1-11 S岳掃討作戦-悪夢の戦場-
総一と貴博の二人は神域へと入り込んでいた。
そこは一面の雪景色。雪原と青空。ただそれだけの世界。
但し、その雪全てが血のように赤く染まっていた。
その光景を前に、総一は思わず息を飲んだ。
「……すごい穢れだ。こんなの見た事ない」
「どうやらこれが流れ出ていた気の歪みの大元のようですね。土地神は……見当たりませんね。いや、あそこにあるのは……総一様、失礼します」
「う、うん」
貴博が総一の膝の裏と背中に手を入れて抱き上げ、総一は貴博の肩と首に腕を回して落ちないようにする。総一を腕の中に固定した後、貴博は赤い雪の上を浮くように歩いていった。
そして一面の雪の中にある一点を目指して慎重に進み、その前で立ち止まる。
広大な雪原の中にぽっかりと空いた穴の底を覗き、貴博はそこから土地神らしき神通力の残滓をほんの微かに感じ取った。
「どうやら既に土地神は消滅していたようですね。これが何者かの手によるものか、自然的なものであるかは判断ができませんが。おそらくは後者か……」
ここの道の基点となった観音像周辺に誰も踏み入った形跡がなく、また神域にも争われた形跡がないのが理由だった。
土地神はこの強い穢れに犯され、狂うまで至らずにその前で耐え切れず消滅したのだろうと予想をつけた。
「しかし……」
貴博は奥歯を強く噛んだ。
この山はよほど穢れを溜め込んでいたと見える。それこそ見えない部分で、大量に、大規模に、想像以上に。周辺一帯の土地で最も強力な力で守られているはずのここ、神域ですらこの有様なのだ。
「これは、今作戦で浄化していっている外の淀みは氷山の一角に過ぎない……?」
「貴博さん? どうしたの」
「……いいえ、なんでもございません。それよりももう時間がありませんし、今はこれ以上見るべき所はないでしょう。拠点に戻りましょう。できるなら、作戦が終わった後にまたじっくりと調査したい所ですが……」
「うん、分かった」
貴博の腕の中で総一が頷く。
守るべき主を抱えながら貴博は厳しい顔を総一に見せないようにして神域を去っていった。
再び朽ちかけた観音像の前、祠の中に降り立つと、いつの間にか外では黒い雨が降っていた。
「なにこれ……強い陰の気が空で渦巻いてる?」
総一が木々の隙間から上空を見上げ、戦慄する。その目に映るものは山中を不気味に覆い尽くさんばかりの黒雲に覆われた空と、それに負けないほど巨大な陰の気が渦巻く光景だった。
初めて見る巨大な規模で陰の気が満ちている事に、総一はここが現実であるか思わず疑った。
「やはりか。総一様、山の魔界化が急激に進んでいます。これは、マズイですね。このままだとこの辺り一帯に何らかの地獄が現出するでしょう。鬼、不死者、魔獣、妖精、悪霊、人形など、これらの中のどれかの地獄が出るか、或いは最悪の幻想か。そうなれば後は一斉に大量の妖怪が溢れ出すだけです」
地脈などが淀むと陰の気が溜まり、そこから妖怪が顕現して肉体を持つ。更に陰の気が溜め込まれれば淀みの箇所は増え、最終的には広域で陰の気が溢れ充満し、それが臨界点に達すると魔界が現世に一定期間現出することになる。どんな魔界が形作られるかはその時になってみないと分からない。
もしそうなれば魔界から溢れ出た妖怪が次々と人里を襲うため、政府により非常事態宣言が出されるのは間違いない。一都市存亡規模のAランク、場合によっては広域一帯規模の2Aランク規模の災厄になりかねない。
これまではそうなる前に浄化するのが常だったが、ここまで事態が進行してしまった状況は近年でもまったくなかった。
「そんな……と、とにかく急いで戻ろう」
「っお待ち下さい、総一様!」
だが貴博の制止も間に合わず、慌てた総一が祠から飛び出す。総一は祠から出て山中の道無き道を駆け出そうとして、黒い雨がそのむき出しの手に当たる。
そしてすかさず伸びてきた貴博の手によって総一は再び祠の中へと連れ込まれた。
最初は何ともなかったが、少し経ってから総一の手に焼けるような痛みが襲ってきた。
「っ!?」
見れば手の皮が溶け、血と肉が見えている。
「黒い雨など怪しさ極まりないと思っていたが、強酸性の雨? しかし木々は無事……いや、まさかこの雨、生き物……動物だけを溶かす雨か……!?」
辺りを見渡すと、ふと視界の端に転がっている白いものが引っかかった。
それは小動物の白骨だった。
