73.廃宮
リディアはペンを置き、ブロッターを転がしインクを染み取った手紙を眺める。そして折り畳み蝋で封をして、シーリを呼ぶ。
「この手紙を手渡しでお願いね」
他の人の手に渡らないように、と念を押す。
この後宮でもっとも重要な人物にまだ接触していなかった。――遅すぎる。
でも今からでもトライしてみる。それが最も苦手そうな相手でも。
ファズーンが訪ねてきたのはリディアが軽装に身を包み、頭をヴェールで覆った頃だった。
「抜け出すのか、あんなことがあった後で」
「そう」
「許可はだしてない」
「あなたが一緒ならば許されるのじゃない?」
「まさか俺を待っていたのか?」
「そう」
言葉少なに見つめるリディアを試すようにファズーンは見返し、それから頷いた。
「どこに行きたいのだ?」
「この後宮内の散策。特に碧佳宮の領域以外ね、例えば廃宮とか」
シーリから聞いた廃宮に早速行ってみることにした。ここは、たくさんの建物があり、外廊や房で繋いでいる。人が出入りしているものも、閑散としているものも、色々。
でも妃である自分があちこち出歩けるわけじゃない。まずは全体像の把握といったところか。
「――危険で、呪われている。お前が行くような場所ではない」
「呪われているのは宮殿? それが訪れた者を呪うの?」
「そうだ」
「あなたがいても呪われるの?」
気になるのは、壁が*状に仕切られていること。
その壁、南東の先と北西の先にはリディア達、四妃の宮殿以外につかわれていない何かがある。
壁と方位を考えれば、廃宮ではないか。一度行ってみて確かめたい。
自信満々のファズーンでさえも呪われるのかと挑発すると、彼は皮肉気に受け止めて笑う。
「どうも、お前はあちこちでトラブルに巻き込まれ、命が狙われる。ならば俺についててほしいという気持ちを尊重してやってもいいが」
来てほしいと素直に言えとの言葉に、少し考える。
「――そうね、あなたについて来てほしい、という気持ちはあるわ」
素直に答えたリディアを探る、ファズーンの目は思考中。
「――仕方ない、馬を呼ぶ」
「馬がいるの!?」
知らなかった。
「お前が知っていたら馬で出歩きそうだったからな。馬車で行こう」
「――ならついでに侍女も侍衛もいらない。身を守らせるのはあなたの剣の腕で十分。ジャイフもヘンシュもなしよ、二人きりで廃宮にデートね」
畳みかけるようにリディアが言えばファズーンは笑い出した。だがどこか、その顔は強張っている。それがなぜだかわからなかった。
寂しい門衛二人が無人の宮殿を守っていたのは”伯花宮”と冠された宮の門だった。場所は、やっぱりアスタリスクの南東。
”伯”はどういう意味だろう。これまでの宮殿は、赤、緑、青、黄色。色に関係しているのか?
リディアの疑問をよそにファズーンが彼らの腰にさげていた鍵を開けさせれば、その光景にリディアは絶句した。
門の奥は、リディアの半身よりも高い雑草に覆われていたからだ。
「これで進むのは諦めたか?」
「いいえ。その――兵達に草を刈らせて」
リディアが門を守る兵を示すと、仕方ないとファズーンが顎で示す。
「まずは私達が進むだけの道でいいわ。あの宮殿まで」
奥にある平屋造りの建物を示す。本当は全体像を探りたかったけれど仕方がない。
自然にいると癒される清涼な匂いはない。人が好きなのは整い作られた自然なのだ。
リディアは胸を押さえた。そう、ここは苦しい。好き放題に荒れ果てた緑は、土と光の取り合いをしてきた。
その上、人の思い、苦しさや悲しみや憎しみがのこっている。雑草はそんなものに構わないはずなのに。
刈られてむせるような土と緑の匂いの中、ファズーンを先頭にリディアも進む。妙に足が長い虫、体が細長い虫、様々な種類がいて嫌だと思う。
よけながら歩いていたら振り返ったファズーンがふっと笑う。
「抱き上げてやろうか?」
「結構です」
言えば、黒くて大きな虫が足元を横切るからリディアは叫んだ。ゴキ? じゃないよね。だって羽が開く部分が茶色く丸があるもん。
(そうじゃないそうじゃないそうじゃない)
自分にいいきかせる。ゴキじゃなきゃ平気。
そのうえ、耳元で大きくブーンと羽音がして、不明な虫が顔の周りに絡んできたから、顔をこわばらせる。
「素直になれ。その足じゃ無理だ、比喩ではなく」
廷内を見に来たのだ、華靴もサンダルも無理なので侍女の布靴を借りてきた。本当はスニーカーが良かったけれどここにはない。この国は暑すぎて、庶民はスニーカーをはかない、そんなものがない。
ただ、布靴でもこの草むらを歩くのはかなり大変そうだ。ファズーンは鎧ではないが長靴を履いている。
(私の、嫌だという理由はどこから来ているの?)
好きじゃない男性に抱き上げられるのはもちろん嫌。でも、一番は夫じゃないディアン以外に触れてほしくない。――嫌われたくないから。
ずっとそう考えていたことに気づいて、リディアは呆然とした。『彼に嫌われるかも』そう言って、彼に理由を押し付けていた。
ディアンは嫌だろう、自分だって嫌だ。でも何度も彼に委ねていた。
ファズーンに抱かれてもいいか、触れさせてもいいか。
大事なのは、“自分が嫌なのか”、“目的のために必要なのか”だ。自分で決めて、自分で責任を取る。今後もそうしなくてはいけない。
その時見上げたファズーンがずっと返事を待っていること、さらにリディアを気にかけて見ていることに気づいた。馬鹿にしていないし、からかってもいない。
ここで意地をはることに意味はない。
「あなたの、その長靴は頑丈なの? ここを歩いて平気?」
「そうだと言ってるが? 抱き上げて欲しいのか?」
リディアに言わせたい、その態度や口調は納得できないけど。
「――生理的に虫は嫌、それ以上に草や虫で怪我をしたくない。だからお願いします」
「――そんな、理由か」
「必要だと思ったから。ありがとう」
――ファズーンは無言でリディアを抱き上げ、それから前を見て進んでいく。リディアの膝裏と背中を支え、特に何も言わなかった。




