1-12 S岳掃討作戦-アズサ-
黒い鶴がけたたましく鳴き声を上げ、どこかへと飛び去っていく。
今、S岳は死の山と化していた。
太陽は厚い雲の奥に姿を消して薄暗い。
山中に妖怪が跋扈し、動物を溶かす黒い雨が降りしきり、悪霊がか細く嘆きを咆哮しながらさ迷う。
生者は決して足を踏み入れてはならず、また許されない。
山の全てが生を否定する。お前も死ねと地獄へ引きずり込む。
そう。そこは死界。
そんな苛酷、劣悪な環境の中を二人の影が山頂を目指して歩いていた。
「はぁ……はぁ」
息を切らせながら子供の足で険しい道なき道を進むのは総一だ。
まだ雪の残る山を登るという事は非常に体力と神経を使う。更には今、この山には総一らの命を奪おうとする敵がそこかしこにいるのだ。もう道中で襲われた回数は軽く二桁を超える。
黒い雨、強酸性のそれから身を守るために常に中和の術に意識を配りながら、周囲の妖怪の動向や襲撃にも警戒する。それはひどく精神を削ることだった。
如何に日頃鍛えている総一であっても、この行軍は堪えていた。
しかも水は酸性に汚染され、喉の渇きを潤す事もできない。周り中は敵で、安心して休憩できる場所もない。
「く……はぁ……」
それでも総一は泣き言一つ言わず、ただ黙々と足を動かし続ける。
宗主たるべく。ただ強くあるべく。皆をその背に庇うべく。
総一は進む。前へと進む。
少しずつ重くなってくる足を一歩、また一歩と持ち上げ、前の土を踏む。その繰り返し。
濡れた平安貴族のような和服はズシリと重く総一に圧し掛かり、それはまるで枷のよう。
「ケホ……う……」
肺が酸素を求め、喘ぐ。心臓の音が大きく耳に響く。雨の雫が目に入り、重い腕をなんとか持ち上げて目元ぬぐうだけでも一苦労だ。
「あっ」
岩の上の雪に足を取られ、バランスを崩す。
そこに隣から力強い腕が伸び、総一をすかさず助け起こす。
「ご無事ですか」
「うん……ありが、はぁ、とう」
「ご休憩なさいますか」
「ううん。休めるとこなんてないよ。はぁ。大丈夫だから。行こう。ごめんね、遅くなってて」
「……いいえ。滅相もありません」
貴博は取った総一の腕を放し、再び総一の歩みに合わせて行軍を再会する。
滑った時に足に変な力が入ったのか、総一の足が少し震えていたが歩き続ける内にまた治まる。だが疲弊は着実に足に、腕に、全身に溜まりつつあった。
貴博は貴博でずっと襲い掛かってくる敵を相手に魔法を繰り広げていた。
如何に強力な力を誇る貴博とてその力のスタミナは有限だ。故にギリギリまで力の消費を抑え、襲い掛かってくる一体一体を的確に、素早く一発の魔法だけで撃退していた。
本当なら貴博が総一を抱えて山を登って行ってもいいのだが、そうなると全方位からの不測の襲撃に遅れを取る可能性があるため、できなかった。
そのため総一は子供ながらも自分の足で険しい山道を進む事になっているのだが、総一は何ら不平も不満も漏らさずにずっと前だけを見据えていた。
その姿を見た貴博は、改めてこの小さな主を無事守り抜く事を固く決意する。
「そのためにも……小鬼風情が、身の程を弁えろ」
頭上の木の枝から黒い小鬼の影が三体、空中に身を躍らせる。狙いは地上の総一ら二人だ。
同時に二人の後方から地を疾駆する同じく黒い小鬼が四体。温かい人間の肉を食らおうと餓鬼が襲い掛かってくる。
だが小鬼らが総一らに触れる事はおろか、その影を踏む事すら叶わなかった。
貴博の間合いに入った途端、弧を描くように振りぬかれるのは貴博の指。荒事を好まず、美しいその指が虚空を薙ぐと、頭上から飛びかかってきた小鬼三体はまるで見えない刃に襲われたかのようにまとめて胴体を両断された。
更に後方からの四体。これも返す刀で振りぬかれた指の軌跡に沿って、小鬼の体に断面が走る。そして小鬼らは一矢報いることすらできずにその命を散らした。
決して小鬼は弱いわけではない。今のと同じ状況で一般的な退魔術士が襲われれば、いい所2、3体に対応するのが関の山だろう。そして他の小鬼らの牙をその肉体に受ける事になる。
一回の襲撃でその結果だ。それが少し進むたびに何度も繰り返されるとなると、もはや死にに行く事と同義と言えよう。
