86.ラキュス・フェリシタティ
「久しぶりね、ラキュス・フェリシタティ」
ローゼはためらいもなく、裸足で水に入り木をだきしめる。ちなみにここに来る時はファズーンを護衛につけて、上に置いてきていた。
兵ではなく、王様を直々に、だ。
苦い顔をする彼に放った一言は「後宮なんてつくれるほど。ずいぶん立派になれたわね」という言葉のおまけだ。
「ちなみに、ファズーン”陛下”。私の娘のリディアを嫁に貰うなら、私が姑になるけどね、覚悟しなさい」
そう言われただけで、ファズーンは黙ってしまい、「上で見張ろう」と自ら彼が言い出すほどだった。
(何か、ついてきたくなさそうだった……)
無表情だけど、若干口元が引きつっていたし、リディアにも無言。美女のローゼに口説き文句の一つも言わなかった。本当に子分? ファズーンの女性不信はローゼのせいじゃないだろうか。
(あまり深く考えないでおこう)
ローゼにもファズーンにも訊かないほうがいい、ローゼに対する記憶がなくても感じられる。それより今はこちらの方が大事。
「『……ラキュス・フェリシタティ』って月の湖の名前の一つ、でしたよね。意味は“幸福の湖”」
月の地にはたくさんの名前がつけられている。クレーターは誰かからとった名、高地には海や湖の名前、誰も住んでいないのに、まるで人間達がすでに領土にしているかのようだ。
「この木はそこから付けられた名よ」
「どうして、この木にその名が?」
ローゼはリディアを見て、同じように水に足を浸したリディアのその髪を撫でた。
「この木がそう名乗った。昔、珀蘭がそう言ったの」
「木が名乗る?」
「そう。そしてこの水上都市の無数の水たまり、それらには月の海や湖の名前がつけられているの。どうしてかはわからない、ファズーン達も気にも止めてないでしょうね」
なぜ地下に全くこれまで関係のなかった”月”の名前が出てくるのだろう。サーッという水音の中で、ローゼとリディアの二人の会話が漂う。水音は邪魔をしなかった、それどころか会話を引き立たせているかの様。
「ここにはね、月の欠片が眠っているから」
「ローゼ?」
「この空間は、過去も未来も時も次元が入り混じっている。過去に欠片が落ちてきてしまったから。私達はここを見つけて、得て捨てたのよ」
「――私達、というのは、ファズーンとシヴァと、ローゼのこと?」
頷くローゼの目は優しい。まるで子供を見るかのよう。
「ファズーンは忘れてしまった。シヴァは覚えている。二人ともここで鍵を得たのにね」
「――ローゼが得たのは、珀蘭?」
頷くローゼ。寂しくて懐かしいという顔は初めて見た。
「ごめんなさいローゼ。わからないわ」
推測しなさいと言われたけれど、ここまで情報がないとわからない。
「次元も時間も歪む、けれど聖なるものが安らげる場所。ここは遥かな昔、遠い未来のラキュスの欠片が落ちてきて、ひそかに育っていたの。それを守っていたのが珀蘭。そして私はここを出る時にあの子を得て、使い魔とし魔法師になった。ファズーンやシヴァが得たのはディアノブルの塔への鍵」
上から、水が降ってくる。それは優しい驟雨だった。濡れるのも構わず二人は見つめ合っていた。
「木の欠片が落ちてきて、育っていた? 昔に、遠い未来からのものが?」
ローゼは頷く。
「本当はもっと詳しく知りたいでしょう? でも、自分のこと以外は話してはいけないのよ、神の領分だから。これから起こることなのに未来が変わってはいけない。ただ、未来は常に変化するものでその変化も結局は恒常的。――ここまで話すなら全部吐け、と私なら脅すけどね」
ローゼは笑いながら美しい唇を少し横に引いた。その自嘲と寂しさが混じる顔に、男でも女でも「話さなくていい」と許して抱きしめてしまいそうになる。もちろん抱きしめたら許されないということも常人はわかっている。
彼女を慰めることができる者は誰にもいない。
ふと思う、先ほどローゼが誰かに怒っていると感じたこと。
ローゼが怒りを抱いていたのは自分自身だ。
「ローゼも自分自身に諦めかけることがあるの?」
「……あるわ。でも、それはもうやめた。大事な存在がいるから。時々陥りそうになる自分を、怒りで前に進めるの」
自分が、幸せになることを否定する人もいる。その道から抜け出すのは大変だ。でもそれをやめないでいるのは難しい。
