表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Takeda Kingdom!甲斐国は世界を目指す  作者: 登録情報はありません
第1章
6/169

1399年奇妙寺前史005(医療と看護の閃き:試験管)



ガラスが産業革命を起こしたという説がある。


日本や中国で充分その要素がありながら、産業革命が起きなかったのはなぜか?

一説によると「ガラス容器がなく、瀬戸物容器だったから」と言われている。


瀬戸物容器は透明ではない。蓋を開けて、化学反応の結果しか分からない。

実験は結果ではなく、化学反応の過程を観察する事が大切だった。

経過がわからなければ、直感とインスピレーションには響かない。

透明容器こそが必須であったのだ。


松戸彩円は手を尽くして、甲斐国内の陶芸工房を当たった。

ガラスの溶融には1200-1400-1700度の高温が必要だからだ。


だが当時は中国から持ち込まれた磁器の解明に躍起になっていた。

どうやって白い陶磁器が出来るのかは1610年(有田焼)まで待たねばならない。


ガラスを溶かすルツボや窯の温度管理は未知の世界である。

これには若い作陶家が興味を示し、援助が得られた。


ガラス溶融で重要なのは熱履歴だ。

1400℃で溶融し1200℃で作業する。

あまり液相温度を長く保つと、ガラス(非結晶)にならずに結晶になってしまう。

そうすると濁った感じになって、透明なガラスにならないのだ。

試行錯誤が続けられ、透明ガラスの製作にメドが立ってきた。


一方、原材料の調達には手間が掛かった。

長崎や堺には、4~5人で奇妙寺青年部が何度も行くようになった。

ガラス(カレット)の下取りとかガラス容器の買い付けだった。

その内、南蛮人とも馴染みの者が出来た。

何もかも順風満帆だった。


だが、それがいけなかった。


ある時、だれも帰って来なくなった。

奴隷狩りの誘拐だ。

日本人は海外で高く売れるのだ。


だれが犯人か?などとは、もちろん分からない。

いつどこで誘拐されたかも不明だった。


これ以上あぶない橋を渡るような事は出来ない。

それからは直接買い付けはご法度になった。

外商から買うようになったが、仲買人料がこれまたべらぼうであった。


「ガラスを材料から日本で作る事ができたらなあ」と彩円。

言ってからハッと気付いて、後ろを見た。

よかった、誰もいない。


ガラスの歴史は紀元前にさかのぼる。

ガラスの作り方はエジプトの古代から知られていた。

日本でも弥生時代のガラス工房が福岡などで見つかっている。


古代エジプトの乾燥した湖(乾湖)では炭酸ソーダの塊が採れた。

これを珪砂(石英の砂)と石灰石と混ぜて強熱(1400℃)して作る。

炭酸ソーダを入れないと、ガラスの融点は1700℃近い。

融点を低下させるこの方法(融点降下剤)は紀元前から知られていた。


だが日本には湿潤な気候が災いして炭酸ソーダは産出しない。

だが、これを採る方法はあった。

昆布を灰にして上澄みを取り、乾燥させて炭酸ナトリウムを得る方法だ。

含有量は1kg当たり0.0g~2.5gとまあごく少量である。


日本ではガラス(カレット)に頼るしかない。


 当面のガラス(カレット)は200kgを超えて、実験道具の割り当てには困らなかった。

炭酸ナトリウムについては化学の発展を待つしかなかった(1420年より)。


こうしていよいよガラス実験道具の生産に着手する事となった。

吹き竿の先に溶けたガラスを吹いて、飴のように膨らます。

その古来からの伝統的手法でやってもよかった。


だが奇妙寺の松戸彩円はちょっと振り切れていた。


なにやら木工細工に熱中している。

出来たのは2つの金型の木の模型だ。


彩円「こういうのを、いっちょう頼む」

鍛冶「またですか、変な小道具を……」


鍛冶屋は変顔だったが、内心興味津々である。


鍛冶屋の見立てではこれは何かの割り型であった。

最初が粗仕上げ用、最後が仕上げ型とみた!


それはおおよそ当たっていた。


①真っ赤に焼けたガラスを粗型(あらがた)に流し込む

②ふいごで圧搾空気を送り込み、大体の形にする

粗型(あらがた)から取り出す

④上下をひっくり返す

⑤仕上げ型に入れる

⑥ふいごで圧搾空気を送り込み、型に密着させる

⑦試験管完成。 


挿絵(By みてみん)挿絵(By みてみん)


こうしてビーカー、フラスコ、試験管を製作した。

こういう回りくどい方法を取るのは理由があった。

将来の量産を見据えての選択である。


片や、香油の製法の分野では材料の入手が困難なものがあった。

スイギュウのギーは?

スイギュウはいったいどこに?


松戸彩円はすっかり忘れていた。

甲斐国にスイギュウはいなかったのだ。


スイギュウのギーはなかったので、ベニバナ油で代用した。

 ベニバナは6世紀に顔料の材料として輸入され、平安時代には日本でも栽培されている。

 花を発酵乾燥させたものは赤色染料として価値があり、種子は絞って食用油とした。

 ベニバナ油には、偶然にも酢酸トコフェロール(ビタミンE)が豊富に含まれていた。


早速、ベニバナからアーユルヴェーダ製法で成分を浸透する。

コールドプレス(冷搾)でベニバナ油をしぼり取った。


インド人講師「イェシティマドゥはアーユルヴェーダではヴァルニヤの質ね」


堺港のインド人講師もそう言っていた。

あの時、松戸彩円は単語の意味が分からなかったが、黒板の甘草の絵は分かった。

漢方薬の甘草の効能には、天然保湿作用と冷やす作用がある。

グリチルリチン酸だ。

その作用について解説しているのだろうと理解していた。


 こうして血行改善に効く酢酸トコフェロールと消炎効果のあるグリチルリチン酸とが合体した。

これがまた戦場で抜群の効果があった。


「奇妙寺の僧形はバケモノか」


そういう軍師がいたとしても不思議はなかった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