第一話:婚約破棄より、殿下の後ろが気になります
白昼堂々、という言葉がふさわしい状況でした。
春の祝賀会が開かれた王城の広間は、太陽の光で生き生きとしておりました。
「アリシア・シャーロット・アシュフォード。貴様との婚約を破棄する」
レオンハルト・エドワード・ルクシオン殿下。
この国の王太子で、わたくしの婚約者でいらっしゃる方です。金の髪に、紺碧の目。
わたくしとは姉弟のようだと言われたこともございました。
その方が今、大広間でわたくしを名指ししていらっしゃいます。
「はい」
わたくしは適当に返事をいたします。
殿下の目が険しくなられます。馬鹿にするな、ということでしょうか?
けれど、今、わたくし的に大問題なのは……殿下の後ろに、スッと女の方が立っていらっしゃることでしょう。
本日のわたくしはずっと、そちらばかり見ておりました。
だって、気配がしたものですから。
視えた女性のかたは、白いワンピースドレス姿で、この場にはふさわしくない質素なものを身に着けていらっしゃいます。
なにより、長い髪が顔をすっかり覆っていて、目も鼻も分かりません。
殿下にピッタリとくっついて、殿下をじっと見ていらっしゃる気がします。
まあ、顔が見えませんから、断言はできませんけれど。
わたくしは、まばたきを一つ。
パチリ、と。
ああ、やっぱり、もういらっしゃいません。
まあ。まあ。
こういう出方をなさる方は、たいてい長くそこにおいでです。
ふらりと来て、ふらりと帰る方ではありません。
今もさぞかし、殿下にピッタリと憑いていらっしゃることでしょう。
だって、今も気配が消えていませんもの。
「聞いているのか、アリシア」
「聞いておりますわ」
まあ、これは嘘です。
正直に申し上げますと、今のわたくしは、殿下の言葉をまともに聞いておりません。
「理由をお伺いしてもよろしいかしら」
まあ、そのように言うしかございません。
「心当たりがないとでも言うつもりか」
「たくさんございますもの。どれのことか分かりませんわ」
殿下が困ったような、怒るような、何ともいいようのない表情をなさいました。
「貴様の日頃の振る舞いは、王家の名を汚すに足る」
「どの振る舞いでしょうか?」
「夜会の最中に、誰もいないところへ頭を下げていたな」
まあ、視えない方にとってはそうなのでしょう。
「いいえ、ご婦人がいらっしゃいましたもの」
「誰もいなかった」
「殿下には、ですわ」
どこかから、咳の音が聞こえました。
「茶会では、空いた椅子を下げさせなかった」
「お座りの方がいらっしゃいましたの。追い出すのは失礼ですわ」
「城の廊下では、通りすがりの者の腕を掴んで止めた」
「だって、そちらへ行くべきではありませんでしたの」
「何の問題もない」
「いいえ、問題です。特にそちらへ行ったあとが良くございませんの」
現にあの方は、そのあとしばらく寝込まれました。
わたくしが止めたのに、お聞きになりませんでしたから。
その話をしようと口を開きましたら、殿下が続けられました。
「貴様は公爵家の娘でありながら、魔法をひとつも使えん。しかもこれだ」
「魔法は、わたくしには不向きですの」
こちらは本当でした。
何度やっても、うんともすんとも言いませんでした。
けれど、そちらの話は今どうでもよろしいのです。
「視えますのよ、殿下。亡くなった方が。小さいころから、ずっと」
「その戯言を、いつまで続ける」
「戯言ではございませんわ」
わたくしは、手を合わせました。
「わたくし、前世でもこれを生業にしておりましたの」
「……前世、だと」
「ええ。頼まれて、視て、手を尽くしておりましたのよ」
「頼まれる、だと」
「どこへ持っていっても駄目だった方が、最後にわたくしのところへいらっしゃるのです。呪われた方々が」
殿下は黙っておいででした。
「腕はよいほうでしたのよ。名も知られておりましたわ」
「……それも、視えたと言うのか」
「自分の前世も、いつの間にか視えておりましたの。なんとも不思議なものですわねえ……」
本当に不思議ですわ。
いまだに、この仕組みはよく存じません。
けれど、分からないものは分からないままにしておくこと。それが、これまでにわたくしが覚えたことでした。
「リアナの披露の席でのことも、覚えているな」
「覚えておりますわ。妹はお上手でしたわね」
あれは見事でしたもの。
水魔法の水が綺麗な球になっておりました。
それに、皆さま手を叩いておいででした。
「貴様は披露するものが何もなかった。そこで何と言った」
言いましたとも。よく覚えております。
「こちらには昔の方々がいらっしゃいますの、と申し上げましたわ」
「……」
「妹が水をお出ししましたから、わたくしも何かお出ししなければと思いまして」
あのときは、皆さまお静かになりましたわね。
水と同じくらい珍しいものをお見せできたと思っておりますのに、どなたも近くへいらっしゃいませんでした。
「極めつけは、私の生誕祭だ」
まあ、そういえば。
「貴様は列席者の前で、祓いの道具一式を献上した」
「ええ。殿下のために誂えましたのよ」
あれは良い品ですわ。
公爵家の職人に無理を言って、殿下に合わせて作らせたのですから。
ひと揃いになるまで、ずいぶん待ちました。
「あの箱を開けたのは私だ。お前を信じて開けたのだ」
「お喜びになると思っておりましたの」
「もし、中身が分かっていたら、絶対に開けなかっただろう」
「そうですの? 悲しいですわ」
最後まで殿下には、良さが分からなかったようです。
「あの日から、私は何と呼ばれている」
「呪われた王太子、ですわね」
これは本当に、そう呼ばれていらっしゃいます。
わたくしの耳にも入りましたもの。
「分かっているなら、なぜやった」
「憑いていらっしゃるからですわ」
