52.世渡り
あれから少し眠り起きたリディアは、後ろのクッションにもたれかかる。そんな風に言ってもらっていいのだろうか。いいや、よくないけど。
「碧妃様――お加減はどうですか?」
「ええ」
心配顔のシーリにぼんやりと頷く。彼女たちは、紅妃の館で何があったか知らない。ただ、具合を崩したリディアが帰ってきた場面だけを見ている。
リディアはぼんやりと部屋を見渡し、食卓に載った白い器を見た。
「そういえば私、昨晩はあれ飲んでいない」
その白い器には、薬膳茶があった。
あの日、紅妃から飲むように圧をかけられた“子宝の薬”。あれから茶缶ごと茶葉が届けられ、碧佳宮の侍女が毎日煮出し渡してくる。
紅妃の命令通り侍女が作ってくれていたが、昨晩は飲まず器に入ったまま置かれていた。
子ができたら困るけれど、行為をしていないので飲んでもできるわけがない。
一応、ペトラに薬房の下女に調べさせたが、怪しい成分はなかった。
「ええ。さすがに碧妃様の具合が悪そうでしたので、海嬪様に止められました」
キーファが止めてくれたのか。
(そういえば、自分は薬が効きやすいと聞いていたから、飲まないほうがいいのかも)
影響のない普通のお茶でも薬だ。どんなふうに作用してくるか不明。
でも、紅妃の侍女がときどき薬の効き目はどうだ、足りているかと茶缶を見に来るから誤魔化しにくい。
(……考えなきゃ……)
この後宮では、知恵を働かせなきゃいけない。どこで足を掬われるかわからない。そう考えながらリディアはまだ少し横になると告げて、シーリ達を下がらせた。
***
「お姉さまは、本当に世渡りがお下手ね」
プラプラと足を揺らし、黄妃が呆れながらもクスッと笑って菓子をつまむ。
「昨晩は、助けてくれてありがとう」
昼間のお喋りだ。こうやって後宮では、夜のお渡りまで過ごす。芸事を学んで陛下の気を惹く努力をする妃達も多いらしいけれど。
外に出られないと運動不足になるし、気も滅入る。
その代わりに蹴落とし合い、追い出されないように画策する。
「リディアが気に入っているって言ったでしょ。紅妃の毒牙にかかっちゃったら嫌だもの」
「それはどういう意味?」
キーファが尋ねると、黄妃はまた菓子をつまむ。バクラバという重ねたパイ生地の間にピスタチオを挟みたっぷりの蜂蜜をかけた一口菓子。リディアも好きでつい口にしてしまう癖になる味だ。
「うーん。敵か、もしくはお遊びの餌食か。序列が決まってしまうからね、常に上位を見せつけないと」
被害にあいそうになったリディアよりも、キーファの方が顔をこわばらせていた。
「あんな危険なことをいつもやっているのか?」
「お気にいりのお遊びって言ったでしょ」
「……」
黄妃は告げた後、例えばと紗幕の向こうにある宝の山に長く伸ばした爪を向けた。
つけ爪は鮮やかな桃色から赤のグラデーションになっていて、三連の吊るしダイヤが揺れている。
邪魔じゃないかと心配になるけれど、侍女が全ての雑務や面倒を見てくれるから全く問題はないらしい。
つけ爪のために爪を伸ばそうというペトラと、切って欲しいというリディアとで揉めた末、結局リディアが折れた。そして伸びてきた爪はだいぶ邪魔だ。
まだつけ爪はつけていない。――そのうち切ってやる。
(あれ。でも黄妃は男の子だよね)
入浴や着替えなど侍女に身体を見られてもいいの?