その点、貴博は「私一人でも問題ない」と言わしめたその大口に見合うだけの実力があった。
敵からの襲撃を尽く、危なげなく、確実に処理していっていた。
いっそ、大妖たるB級の鵺を相手にしても渡りあえるのではないかと思えるほど、貴博の戦いぶりには貫禄と余裕があった。
「総一様、血をお拭いいたします」
「ありがとう」
頭上から降ってきた小鬼の返り血を頭から全身に浴びてもなお、総一は眉一つ動かさない。
弱音も我侭も言わない。
その小さな胸に己の血と共に深く刻み込まれているのはただ一つ。賀茂家を守る事。この作戦を成功させ、その成果を手土産に屋敷の皆の元へと帰る。
それを支えに総一は気力を振り絞り、その小さな足で立ち続けていた。
薄氷の上に。焦燥で胸を焦がしながら。後がないと追い詰められながら。
山に流れる淀んだ気の流れを頼りに辿っていくと、進むごとに流れは他所の流れと合流し、より太く禍々しくなっていく。
二人が進んでいくと、少しずつ山の空気が変わっていった。
妖怪の気配がわずかに薄くなっているのだ。
そして何よりも貴博は雨と緑の中にまだ微かに漂う血と鉄の臭いを嗅ぎ取り、そっと腕を総一の前に出して行軍の停止を促す。
「総一様……私達以外の何者かが先にここを通っているようです。ご注意を」
「えっ!? それって……僕ら以外に生き残ってる人がいたの?」
「どうでしょう……確かに腕の立つ退魔術士ならば私達のように進む事も可能ですが……いるのは何も味方とは限りません。万一、この雨と気の淀みが人為的な工作によるものであれば、何らかの企みを持った張本人がこの場にいるのは何らおかしくありません」
「う、うん……えっと、怪しい人かもしれないって事だよね」
「とにかく、ご用心を。私以外に気を許してはなりません。無用心に背を晒せば、刺されるやもしれません故に。総一様は目立たず、じっと黙って私の側にいてください。万一の場合でも私が囮になりましょう」
「うん。分かった。でも」
そこで一度総一が言葉を区切る。その間に貴博は何事かと不思議そうな顔をして総一へと振り向くと、彼の主は顔を曇らせながら口を開いた。
「死なないでね」
「……はい。総一様」
その主の言葉に貴博は少しばかり困ったような、そして珍しく嬉しそうな顔をした。
そして行軍を再開する。
山頂へと歩みを進めるごとにいよいよ異変が形になって現れてきた。
あちこちに小鬼の亡骸が打ち捨てられているのだ。それもほぼ一撃で絶命させられている。この先にいる何者かはかなりの腕を持っていると推測された。
「ふむ……また斬撃。刺突は少ないですね。刃を持つ武器が主装備か。魔法もあまり使った跡は無し、と」
戦闘の跡を注視しながら一段と警戒を高める貴博。
その時、木々の隙間を縫って人影が正面から現れた。
「何者?」
冷たい誰何の声。女性の声だった。
「Aチーム後方部隊所属、賀茂貴博。こちらが同じく後方部隊所属の賀茂総一ですよ。そちらは?」
「あら、同じチームだったの……ああ、あなたは朝見たわね。私はAチーム先発隊のアズサよ」
降りしきる黒い雨の中、颯爽と現れたのはパンツスーツにオーバーコートを羽織った黒髪とグリーンの瞳の美しい少女だった。オーバーコートに何らかの呪的防衛機能が働いているのか、発せられる何らかの気流によって黒い雨はアズサに触れる事無くその肌の表面で霧散している。
その右手には重厚なバスタードソードをぶら下げ、スーツの下には隠されたショルダーホルスターと拳銃がある。
名乗った後も警戒心に満ちたその瞳は睨むように鋭く、威圧的だった。
「私達のいた後方部隊はこの雨に溶かされ、ほぼ確実に全滅です。どうやら先発部隊の方も似た状況だったようですね」
「ええ。ちょうど魔物を相手にしてた時でね。この雨で他の連中がパニックになって後はひどいものよ。散々だったわ。魔物とこの突然の雨で総崩れになったわ。私は元々この雨は通用しないし、魔物も一人で十分片付けられたから問題なかったのだけれど、チームを誰一人救えなかったのは痛恨のミスね」
アズサが眉根を寄せて苦い声でそう語る。
彼女は直接戦闘能力に突出しており、根っからの前衛だ。守護や加護を付与するといったサポート系の魔法は不得手としていた。