殿下の手に、力がこもりました。
「実害が出ている。外つ国の使者が、この呼び名のせいで動かん」
「存じております。ですから、なおさら使っていただきたかったのですけれど」
「使うわけがあるか!」
殿下が叫びました。
「使うべきですわ。だって、今も後ろにおられるんですもの」
衣擦れの音がいたしました。
「お姉様、もうおやめになって」
わたくしの妹であるリアナが、進み出てまいりました。
「お姉様は悪くありませんの。現実から目を背けていらっしゃるだけです。魔法が使えないことを、ずっと気に病んでいらしたから」
どなたかが、優しい方だ、とおっしゃいました。
ほかの方々も、頷いておいでです。
リアナはうつむいております。うつむいたまま、目だけをこちらへ向けておりました。
笑っておりますわ。口ではなくて、目で。
ああ、そういう顔をなさいますのね。
それより、殿下の後ろです。
さっきの場所に、また戻っておいでですわ。
髪の長さも服装も、先ほどまでとまったく変わっておりません。
「アリシアに代わり、リアナ・アシュフォードを我が婚約者とする」
「まあ。おめでとうございます」
思わず、わたくしは祝福を申し上げました。
「……貴様は」
「妹は水魔法がお上手ですし、お優しいですもの。よいお話だと思いますわ」
嘘ではございません。
本当にそう思いましたの。
妹も喜んでおりますでしょうし、殿下もお困りになりませんでしょう。
「アリシア・シャーロット・アシュフォード。貴様の身柄は公爵家へ返す。王都に置いてはおけぬ。追って沙汰があろう」
沙汰。
つまり、わたくしは追い出されるのです。
それなら、今のうちですわ。次にお目にかかる機会は、たぶんございません。
「殿下」
「まだ何かあるのか」
「殿下の後ろにいる女は、人間ではありません」
どなたかが、息を呑みました。
「白いワンピースドレスで、髪がここまでございます。顔は見えません。ずっと殿下の後ろにいらっしゃいますわ。今も」
わたくしは、その場所を指さしました。
殿下は振り返りませんでした。
振り返るどころか、こちらをじっと睨んできました。
「……お前は最後まで、それか」
「はい。最後ですから、申し上げておきませんと」
「私の後ろには、誰もいない!」
「殿下にはそうでしょうね」
「では、貴様にしか見えぬものを、なぜ私が案じねばならん」
それを申し上げたかったのですけれど。
そう、言葉というのは、聞く気のない方には意味のないものですわ。
まあ、前世でも、そこがいちばん難しゅうございました。
殿下は、わたくしを長く長く、睨んでおいででした。
「連れていけ」
そう、たいそう静かな声でおっしゃいました。
衛兵さんが、こちらへ歩いてまいりました。
腕を取られる前に、わたくしは自分で歩き出しました。
せっかくのドレスですもの、引きずられては台無しですわ。
扉のところで、もう一度だけ振り返りました。
殿下は、こちらを見ていらっしゃいます。
その後ろから、白いワンピースドレスの女がじっと殿下を見ておられました。
◇
パタン、と大広間の扉が閉まりました。
廊下は、さっきまでの音が嘘のように静かです。
足音がついてまいります。
「お嬢様」
淡々とした声が聞こえました。
「はい、マリア。なんでしょう?」
わたくしは振り返りました。
メイド服のマリアが、いつもどおりについてきております。
ブロンドのショートヘアに、黒い目。
変化の乏しい顔つきも、いつもどおりでした。朝、紅茶を運んでくるときと何も変わりません。
このマリアは、わたくしの専属のメイドです。
この子は、わたくしが大広間から出れば、当たり前のような顔で一緒に出てまいります。
大広間でも控えておりましたから、あれをはじめから終わりまで見ていたはずです。
「マリア? 聞いていて?」
「はい。一部始終、拝聴しておりました」
「怒っていて?」
「いいえ。荷物のことを考えておりました」
まあ。もう次のことを考えておりますの。
「それよりマリア。ご覧になった?」
「はい」
「どちらを」
「白いワンピースドレスのほうでございます」
思わず、わたくしは両手を合わせました。
「髪の色はお分かりになって?」
「暗うございました。黒か、それに近いものかと」
「わたくしもそう見えましたわ。それから、足元は……」
「見えませんでした。スカートが長すぎて、足が視えておりません」
やっぱり。
「わたくし、あの方に足がおありなのか、それだけが気になっておりましたの」
「存じております。お嬢様はいつも、そこをご覧になります」
「今回も見えませんでしたわ!」
うふふ。
足のない方には、まだ一度もお目にかかっておりません。
いつか、きちんと見てみたいものですわ。
「マリア、わたくし、今日という日を忘れませんわ」
「今日は、婚約を破棄された日でございます」
「ええ。それと、あの方を見た日ですわ」
マリアは少しだけ黙りました。
「お嬢様。あれは、殿下から離れる様子がございませんでした」
「ええ。離れませんわね」
「あれに手を出されますか」
出せませんわ。
殿下はお信じになりません。
信じない方のものには、近づかせてもいただけないのです。
それに、わたくしはこれから王都を出されます。
「もうわたくしには手を出せませんの。残念ですけれど」
「かしこまりました」
「あら、あっさりしておりますのね」
「お嬢様がおっしゃるのなら、そうなのでございましょう」
マリアは、わたくしの後ろへ回りました。
ドレスを直す手です。この子の手は、いつも言葉より早く動きます。
「お嬢様」
「なあに?」
「あれは殿下にご執着のご様子でした」
「そうねえ」
わたくしは少し考えました。
「まさしく、純愛ですわ!」
「そうでしょうか?」
わたくしたちは馬車へと急ぎました。