「平気よ。信用ができて事情を知ってる者しか傍においてないからね」
リディアの顔を見て答える黄妃にリディアは赤面した。つけ爪しか見ていないのに。思ったことがすぐにわかってしまうらしい。
「そんなことはいいの。ところで、あれをリディアは全く使ってないよね」
リディアは、それを見つめたまま頷く。使っていないどころか、見てもいない。いくつもの宝飾箱の中には、貴金属がたくさん。
他にも毛皮にドレスに香水、いろいろあるらしいけど。ペトラがいつも見せてくるけど、ろくに目を向けてもいない。
ファズーンからもつけないのか、と一度聞かれたけれど彼自身気にしていない様子だから、そのままにしている。
(少し、気が咎めるけれど)
人が物を贈ると言うのは、その反応が見たいから。気に入ってもらえたか、喜ぶ顔が見たい、嬉しい、ありがとうと言ってもらいたいから。
「リディア。気にしたらダメです。彼はあなたのために選んでいるのではない、贈るのはあなたを自分の好きなように飾りたてたいから」
キーファの鋭い声にリディアは我に返る。たしかにそうだ。
「へえ、キツイね」
「男ならわかります」
「物を贈るなんて、表裏一体。どっちの意味もあるし、貰っておけばいいっていうのもあるけどね。僕が使ってない、っていうのはそれとは違うよ」
ハスキーな声が少し低めに皮肉気に響く。一拍おいて、黄妃は剥いた桃をつまんだ指を拭いて、肩をすくめる。
「あれは自分が着けるためじゃない。人にあげるため」
「あげる?」
「他の嬪や妾、侍女に高官、宮女、たまには妃にもね。いわゆる賄賂」
でも、もらったものだし、使わないのをあげるのもどうだろう。しかもファズーンにもらったなんて自慢で嫌みじゃない?
リディアの顔を見て、わかったように黄妃は笑う。
「そこはうまくやらなきゃ。自分一人で抱えていたら吝嗇と影で囁かれるし、情報集めや味方になってもらうために当たり前。分不相応なものも駄目だし、たまには少し奮発して。でも目立ったら他の妃に野心があると始末されてしまう」
「わかった」
リディアの代わりに静かに頷いたキーファ。そこで黄妃は楽し気に笑う。この笑みがいつもわからない。
「海嬪は心得ているね。お姉様よりいい塩梅にやってくれるから、任せられる」
あとはね、と黄妃はかわいらしく折った人差し指を頬にあてる。でも小首を傾げる様子の眼差しが強くて、一瞬交渉事に長けた青年にも見えた。
「陛下にも時には差し上げないと」
彼が一番持っているのに、妃から? 刺繍とかだろうか。編み物ぐらいしか思いつかないリディアに黄妃は肩をすくめる。
「まあそういう小道具もあるけど。例えば、自分の国元の美女を推挙したり。踊り子を呼んで披露させたり。陛下はリディアが好きなんだから、翻弄するのがプレゼントね」
「それは……」
「リディアはできないだろうから、やってみたらわざとらしいね。その裏をかくのもいいのかも」
わざと何かを企んでいると思わせて、楽しませる? その余興に何を潜ませるのか、ファズーンならば興味を持ちそうだけど。
リディアは考え込み、キーファは瞬き一つせず聞いている。
「他の女を推挙――自分の子飼いのスパイを陛下のもとに入れるということか?」
「それもあるし、自分の宮に来なくなった陛下を美女に餌に呼んで。その女に恩を売って情報を得て、その後に口封じしちゃえばいい」
「裏切られる可能性もある」
キーファに黄妃は頷く。
「定番すぎるな。ファズーンはそれを予想しながら、その女を抱きそうだ」
黄妃は驚いて感心したように「あらー」と呟いた。
「本当に、リディアにはいい味方がついているね。――でも、味方かどうかはわからないけど」
「どういう意味だ」
黄妃とキーファの間に緊迫した空気がながれる。目線が共に強く、ばちばちしてる。黄妃は味方なのかどうか怪しいけれど、情報をくれる。でも攪乱させてくる。それはリディアにもわかっている。
「だって、リディアは記憶がない。海嬪が本当に味方かどうかはわかってないでしょ、ね、リディア」
「私は――」
