1480年ポルトガルの魔手
ポルトガルの魔手、アジアに迫る!
この時期(1450-1499)は世界情勢も大きく動いていた。
奇妙寺の諜報機関はすでに南蛮船を通して、海外の事情を知り得ていた。
世界は分断された地域地方ではなく、地球規模の広域へと大きく変貌しようとしていた。
南蛮国ではオスマン帝国が東ローマ帝国を滅ぼし、中世が終わり近世が始まろうとしていた(1453)。
スペインとポルトガルはオスマン帝国の支配する地中海東方よりむしろ、北アフリカ沿岸、インド洋に覇権を求めた。
それには西アフリカから南アフリカ先端の岬を廻り、インド洋、アラビア海に出ねばならない。
まだ誰もそのような無謀な航海に挑戦したものはいない。
アフリカ西岸のカナリア諸島より南方には煮えたぎる海がある、という迷信を当時の南蛮の船乗りは固く信じていた。
これでは探検の為の船乗りがなかなか集まらない。
賃金ではない、信心の問題だった。
「屈強な船乗りたちよ!陸は燃えていないぞ!」
「迷信に屈するな!」
すでにムスリム商人によってアフリカはとっくの昔にイスラム化していた。
マリ王国(1240-1473)、ソンガイ王国(1464〜1591)がそれである。
マリの時代に国王がメッカ巡礼までしている。
その時に大量の黄金を奉納した。
そのため、「黄金の国マリ」の噂が広まり、交易が盛んになったのだ。
アフリカ陸路は、ムスリム商人によるネットワークによって押さえられていた。
ポルトガルは海路の開発に躍起になった。
ポルトガルのエンリケ航海王子は14隻の探検船を率いてラゴスの港を出発。
探検によって赤道を越えて、迷信を打破した。
その足跡は現在のシエラレオネに達している(1460)。
アジア交易路探索のため、ポルトガルはアフリカ西海岸を南下していた。
ポルトガルはやがて、南アフリカを回ってインド洋に到着するだろう(1488)。
奇妙寺の諜報機関ではその年は1505-1515年あたりだろうと予想していた。
これに関してはヴェネチア商人も頭を悩ましていた。
インド北部のグジャラート・スルターン朝はマラッカ王国の仲介貿易で富を築いていた。
モルッカの香辛料や中国産の絹織物をアラブ人に売却する中継貿易地である。
そのアラブ人から輸入を独占していたのがヴェネチアであった。
ポルトガルがその独占市場に突入してきたのだ。
マムルーク朝のスルターンはオスマン帝国に支援を求めた。
直ちに地中海の戦闘用ガレー船がヴェネチアの技術で分解され、陸路インドに輸送された。
トルコ傭兵隊、オスマン義勇軍も駆け付けた。
軍艦12隻+小型船80隻の堂々たる威容である。
対するポルトガルは軍艦12隻+小型船6隻であった。
だが結果はお察しの通りとなった。
アラビア海は奇妙寺の技術でも遠すぎた。
インドにはごめんなさいしなければならなかった。
そのポルトガルがいよいよアジアに迫ってきた。
東南アジアをポルトガル・スペインに押さえられるとどうなるか?
インドネシアのマラッカ(東南アジア貿易中心地)
中国のマカオ(貿易中継地の拠点)
フィリピンのマニラ(西回りルート中継拠点)
これらを植民地にされる。
これにより日本は南方資源に手が出せなくなるのだ。
<後述するがインドネシア:バレンバン油田、新大陸のゴムの木の再植付等の問題もあった>
日本では採掘不可能、採取不可能な原料や材料ばかりが東南アジアに集結していた。
日本にとっても、東南アジアにとっても、危機が迫っていた。
スペインとポルトガルとは世界分割によって新大陸と東アジアをそれぞれ植民化しようとしていた。。
その魔手は既にインドに迫っていた。
ポルトガルの植民と計画は確実にマレーシアのマラッカに近づいている。
日本は海洋貿易で大きく遅れを取っておりこのままでは先を越される。
1480年、奇妙寺は1人の僧形を密かに派遣する。
奇妙寺の長崎平戸支部の僧形の弗朗である。
彼は領主の許しを得て、外洋に乗り出した。
彼はスペイン人と日本人のハーフだった。父親似である。
それゆえ捨てられ、奇妙寺に拾われ、教育を受けていた。
南蛮の言語に詳しく今回の任務に選ばれたのだ。
明国へ行く予定の船に便乗して奇妙寺の僧形として明に渡るのだ。
しかし航海途中で倭寇に襲われ、旅は途中で終わった。
いや始まったのだ!
奇妙寺の戦略はこうだ。
奇妙寺謹製の南蛮式帆船でわざと倭寇に捕まる。
南蛮帆船と引き換えにマラッカへの道を案内してもらう。
船長も乗組員も奇妙寺の素っ破(忍者)である。
ぬかりはなかった。
倭寇はすぐ南蛮船を分析して、三角帆の揚力に気付く。
中国のジャンク船だった倭寇の船はスクーナーに刷新する。
倭寇は指図されるのが大嫌いだ。
だが奪い取ったモノから学ぶのは大得意だ。
それを利用するのである。
これがポルトガルに対する威嚇になる防衛戦の一角だ。
アラビア海で三角帆の海賊船に散々な目にあっている筈である。
抑止力として覿面に効くだろう。
弗朗は倭寇の拠点の浙江省の双嶼を経て、マラッカに至った。
マラッカは、東アジアの交通と交易の要衝であり、世界の十字路と言われてきた。
その分、行きかう商人から得られる情報も正確で速かった。
弗朗は日本という国が琉球王国の北方にあり、優れた国家である事を説いた。
しかしながら、当時の日本の輸出は銀を含む銅鉱石、硫黄などの鉱物だけで、輸入は綿布、生糸等であった。
つまり原産国であり、加工品を輸入する貿易後進国であった。
これが日本という国家の当時の認識であった。誰も振り向いてくれなかった。
西欧の目を誤魔化すための秘匿が、マラッカでは裏目に出ていた。
次回は1480年ムガール帝国とヴィジャヤナガル王国です。