自分も、幸せになれないといつも諦めていた気がする。その道はないのだと。でも、そう思うとそちらの道を進んでしまうから。
「私には家族がいて団員がいる。それらの命を預かる責任があるから、幸せにならなきゃいけない。リディア、あなたもそう。大事に思ってくれる存在がいるからその道を選びなさい。ここで、こんなところで諦めないで」
彼女自身も簡潔明瞭に生きているわけではない。自分に悩み、他者のことでも悩むことができる人。他者に対して、放っておくことができるわけではない。
ローゼは必要ならば過去を話してくれるだろ。でもこれで終わりのような気がした。これから先に必要な情報はなんだろう。
「もしローゼが話せるなら。ファズーンとシヴァの持つ鍵は本物? ここで得たの?」
ここは不思議な空間だ。鍵がどのようにどこにあったのかはわからないけれど。この”木”が遥かな未来から遥かな過去に落ちたものだと言われたら、そんなものがあってもおかしくはない。なにしろ、塔は実在するのだ。
「仮のモノだと思うわ。アレスティア時代のディアノブルの鍵は塔の主人の証。手に入れられるわけはない。でも彼らはここにいた時に、一時期消えた時があった。アレスティアに行っていたのかもしれない」
アレスティアに行っていた? シヴァもファズーンも全くそんなことは言わなかった。ファズーンに関しては魔法さえ信じていない様子だったのに。
ただ、シヴァはアレスティアに執着している様子で、もしローゼの言う通りにそこに行っていたならば……その説明できるのかもしれない。
でも、何故ローゼはそんな説明ができるのだろう。ディアン達でさえも何もわからない様子だったのに。
「ローゼは何者なの? 魔法師団の人だって聞いたわ。……でもそれだけ?」
「……エーロ姫は巫女の血族だった。その血を引く私は、少し先が見えたり伝え聞いたりしたのよ」
「エーロ姫のことは少し聞いたわ。でも、どんな人かは実態がつかめないの」
「人の噂は半々に聞いておいたほうがいい。その人に会わない限りは何も信用してはだめ。わかるわね」
『”みんな”が言ってる』は、その人だけが言っていること。
「あの人は悲劇の女王でもないわ、人生がどうだったかなんて本人が決めること。ただ彼女の父親はクズだけどね」
呟いた彼女の顔は毅然としていた、ディアンやファズーンに見せる女王様然はない。これまでの印象では、自分の父親のハラール国の王に報復してもおかしくない。でもそれをしないのは、彼女なりの理由や理性があるから?
リディアの目の中に水が雨のように入り、滴り落ちる。リディアの黄金色の髪を彼女が耳にかけながら優しく問いかける。
「私はその特殊な力で夫のことを受け入れることができたの。じゃなきゃ、普通の人間じゃ耐えられないわよ。一応、人外の存在だものね、――だからこの力を感謝している」
いきなり茶化すように笑ったローゼに、何のことだとリディアは目を瞬くとローゼは「あなたは忘れてしまったものね」と囁く。
「でも、大半は私の努力よ。力は天からのモノじゃない。自分で得るもの。パートナーもね。あなたはディアンを捕えた、それを誇りなさい」
頷くしかない。ローゼの力は、美は、彼女自身が自ら得たもの、それに反論できるものなど、誰もいない。
「この水の中で、あなたは子供や女の人達を見たのでしょ?」
話を切り替えるとばかりにローゼが木にふれる。
水に濡れるのを構わずリディアも木に触れる。この木にふれていると優しい気持ちになる。何も怖くない、安らぐのはどうしてだろう。
「それは、私かもしれないし、ここにいた子供や女の声かもしれない」
ローゼに怨念と言われてリディアもそれを思いついた、でも感情が直接響いてくる悲しいものだった。まるでリディアに訴えてくるようなものだった。
「木が見た、――アレスティアの、過去かもしれない」
「ローゼ……」
ローゼは真正面に向かい合い、両手でリディアの頬を挟む。
「私は自分の息子が宝物よ。あの子のためなら死んでもいい。あなたは水の中や、塔の中で娘を見たの?」
――たぶんあの子は娘。ううん。それは絶対だ。
「だったら。取り戻しに行きなさい、アレスティアに」
*「イケメンだらけの宇宙艦に転移しました」を読んで下さった読者様へ。あちらの話と重なる個所がありますが、あの設定はボツにはしていません。
この話ともリンクしています(その後を書く予定は今のところありませんが)