「総一様、この雨に無防備に濡れるのは危険です。強い陰の気の呪いを感じます。おそらくは並の退魔術士では耐え切れないほどの。総一様は陰陽を中和する術を使って下さい。他の者ならともかく、総一様のお力ならそれで十分でしょう」
貴博が心配そうにカバンから応急セットを取り出して手早く総一の手の手当てをする。
また、事態はそれだけに留まらず、更なる悪化の一途を辿っていた。
貴博が顔を上げ、前方を見渡す。
そこには相変わらず静かな森の木々と雑草が広がっているだけの光景だったが。
「――妖怪に囲まれていますね。しかも、この数……十や二十では済まないですね。気の淀みもあちこち爆発的に増えているのか……これはもはや手遅れ、か」
険しい表情で貴博が一人、前へ出る。
黒い雨が容赦なく貴博の顔を打つが貴博は平然としていた。
「この私がこの程度の陰の気に侵食されるものか」
そして目の前の虚空を手で大きく薙ぐ。真一文字に手が振りぬかれ、その軌跡に沿うように陰の波動が視界一面を洗いざらい貫いた。
そして次々と弾け、霧散していくいくつもの気配。
そのたった一手で、総一らを狙い囲んでいた無数の恐ろしい妖怪はその無残な亡骸を森の中に晒した。
「行きましょう、総一様。またすぐに妖怪が集まってきますので、その前に移動します」
「うん」
二人は生き物の息遣いの無くなった森を進み、拠点へと戻っていった。
だが急いで戻ってきた二人を迎えた拠点での光景は、残酷なものだった。
「誰も……いないね」
拠点のあちこちに散らばっているのは持ち主のいなくなった無傷の服と武器。そして散らばる白骨。まるで二人だけ何百年も後の廃墟にタイムスリップしたかのようだった。
「この辺りでは戦った形跡なし……どうやら増えた妖怪に襲われる前に、先にこの黒い雨にやられたようですね。そして――」
彼ら程度の耐性と実力ではこの雨に抗しきれなかったのだろう。不意を突かれろくな対応策の手を打てなかった者はそのまま溶かされ、帰らぬ人となったようだった。
総一が貴博の視線を目で追うと、その先にはいくつかの密集したむろする黒い人型の影があった。形としては子供に似ているが、決定的な違いはその頭から突き出る角の存在だ。その足元には黒い雨に流されている血溜まりと、たくさんの白骨が一箇所に固まって転がっていた。
「あそこの地面にある道具、あれは結界に使う物ですね。初手で黒い雨をなんとか防いで生き残りが集まった後、こうして集まってきた妖怪にやられてしまった、と」
考察を続ける貴博ら二人を目掛けて地を駆け、一斉に飛びかかってくる子供、いや小鬼の形をした妖怪。それを迎撃する貴博の魔法。生み出された血の色をした水球。そこからいくつかのトゲが恐ろしいスピードで伸び、的確に敵を貫いた。
貫かれた小鬼は一度甲高い悲鳴を上げた後、地に倒れた。
触れれば体を溶かす雨の中、これらの妖怪の相手をするのはさぞ至難であったことだろう。そしてそれを証明するのが今、周りにある多くの白骨の数だ。
拠点にいた小鬼が生き残りの総一らに襲い掛かってくるもことごとく撃退された後、ふと結界跡の中に総一の見覚えのある山伏の服があった。
「山伏のおじさん……」
服の下にはやはり白骨。彼もまた、黒い雨に溶かされ尽くしてしまったのだろう。
そして山伏のおじさんだけではない。別の近くの場所では朝、総一達に「帰れ」と言って睨んできた男性もまた遠くに装備と服と一緒に白骨となっていた。
それら顔見知りの無残な姿を前に総一は――
「……行こう、貴博さん」
ほんの一時の間だけ冥福を祈り、次の瞬間には既に背を向けて頭を切り替えていた。
総一にとっては目の前に広がる大勢のチームメンバーの死も見慣れたもの。別段特筆に価するものではなかった。
退魔術士として総一は多くの戦場を体験済であり、その数だけ人の死も目の当たりにしてきている。故に、親しい身内ならまだともかく、一時的なチームメンバー程度の間柄で今更大きな感傷など湧き起こるべくもない。例えそれが自分を敵視していた相手でも、親切に声をかけてきてくれた相手でも。
それが、総一という賀茂家宗主候補として育てられてきた成果だった。
「しかし、これではもはや作戦継続は無理ですね。既にチームは崩壊していますし、他の三チームも似た状況でしょう……生き残ったチームがあるとしても、既に撤退を選んでいることでしょうし」
もはや事態は掃討作戦どころではなくなっていた。
作戦の遂行は不可能といっていい。
”オオオ……オォォ……!”
