42.シヴァとヘンシュとファズーンと
「宰相だ」
リディアは、寝台の中央にシーツで作った紐を掲げていた最中にかけられた声に振り向いた。背後には露台で月見をしていたファズーン。
今日もローブのようなものをまとい酒杯を傾け日に焼け、筋肉に包まれた逞しい身体を晒している。彼は貴金属をつけない代わりに、肩や腕、太ももから膝下、全て薄く白くなった傷跡が肌を勲章のように飾っている。
「気持ち悪いか?」
リディアの視線を受けて彼が自嘲気味に笑う。リディアは首を振った。どうして傷跡を気持ち悪いと思うのか、その感覚がわからない。そう言いかけて普通は怖がるのかもしれないと思い直す。
自分は、戦闘に身を置いていたと言われる。だからそれに見慣れているのだろう。
「傷跡は勲章、と言われるのは戦闘に身を置く世界。でも美を追求する王宮ではどう思われるかはわからない」
だって、自分はここから出してもらえないから、感覚がわからない。そう言えば彼が口端をあげて笑った。酔っている目、だけどその眼差しは常に鋭い。
「――でも私は気持ち悪いと思わない」
先ほどの彼の問いに答える。
「例えばその肩の傷。相当深かったでしょ。痛みも腕を失う恐怖もリハビリも大変だったと思う」
機能を失うのは一生の重みだ。将軍や、王だった彼ならばその座から引きずり降ろされていたかもしれない。将軍、それで思い出す。
『――理髪師に髪を切らせるほど、贅沢な環境にいたわけではない』
彼は前線に送らせられていたのだろう。お飾りの立場ではなかったと推測できる。
そこに送っていたのは誰? ――もちろん前王だ。王太子として約束された地位にいただけではないのか。
リディアは考えをやめる。どうやら自分は相手に入れ込んで考えすぎてしまうみたい。
「ところで――宰相?」
リディアが問い返すと、彼は杯を煽り、口が細い銀酌から手酌で注ぎまた煽る。
「お前が聞いただろう。狙われ覚えはあるかと。宰相、叔父、それから弟」
そして歩んできてリディアを見下ろす。
「お前は何をしているんだ」
寝台に四つ這いになるリディアを上から眺め呆れた口調で問いかける。
なかなか紐を結ぶ箇所がない。片方は頭上の格子窓の柵に結び付けたが、足もとは紐を結び付けた燭台を寝台に挿し込んだ。
「境界線。あなたの陣地はそっち、壁側は私の陣地」
眉を高く上げて、リディアを見下ろしてきたファズーンは、その紐を無理やり掴んでひっぱる。簡単に、シーツと共に燭台が抜けて転がる。
「お前はあほうなのか」
リディアはムッとして、ファズーンを睨み上げる。それをすると、彼はリディアの腰を掴んで、自分の膝の上に座らせようとする。酒気にリディアが顔をそむけると、軽いため息が返ってきた。
「そんなに俺が嫌なのか」
寂しげに下げた眉。騙されるものか、と思うけどつい答えてしまう。それに弱みもある。
「確かに、あなたには痛みのある時は頼っている。けど……」
「あの男が恋しいか。記憶がなくとも」
悔し気な声は、酔狂ではなくて本気で出しているものなの?
「記憶がないからこそ、知らない人に密着しているのは、嫌なの」
薄絹の寝巻を着せられて見知らぬ男の腕に抱かれている。これがイケメンであっても、緊張するだけで、ドキドキはしない。
「ならば……儀式までは何もしないと約束したらどうだ?」
彼はリディアの髪を指で梳く。もしかして、ディアンがいなければ、記憶を失って彼しかいなければ、気持ちいいと感じるのかもしれない。
その手で、彼はリディアの手を掴んで、甲に軽く口づける。大きくて、赤銅色の肌で、浅い傷がたくさんある手。リディアの手はまるで子どものように小さい。
「小さくて華奢だ。お前の手は男を頼るためにある」
「そういう人間じゃなかったと思う」
「ならばこれからそうなればいい」
リディアは首を振る。
「そのために記憶が消えた。闘い方も忘れた、手には闘う人間の痕跡もない。俺がお前を護ってやると言っている」
琥珀の目は情熱的に求めている、もう片方の目は情熱を抑えている。彼はここまで求めているのにどうして抑えられるのだろう。
「痛みがある時は手を握る。だがそれ以上はしない。それならどうだ」
「――当たり前だけど、抱かれるのは嫌」
「胸や尻には触らない」
「だから……」
「毎日そうやって口説けば、千夜後には振り向くかもしれない」
千夜一夜物語。一晩抱かれては殺されていったこれまでの妃にならないように、輿入れした妃が千夜に及んで毎晩話を紡いで命拾いをする話。けれどその王には悲しい過去がある。自分の妃に手ひどい浮気をされて、乙女を信じきれなくなっていた。
――最後は相思相愛になった二人。彼はそれを望んでいるのだろうか。
リディアは黙った後に、首を振って下ろして、と頼んだ。その目が寂しげで、だんだんほだされていきそうだ。もしかして、暗殺について話を漏らすのは、自分が初めてなのかもしれない。
彼はリディアを抱き上げ露台におろして、自分はその向かい側に座る。
「それで、宰相というのは? あなたを害して何の得があるの?」
「あれの娘は、紅妃だ」
自分の子を産んだ紅妃。宰相の娘だとは聞いていたが、信頼よりも疑いの声にリディアは警戒を深め、腿の上の衣装を握りしめた。
「紅妃は次期皇后とされているでしょう? なぜあなたを殺すの?」
「お前に俺が夢中で立場が危うく感じているのだろう。今、俺が死ねば紅妃の皇子が王になる。そちらを傀儡としたほうがやりやすい」
今日も風が強い、ヤシの葉が揺れてしなっている。砂漠の地は夜になると風が強くなるのか。けれど、この宮に砂も強風も入ってこないのは、何かの守りがあるのだろうか。
「だがお前が皇子を産めば、また別の話になる」
付け加えられた言葉に、リディアは睨みつける。
「次に、叔父のヘンシュ、それから弟のシヴァ」
ヘンシュは忠実な部下だ。それさえも疑うのか?