「で、無線で本部に現状報告した後、折角だから山頂から発せられている特大の『穢れ』の偵察、或いは生まれた魔物の討伐に向かってる途中だったのだけれど……」
そこで一度手の中のバスタードソードを肩に担ぎ、剣の腹で自分の肩を数度苛立たしげに叩く。
「まさか私以外にもこの雨の中を進めるやつがいたなんて、正直驚いてるわ……けれど、子供連れでなんて何を考えているの」
「……」
最後、僅かに視線を向けられた総一は沈黙。貴博の言うとおりに側から離れず、大人しくしていた。
アズサは一度呆れたようにため息をつき、素っ気無く言う。
「悪い事は言わないわ。急いで引き返しなさい」
「それはまたどうしてですか?」
「言わないと分からない? ないとは思うけれど、この先に何があるかあるかも分かってないのかしら? この奥にいるのはB級、最悪A級の魔物よ。その子に掛けられている魔法……確かにあなたは相当に腕は立つのでしょうけど、死にたくないなら私に任せて大人しく下がってなさい」
「ふむ。その言い方ですと、まるであなたはB級相手でも一人で戦えるような口ぶりですね」
貴博はあえてアズサの誤りを指摘しなかった。『貴博が総一に魔法を掛けて黒い雨を防いでいる』という誤りを。その上で話を続ける。
「ええ、そうよ」
アズサは簡素に肯定した。
B級は妖怪の中でも非常に強力な力を持つ。それこそ集団で当たる必要がある相手だ。
種族として最強、それがB級の妖怪。これを単独で撃破するには非凡な才能が必要だ。そう、努力と才能の両方を兼ね備えたエリートと呼ばれるほどの。
そして目の前のアズサは確かにその一人だった。
退魔術士としての能力は既に高レベルでまとまり、実力も同年代はおろかベテランの中でも突出している数少ない一人だ。
「このマーク、この国じゃ知らないかしら。騎士内じゃあ若輩の新入りでしかないけれど、正真正銘紋章騎士所属よ。この意味、分かるわよね」
アズサが貴博に見やすいようにスーツの袖口を上げる。そこには戦神テュールを示すルーン文字、そしてドイツ最強の退魔術士の組織のマークがあった。
それこそが何よりもアズサが非凡である事の証。世界でも上位の実力者である事を示している。
傲慢とも言えるその物言いは自信と実績、そして実力によって裏打ちされたものだった。
「他所の縄張りを荒らして悪いとは思っているわ。けれどこれをこのまま放っておくわけにもいかないのよ。神に誓って悪いようにはしないわ。だから私に任せてあなたはその子と一緒に引き返しなさい」
「なるほど……あなたの言う事は分かりました。ですが、こちらにも少々事情がありましてね。このまま引き返せないのですよ」
「……その子をあなたの都合で殺すつもり?」
「とんでもない。そんなつもりはありませんよ」
「よっぽど自分の腕に自信があるようね……過信は勇猛を蛮勇に変えるわよ」
「さて、過信かどうか……それにB級であってもA級であっても問題ありません。私一人いれば十分です」
「ハッ。言うわね……」
そこで初めてアズサが笑う。それはぞっとするような冷笑だった。
「ま、いいわ。好きになさい。忠告を無視するようなやつらをわざわざ強く引き止める理由もないし、それであなた達が死のうがどうしようが私には関係のない事だしね。ただし……」
一閃。
アズサのバスタードソードが横薙ぎに振り抜かれた。
一拍置いてアズサの目の前に並んでいた二本の大木の幹が斜めにスライドしていき、やがてグラリと大きく傾く。そして突如切断面から燃え上がりながら重い地響き音を立てて倒れた。
幹を斜めに斬ったのはアズサの剣。恐ろしく速く、鋭く、無駄の無い、そして圧倒的に暴力的な斬撃だった。
だがそれすらも当の本人にとってはただの素振りだったのだろう、特に気負った様子も気迫を込めた様子もなく、ただただ自然体。
単騎で戦車を潰し、戦艦を撃沈する。
それが紋章騎士。名実共に至高の騎士という名を許されし者達。
「私の邪魔だけはしないことね」
言葉と裏腹に初めてアズサが軽やかに優しく微笑む。そのグリーンの瞳は一種凄惨な色で彩られていた。
アズサは文句なしに強いです。ええ。間違いなく強いです。
なお戦車破壊はルーンナイトの最低限のラインです。