いつの間にか黒い小鬼が再結集しつつあり、更に辺りに散らばった白骨からは白いモヤのようなものが立ち昇っていた。
やがて白いモヤはぼんやりとした人型を取り、それは天に向かって悲哀と憎悪、呪いを募らせた咆哮をあげる。
「……死んだ者は、更に悪霊化ですか。なんとも性質の悪い――!」
不快気に一度歯軋りをして、貴博は集まってきた小鬼と悪霊達に向かって魔法を放つ。
悪霊はまるで暴風に直撃したかのように散り散りになって消えていき、小鬼達は見えないハンマーで潰されたように全身を強く打って倒れていく。
それを見届け、周囲を警戒しつつ貴博は苦い顔で進言をする。
「山を下りましょう、総一様。もうここは妖怪の巣です。お一人では危険です」
「それはダメだよ」
だが有無を言わさぬ声で総一は拒否した。迷う素振りすらなかった。
「この仕事は絶対に成功させる。僕一人でもやる。それまで僕は絶対に戻らない」
「総一様、お聞きください。これはもはや想定されている作戦の状況をとうにオーバーしております。退却したところで総一様の名に傷がつくことは決してございません」
「それでも!」
優しい言葉を遮るように幼い叫び声が静寂の森を貫いた。
「それでもこれに失敗したら……もう僕に来る仕事はなくなるんでしょう。皆から賀茂の事を忘れ去られてしまうんでしょう」
それは貴博が作戦前に総一に語った事だった。
いかに賀茂家宗主を継いだといっても総一はまだ9歳の子供だ。周囲はたわ言程度にしか思わない。何一つ実績がない9歳の子供を頼る大人などいない。それならまだ他を頼る。何も退魔術士は賀茂家だけではないのだ。少なくないお金を出すなら子供よりしっかり仕事をしてくれるであろう大人を頼る。それが信用であり、実績だ。
その点総一には何一つ信用がない。何かを成し遂げたという実績がない。過去総一が一人でこなした仕事はあくまで賀茂家のバックアップがあってのことだと外からは見えることだろう。
故に、これはチャンスだった。
こんな大きな依頼はまず来ないであろうチャンス。故にこれに参加し、成功を収めればこれから賀茂家宗主として活動する際に大きな武器となる。
Bランクの作戦に参加し、成功したという実績。それがあるのとないのとでは大きな差がある。そもそもBランクに参戦する事自体、それなりの実力がなければ声がかかることはない。言わばベテランの証。
そして作戦が成功した暁には退魔術士として立派なステータスとなる。
もしこの機会を逃がせば、総一は完全な名だけの宗主として誰からも見向きもされないだろう。そして、じきこの世界から風化し忘れ去られていく。
それだけはできない、と総一は必死にもがく。
「何一つできないまま帰ったら、僕は二度とお屋敷に残っている皆の前に出られない……僕は、それだけは、絶対にイヤだ! 皆をガッカリさせたくない。賀茂家を終わらせたくなんかない!」
降りしきる黒い雨の中、総一の固く握った拳が震えている。
それは歯を食いしばり、血を吐くような叫びだった。
顔を上げた少年と青年の視線が交わる。主従が相対する。
「僕は、やる。ここだけはやらなくちゃいけない。じゃないと、僕は……僕、は……」
今にも決壊しそうな感情の堤防。
泣き出す寸前の、年相応の子供の顔で総一は貴博を見上げる。
賀茂家の宗主になると誓った少年が。
それを前にした貴博はより強く諌めるべきか逡巡する。
そして瞬時に状況と己が戦力を鑑み、貴博は決断を下した。
「分かりました。主の意向を叶えるのも従者の務め。ならば、私が全力でお力になりましょう」
「…………うん」
「幸い、出てきている妖怪のランクはDやCといった所。この程度ならば私の力だけでも掃討する分には問題ありません。無茶難題というほどでもない事ですし。ただ、やはり周り中が敵というのは危険な状況ではありますがね。総一様も決して油断なされないでください。万一という事がございます」
「ありがとう、――」
「ただ、長期戦となるといずれ力尽きるため、一先ず大元を早急に確認しにいきますか。まだ妖怪の形を取っていなければ押さえ込んで時間を稼ぎ、もし妖怪が肉体を得ていれば潰しましょう」
「大元?」
「この山中に淀む陰の気、それが最も太い流れを作って昇っているその先。いくつもの奔流が合流し流れ込んでいるその場所。即ち――山頂です」
そうして総一ら二人は出発した。無線機の使い方が分からず、式紙を飛ばして山の下の本部に状況を知らせようとしていたが、途中で妖怪に襲われて辿り着けない公算が高いだろうと予想していた。
打てるだけの手を打ち、二人がこれから目指すは山頂。
周囲は夥しいまでの悪意、妖怪と悪霊がその毒牙の獲物を求めうろつく地獄。
悪夢の中の行軍が始まった。
一方、異なる場所でも何者かの影が四つあった。
それらの影は皆同じように山頂を目指し、徐々に近づいていく。
邂逅は近い。