それに軽薄なシヴァは王座を狙っているのか、わからない。
「二人とも強敵なの?」
「兵を集めているという話は聞いていないな。だが少数精鋭なら雇えるだろう」
「なぜ危険である彼らを生かしているの?」
ファズーンならば、片付けていてもおかしくはない。
「前王の遺言だ。神の名にかけて頼まれた。ヘンシュ親王は前王の兄の子、俺の父が王位を取らなければ正当な後継者だった。シヴァは隣国ハラールの王女の子、どちらも処理するにはそれなりの理由が必要、むしろ生かしておいた方が黙らせられた。だが、今となっては早めに片付けておけばよかったと後悔している」
「ちょっとまっ……」
シヴァが、ハラールの王女の子なんて聞いていない! 口に出しそうになって、リディアは留める。シヴァと連絡を取り合っていることは秘密だ。
「シヴァ、というのは……あちらでの王位継承権は?」
「ほぼないな。母親が側女でおまけに狂人だ。この宮で狂った時に、ハラールに送り返された。あちらで、まだ生きているのか幽閉されているのかも知らん」
リディアはため息をこらえる。シヴァは軽薄で女好き。それだけだと思っていたのに、壮絶な過去があるようだ。
「あなたはヘンシュを重用していると思っていた」
彼は自嘲気味に笑う。
「重用しているし、部下として信用している。だが王位を狙わない理由はない」
「部下として信用していても、地位を狙わないとは限らないということね」
長がいるチームならばそうだ。上には従う。でもその地位を狙わない者達の集まりは、強くなれない。
「……お前が女でよかった。男なら潰していた」
彼の顔を見つめ返すと熱っぽく見つめている。慌ててリディアが視線を逸らすと彼は笑っていた。
「でもその身近な一人を信用できないと、あなたはただの裸の王様よ」
「そう言えば、お前は俺の全裸を全て見たわけではないな」
「見たくない」
リディアが慌てて言うと彼は苦笑しただけだった。ただ服を脱いで見せつけるような下品さはなかった。
「あなたは、かわいそうね」
「――なんだと」
「一番近い部下で血族を、片付けておけばよかったと言わなければならないなんて」
「王族としては当たり前だが、なぜ俺がかわいそうだと?」
「言ったもんがちだからよ。言われるより先に言っておく。そうやって警戒しておく。感情は相互作用、きっとヘンシュもそう思っているのね」
彼は不快そうに眉を寄せた。
「国を動かすならば、信頼できる部下を持たないと」
「王は孤独だ」
「そう思っているうちは無理よ」
彼は不快そうだが、それ以上は言わない。何かを言いたげにしていたが、結局黙った。リディアも言い負かしたかったわけではないけど、彼が口にしたのは別の言葉だった。
「ハラール国もこちらを常に狙っている」
「随分敵が多いのね」
ハラール国は、この砂漠をヴァルハラ国と二分している。ハラール国のほうが大人しいと感じていたがこの国と小競り合いが絶えないと侍女達に聞いた。
「東邦国も総将軍の妹だった蒼妃を送ってきたが、情報収集のためかもしれない。背後になにもいないとは言えないだろう」
リディアはため息をつきたくなった。
あんなに思いを寄せている蒼妃も疑われていて気の毒だ。
「その分、お前は気楽でいい。何も知らない、何も後ろにいないのだから」
「そう? 魔法師団を敵にしたし、シルビスとかいう国もわからない。私も知らないけど怪しいことだらけ。私の方が私を信用できないのに」
「お前は俺だけをみていればいい」
少しだけ思った。繰り返される言葉。それは、彼がそれを信じていないからかもしれない。上滑りしているとわかっていながらも信じたい。自分を見て欲しい、自分で自分が信じられない。
でも、それを自分に求められても困る。
彼に深入りして尋ねる? それはやめた方がいい。指摘してもどうしようもない、リディアはあくびをした。
「王を前にして誘惑もせず、気楽なものだ」
あくびをするリディアの手を掴んでのぞきこんでくる。あくび姿をじっくり見てくる男がいるとは思わなかった。顔を赤らめて、睨むとフッと笑われる。
それよりも一番気になるのはジャイフだ。なぜ彼に憎まれているのか。
「ジャイフは?」
「やけに気にするな」
今度は眉をひそめたあと、苦笑する。その様子こそ、危険だ。
「あれは、私を王座に据えた。でも利用しているだろうな」
てっきり参謀と思っていた。驚き呆然としていると、また笑う。
「利用しているとわかっていればいいだろう。こちらも利用するまでだ」




