぁって何だよ、はぁって。まるで俺だけ異常者みたいじゃねえか」
微妙に呂律の回っていない声が喚き立てる。そこに、
「鳴門。そいつは反社じゃない、異保官だ」
寒河がぴしゃりと告げた。
「え」
鳴門の顔から笑みが消え失せる。
「ってことは、もしかしてその女性も?」
「はい」
寒河に代わって碓氷が頷いた。
鳴門は高速に瞬きを繰り返すと、口をパクパクと開きながら話し始めた。
「えっと、これは、その、モルヒネっていう医療麻薬だ。そう、医療麻薬。麻薬っていうと悪いもののイメージがあるかもしれないが、鎮痛薬として効用する間は依存性だの中毒性だのといった危険はない。有名なのは、がんの痛み止めだ。今度知り合いが病院送りになったらぜひ見てきて欲しい。モルヒネでラリってるがん患者はひとりもいないはずだ」
一息置いて、目を泳がせながら話を再開する。
「それで、その、心の鎮痛剤としても、その、優秀で、とても、だから、がんのときと一緒で、心の痛みを治すために打っても、依存性は――」
「鳴門」
寒河が厳しい口調で口を挟む。指摘はせずとも、咎めるような目が圧力を掛けた。
鳴門は決まり悪そうに話を中断し、肩をすくめた。
「ったく。情報屋って生き物はデマに厳しいな」
「当然だ。よりにもよって医者が吹聴するんだ、質が悪い」
鳴門がテーブルの上の注射器を拾い、片づける。
そのとき、インターホンが鳴った。鳴門以外の三人が、玄関のほうを向く。
「来客みたいだぞ?」
寒河が促すも、鳴門は平然と注射の後始末を行っていた。
「いいのか?」
「アポなしは基本居留守だ」
「急患だったらどうする」
ようやく鳴門は作業を止め、面倒臭そうにモニタを確認した。
「急患にしては元気そうな患者が五匹だ」
違和感を覚えた寒河が覗きに行く。画面を見た瞬間、目つきが変わった。
「花山だ」
寒河が振り向きざまにそう告げる。
碓氷は反射的に立ち上がった。
「どうする? 応戦する?」
「敵は五ないし六か」
寒河が野崎を一瞥する。
玄関から、ドアを叩く音が聞こえ始めた。決断を急かすように、だんだんと激しくなる。
「待ってくれ」
鳴門が二人の間に入った。
「治せるのをいいことに、怪我人を作るのはやめてくれ。ここではまだ死体を生んだことがない」
切羽詰まった表情だった。寒河が息を吐き、碓氷にこう提言した。
「ここは引こう。鳴門を巻き込みたくない」
「了解」
二人のやり取りを聞き、鳴門が胸を撫で下ろした。
「助かるよ。裏庭から外に出られる。ドアがブッ壊される前に行け」
寒河が真っ先に窓を開き、足を踏み出した。碓氷も後に続こうとしたが、庭に入る直前で足を止め、背後を振り向いた。
視線の先には、覚悟を決めて座り込む野崎の姿があった。掛けるべき言葉に悩み、碓氷は足踏みする。
「碓氷」
裏庭から寒河が呼び掛けた。
「それが奴の決断だ」
碓氷は口を閉ざして目を伏せると、前を向いて外に出た。
まもなくドアが破壊された。鳴門が、ワゴン共々慌てて白い扉の中に避難し、入れ替わるように花山たちがやってくる。
野崎が立ち上がり、怖々と口を開く。だが、相手は見向きもしなかった。
「いないねぇ」
「こっちの奥、探しましょうか?」
取り巻きの一人が暖簾をめくる。
「うん、よろしく」
「では、自分はあの部屋を」
もう一人が鳴門の逃げ込んだ部屋を指して告げる。そこに、
「情報屋なら今さっき裏庭から逃げたところだ」
野崎が口出しした。
