1480年ムガール帝国とヴィジャヤナガル王国
南蛮ポルトガルのインド侵攻始まる!
1480年を基に奇妙寺の版図は東アジアに拡大した。
日本が戦国時代で混乱しているこの時期。
スペインは南米へ、ポルトガルはインド以東への侵略と植民地化を拡大していた。
これを阻止するためには、東アジアと直に接する事が必要だ。
すでにポルトガル人はインドに深く食い込んでいた。
その攻勢を食い止めるのは、日本は遠すぎる。
やるとしたらマラッカ王国のポルトガル侵攻を食い止めるのがギリギリだ。
マラッカ王国にはポルトガル人がすでに来ていたが、それは私貿易商人だった。
喜望峰はまだ発見されていない。
ポルトガル人は陸路をベネツィア経由アレクサンドリア、イエメンのアデンを経て、海路でアラビア海を渡洋、インドに達していた。
彼らは必死になって、香辛料の原産地を探していたが、見つからなかった。
当時の香辛料貿易はイスラム商人が独占していたからだ。
その生産地は当時のイスラム商人が秘匿していた。
一体どの島が原産地なのだ?
ポルトガル人にとっては、その生産地を突き止める事が至上目的であった。
しかし当時の日本人は、食生活の違いから、香辛料に何の興味もなかった。
試しに魚の塩焼きや味噌汁にスパイスを掛けてみた。
……。
「うわ、まっず!」
「何コレ、何コレ」
「ぺっぺっ!」
日本食にスパイスは全然合わなかったのだ。
「いらんわ、こんなもん」
現地人も苦笑いだった。
西洋の彼方から、命がけで商人が渡洋し、奪い合うスパイス。
金1gはコショウ1gと同じ価値があると言われるスパイス。
それを「いらんわ、こんなもん」とは恐れ入った。
それゆえ、スパイスが世界に流通する国際都市で日本はあまり興味を持たれなかった。
これはまた好都合でもある。
日本は「南蛮の強欲」に興味を持たれない方が良いのである。
その間にマラッカ王国に拠点を築くのだ。
日本が世界市場に乗り遅れている時間稼ぎでもあった。
一方、南蛮ポルトガルとの最前線たるインドの地。
当時インドは麻のように乱れており、多くの王朝が現れては消えていた。
インド戦国時代。
奇妙寺の僧形は多くの王朝に教育係と称して派遣され就任した。
■ムガール帝国(1483-1530:バーブル在位まで)
北インドに覆い被さるような地勢を持つ。
トルコ系イスラーム王朝。
この帝国が陸路で迫るポルトガル・スペインに対する鉄壁となる。
1人が北インドのティムール朝の三男、バーブルの教育係の僧として、1483年から就任した。
彼、三男バーブルが初代ムガール帝国皇帝であり、帝国の創始者となるのだ。
■ヴィジャヤナガル王国(1336-1649)
南インドの肥沃な土地を支配する国家。
ヒンドゥー王朝。
多くの王国王朝が勃興没落を繰り返し、ポルトガル人はこの擾乱に乗じてマラバール海岸の進出を取得。
王国は戦争に必要な騎兵の軍馬の輸入を、ポルトガル人と積極的に行い、軍の維持に努めた。
マラバール沿岸には300以上の外港があり、ゴア、カリカット、マンガロールなど良港も多い。
特にカリカットは西インドのみならずポルトガル、イラン、アフリカ諸国、アラビア半島からの商人で賑わった。
当時の軍事力の中枢には馬があった。
歴代の王はいかに優秀な軍馬を入手するかに腐心していた。
優れた軍馬の入手こそが強力な軍隊を組織するための要であった。
ポルトガル商人がもたらす優れた軍馬、そして強力な戦象。
毎年ヴィジャヤナガル王国の王が買う馬は13000頭にのぼった。
王国の軍隊は象300頭、歩兵10万人、馬2~10万頭から成っていると言われ、いかに軍馬が重視されていたかが分かるのである。
王はポルトガル馬商人を優遇し、祭りの際にポルトガル馬商人は玉座に近い高床に席を与えられたという。
提供される軍馬はアラビア種、ペルシア種など優秀な軍馬であり、日本はそれに対抗出来なかった。
ここにも奇妙寺からの僧形が版図を図ろうとしたが、残念ながら失敗している。
だがそれは通商における立場であった。
ポルトガルの軍隊はすでにインドに迫っていた。
1509年ディウ沖海戦でエジプト・アラブ連合艦隊を破り、インド洋西海の制海権剥奪を許す。
ヴェネチア共和国+ラクサ共和国+オスマン帝国+マムルーク朝+グジャラート王国の連合軍。
ほぼ総力戦であった。
ポルトガルはそれを打ち破って侵攻してくる。
1510年攻防の末にアルプケルケ艦隊にゴア強奪を許す。
西インドのマラバール海岸とインド西のアラビア海の覇権は、ポルトガル人が掌握したのである。
次回は1500-1510年マラッカ王国000です。




