25.魔法?
全員が、絶句する気配が部屋に満ちた。ディアンも足を止めて愕然とした。
ずっと何かおかしい、と思っていた違和感の正体に気づく。リディアからのディアンへの魔力波ネットワークへのアクセスがないこと、再会してもリディアが魔法を使うことがなかったこと。
魔力波ネットワークは、ディアンが構築した師団内の魔法師同士での連絡網のこと。任務によってその都度入れる者は限られるが、リディアには今回フルオープンにして、いつでも入って来れるようにしていた。
いくら魔法が使えない場所でもアイツなら何とかする、そう思っていたが、それがない理由がようやくわかった。
健忘症、という医学用語を思い出す。解離性健忘症、逆行性健忘症、いろいろあるが専門家じゃないから診断できない。
けれどリディアは自分の生活動作はできているようだ、だから”自身”や“人物”に限定してのことと思っていた。だが自分の能力でさえも、忘れてしまったのか。
「……そう、だ」
自分がリディアにかけた冷気から身を守る見えない守護。そんなのをしなくても、お前なら息をするより簡単に、この建物ごと守れただろう。
どんな困難でも何事もやり遂げるリディアなら、息をとぎらせながらもこの都市一つぐらい守って見せる、そんな女なのに。
なぜ、なのだ。シュクレドオールのせいか? あの毒の作用でそんな症状はきいていないが、リディアは感応系魔法師という魔力をアクセプトする体質上、薬全般が効きやすく影響を受けやすい。
本人が師団のメディカルセンターで内服できる薬の情報を管理してもらい、一般薬の内服をできるだけ避けていたぐらいだ。他の症状が出てもおかしくない。
もちろん、本人には毒を盛られているといえなかった。頼りなげな表情にどう切り出すか迷う。
その合間に、リディアは問いかける。ヒュウ、と大きく息をすって思いつめ覚悟を決めた質問に見えた。
「――リディア・マクウェル、というのは私の名前?」
そんなことも、聞かれるのか。
初めて、かもしれない。
いら立ちよりも違う感情。悲しい、やりきれないというものが去来したのは。
「そうだ。お前は俺の――妻だ」
ディアンは付け加える。
「――最愛の」
誰が見てようが、聞いてようが構わない。ただリディアだけを見つめる、そしてリディアも視線を外さなかった。
最愛、と言われても動揺することなく、何かを探すように見つめている。それはとてつもなく長いような時間だった。そして、その視線が動く。
リディアはディアンの薬指を凝視している。それはリディアに渡したのと対の結婚指輪だった。
「それって……」
訊こうとしてできていない。瞳が不安に泳いでいる。左の薬指に指輪をしていれば、一般的には既婚者だろう。その相手が誰なのか、それが自分なのか。
迷っていることが手に取るようにわかって、ディアンは安心させるように笑った。
たぶん、こんなに気遣ってやったことはなかった気がする。目を細め、口端を緩め穏やかにリディアを見つめる。
「……お前と揃いで買った」
「私、ない」
ぽつりと漏らした言葉に頷く。いい、と伝える。
「大方、取られたんだろう。気にするな」
「……気にするよ」
「また買えばいい」
「……やだ」
リディアは眉を寄せている。よりいっそう激しく首を振り我慢できないと示す。
「いやだよ!! その時の私はどうだった? どうやって、どんな時にくれたの」
「いや、その……」
そんな、こっぱずかしいこと言えるか、と詰まるとリディアは真剣な顔で見つめてくる。言うまで引かない、という顔だ。
「――お兄さん方? そろそろタイムリミットだ。お姫様は病気があって、帰って薬を飲ませる時間だろう?」
シヴァを睨みつけるような顔に、怯えが混じる。
――どれほどの痛みを与えられたのだろう、あの劇薬は男でさえも一晩で根をあげる。
ディアンはリディア引き寄せ、抱きしめて顎をあげ顔をのぞき込む。
「大丈夫だ、俺が――何とかする。少し待てるか?」
囁くと、目を伏せた後リディアは、うん、と首を上下にさせた。
頭を支えて胸に埋めさせると、されるがままで抵抗しない。
ディアン自身も、リディアの背に手を回しようやく息をついた。知らずにかなりの気を張っていた。
それはリディアを怯えさせたくなかった、拒否されたくなかった、それを恐れていたからだった。
手の中のリディアを感じているとようやく頭が働いていく。
リディアに毒のことは伝えるつもりはない、記憶さえないのに、それで怯えさせたくない。
(本当に、それでいいのか?)