花山が野崎を一瞥し、開いた裏庭の窓を見る。
「ぱっぱと用済ませて追い掛けますか」
突如として、男たちが野崎を取り囲んだ。
「おい、待ってくれ」
野崎は四方を見回し、最後にじわじわと詰め寄ってくる花山を見据えた。
「しくじったのは本当に申し訳なかった、必ずや挽回して見せる。だからお願いだ、今ここで殺すのは見送って――」
「嫌だなぁ。次なんてありませんよ」
花山が嘲笑交じりに、はっきりと告げた。
野崎の目から光が消えた。
目の前まで来たところで、花山が足を止める。
「直接のお別れになっちゃいましたね。立場が逆転してますけど」
生温い右手人差し指が、野崎の額に突きつけられた。こめかみから、スッと冷汗が落ちていく。
今になって、ようやく理解した。打ち解けるきっかけになった同類発言も、親身な相談役になってくれたのも、時に捜査へ力を貸してくれたのも、全部都合のいい関係を築くための演技だと。悲哀と後悔の数が、眉間の皺となって刻まれる。己の愚かさを憎みながら、野崎は目を閉じた。
そのとき、周りの男たちが呻き声を上げた。そのまま膝から崩れ落ち、自らの脚を押さえる。花山は虚を食らい、固まった。
直後、裏庭から鎖が飛び出した。野崎を捕らえ、勢いよく戻っていく。
花山の視線が裏庭へと行き着いた。そこには、野崎の他に碓氷の姿があった。
「番犬――」
花山は舌打ちし、碓氷たちに右手を伸ばした。たちまち無数の金属弾が現れ、矢の如く射出される。
とっさに碓氷が金属壁で防御した。カンカンと直接頭蓋骨に響くような音が、すぐ先から聞こえてくる。弾丸は壁を殴り、地面に落下していった。しかし、それは初めのうちだけだった。
突然、弾丸が意図しない動きを始めた。壁にぶつかるや否や、勢いを保ちながら一八〇度進行方向を転換した。
花山はすぐさま身を守ろうとしたが、全弾を防ぐことはできなかった。前に突き出していた右手から、床に真っ赤な鮮血が滴り落ちた。
「能力干渉か――」
花山は痛みと恨みを兼ね備えた目で、右手を睨んだ。それから防壁を払い、裏庭を見た。
すでに碓氷たちの姿はなかった。
床で悶えていた男たちが、徐々に立ち上がる。
「追うぞ」
彼らは頷き、さっそく裏庭へ出ようとした。そこに、
「待て。貴様ら、他人ん家の裏庭を汚して行く気か?」
別の部屋に退避していた鳴門が、医療器具用ワゴンを押して戻ってきた。花山たちの鋭い視線が、一瞬にして集まる。中には、戦闘態勢を構える者までいた。
鳴門は頭を掻き、溜息を吐いた。
「話の通じない脳筋どもだ。怪我の手当をしてやるって言ってんだ」
急に、花山の目から角が取れた。代わりに温和な笑みが浮かぶ。
「そいつは助かります。なるべく早く済ませていただけると」
「それはてめぇの身体に言え、早く血を止めて下さいってな」
唐突に粗暴な口調に変わり、花山の顔が引き攣った。
鳴門はさらに続けた。
「あらかじめ言っとくが、怪我の処置はボランティアじゃないからな? ドアの弁償代と合わせて二百万だ」
気難しい顔つきの男が二本指を立てる様を、花山は面食らったように見つめた。その顔には、やがて不満の色が滲み始めた。ついに口を開こうとすると、
「あーあー」
待ち構えていたように、鳴門が声を被せた。
「『はい』か『イエス』かで答えろ。それ以外の単語が聞こえてきたら、うっかり麻酔の量を間違えちまう」
狂気を孕んだ鋭利な視線が、男たちの顔を一周する。誰一人として、歯向かおうとする者はいなかった。