キーファの瞳がこちらを向いてくる。リディアはキーファにわかるように頷いた。前にも聞かれたけれど、彼は信頼できる、記憶がなくても心が感じる。そう思って彼に手を伸ばし、握り締めてその美しく強い眼差しを見つめて離さない。
「リディア、ありがとうございます」
「いいえ。私のほうこそありがとう」
どんな自分だったのかわからない、彼との関係も距離もわからない。けれど確実に助けてもらっているし、これまでも助けていてもらったのだろう。ここで過ごすには彼の協力がないと生きていけない。情けないけれど、頼らさせてもらうし、だからこそ信じる。
「でも、ここは後宮。人は変わるよ、覚えておきなよ」
黄妃の低めの声が水を差す。放つ気配が変わったことにリディアも気づく。キーファがわずかに動いてリディアの前にかばうようにすかさず手を伸ばす。
「君はどういうつもりで、こちらに近づいているのか?」
この間は友人と言い、今回は二人の仲を裂くような言葉。何かが黄妃の気に障ったのだろうか。それとも試されているのだろうか。
キーファはリディアに対するのとは全く違う目で黄妃を見つめる。牽制と見極め、それから何かをしてくるのであれば、闘うのを覚悟した眼差し。
「――だって退屈だもの」
「退屈しのぎは迷惑だ」
まるで、キーファとの結束を面白くないみたいだ。黄妃は一人で闘ってきた、そのことに対する……妬みもあるんじゃないだろうか。味方、お友達、そう言っても無条件で信頼し合う自分達を壊したくなる気持ちも生まれてくるのかもしれない。
「僕を味方にしておいた方がいいよ。少なくとも、味方が多いほど有利だから」
キーファと黄妃の対決。でも敵味方に別れているわけじゃない。話題は自分のこと、キーファに任せきりにしてはいけない。それに、黄妃はリディアに教える義理はないのに、情報をくれているし、助けてくれた。
黄妃の信頼を得るのは一生無理かもしれない。これらの言動から考える。男の子で、宰相の愛人。誰かからの捧げもの。後宮に囚われの身。
――普通は辛さを抱えているはず。だからこそリディア達を妬んで翻弄する。そう推測するのが普通。でも、何かが違う。抱えている闇が感じられない。
ああ、そうか。
(捧げもの――)
――潜入、スパイ? 背後に誰がいるの? 誰のためにそれをしなきゃいけないの? 彼は宰相との関係を仕事と割り切り、辛いと思っていないのかもしれない。
それともやっぱり手駒にされていることを辛いと思っている?
どちらにしても、キーファはとっくに背後の誰かに気づき警戒していたのだ。
黄妃の目が見つめている、それは何を考えているかわからない。なぜリディアを友人と言ったのか。自分から情報は得られないのに。仲間を増やすのは危険なはずなのに。
何を言う? 何を言わないと伝えられない?
「私は――まだあなたの力にはなれないし、下手な約束はできないけど、私は敵にはなりたくない」
黄妃がじっと見つめている。リディアの言葉には何も感じていないようだ。たくさんのタイプがいる。
人は一人として同じではない。そして、後宮という特殊な場所にいる人間のことはまったくわからない。裏をかかなきゃいけないし、真摯に言葉を尽くすほど、嫌われることもある。
「黄妃、あなたからの言葉は、苦労してきたあなたの経験則でしょ? なのに教えてくれた。それはとても助かっている。だから改めてお礼を言うわ、ありがとう」
黄妃が何の目的でいるのかわからない。リディアを憎んでいるのかもしれないし、利用しようとしていると考えるのが一番。でも、今の言葉が言える全てだ。
「今のところは、お互いにそれでどうかしら?」
黄妃の表情は変わらなかった。ただ、ちらりと長い爪で示した先はリディアの背後だった。
「――それじゃあ、そろそろ出てきてもらわないと」
キーファは動かなかった。その目も手も動かない。何のことかとわからなかったのは、リディアだけ。
でも、その手の動いた先に空気が揺らいで人の気配がした。それからジェニパーベリーの香りがしてリディアは心臓を跳ねあげさせた。