ちらり、と疑問がよぎる。昔のリディアならば知りたがるだろう、でも今ここで余計なことを知らせ、怖がらせ、そして動き回らせる。後宮という場で嗅ぎまわることは危険だ。
やはり、黙っておいた方がいい。
そしてシヴァもリディアの窮状を知っており、本人にばらしてはないようだ。
「俺には、お前の存在だけ、お前が生きてればいい」
小さく頷く頭を撫でた。弱っている、このまま帰したくない。どんな時でも絶対に弱みを見せようとしないこいつが、ここまで見せるとは珍しくて驚いた。
頭に顎を乗せて、口づけを落とす。
「で、どうする? このままにしとく?」
「何時にあれが始まるのか知っているのか?」
一体何を知って、何のつもりの接触か。最初から不審ではあった。
ディアンはリディア以外はどうでもよく、毛ほどにも意識していなかった王弟にようやく目を向けた。
腰には長めの直刀、懐にはダガー、肌着もなく直接羽織ったなめし革のベストの下には鍛えた腹筋。無駄な肉はないが、肉弾戦より素早さを取った鍛え方だ。
「さあ? それ以外の情報には――」
奴が、開いた手を伸ばす。追加情報には報酬をということだろう。それにディックがまだだ、と銀貨をちらつかせるのをみて、ディアンは尋ねる。
「――ジャイフが薬や魔神を操っているのか? それが星読み、もしくは神官とやらの仕事か?」
「一連の仕業はジャイフだろうよ。神官の中での長が星読みだ。だが、これまでの星読みはそういうことはしなかったな、神儀を行うのみ。そして、ファズーンを王位につけたのはジャイフだ」
「お前が王位につけなかったわけは? ファズーンが長子だからというわけではないだろう」
ディアンが淡々と尋ねると奴は顔をしかめる。痛いところを突かれた、という顔だ。
「最も強い星読みが王位を継がせる」
「お前にも誰かがいたのか?」
後押しの神官がいたのかと突っ込むと、シヴァの顔には陰りと自嘲が見えていた。王族と信仰のつながりは深いらしい。だからリディアもジャイフの予言に巻き込まれているのか。
「まあ、俺は負けたってことだ」
これまでのリディアの症状は、ジャイフの薬のせいだろう。
そしてファズーンが本当に信じているかというと怪しい。それほど馬鹿でもないだろう。だが、やすやすとそのままにしている性格でもなさそうだ。
そしてこいつの目的もわからない。
「お前の、目的はなんだ?」
仕方ないなと奴は肩をすくめる。しなやかな動きだ。柔軟な滑らかな筋肉、素早さを優先させ、人を翻弄する戦い方をするだろう。
「そうだな。まずは」
そう言って、リディアを指さす。ディアンに抱かれたままのリディアが身じろぎした。そしてシヴァの指が招くように動き、笑みを浮かべる。
「そこのお姫さんと”イイ”ことを――」
瞬間、男の頬の脇を短剣が通りすぎた。日干し煉瓦に漆喰を塗った壁に、刃先が垂直に刺さり、揺れた。
銃の引き金を引こうとしたシリルより速い。自分の腰の短剣を抜かれたディアンが止めるより速かった。
リディアはディアンの腕の中で、投げた姿勢のままシヴァを睨み上げていた。弱り陰っていた碧玉の瞳が、初夏の日差しを受けた新緑の葉のように怒りで輝いていた。
「次は外さない」
シヴァの頬を一筋の赤い線が走る。シリルが驚いた後、口笛を吹いてリディアにグッジョブと指をたてる。
「おいボスもどき。あんた今後はリディに寝首をかかれないように気をつけろよ」
”ボスもどき”。呼び方なんてどうでもいい。ただ、リディアから剣を取られたのかと思うと、呆然とした。そんなことができる奴がこの世にいるとは思えなかった。
リディアだから気を抜いていたのか、それともリディアにもともとそのぐらいの腕があったのかはわからない。
リディアは、我慢強い。一般人はもちろん、戦闘時以外は手を出さない。やられたらやり返すが、こんなことぐらいでは武器を持ち出さない。
が、シヴァには毛を逆立てた猫のように、睨んでいる。
(――何か、あったのか)
それとも、気性が変わったのか。もちろん強いストレスにさらされているため、という可能性も高い。
ディアンは、リディアの変調に眉をひそめたが今は保留にした。いずれ調べればいい。
それに、これまでの頼りなげな様子よりよほどいい。
「悪い、悪かったって」
「怒ったのはセクハラ発言にじゃない。あなたは私に興味がない、なのにそういうことを言ったことに腹が立ったの」
それを聞いて、全員が息をついた。――これまでのリディアだ。なぜそれをしたか、相手の本質を見抜く。
「私に興味がないのに、構う。そこに理由があるんでしょう?」
ここにいる誰もが交渉に長けている、だがリディアは相手の懐に入り込むのがうまい。ふざけて、裏を明かそうとしなかったシヴァもようやく真顔になる。
そして、おもむろに窓辺に腰を掛け窓の外を指さした。




