4.リディア
彼が更に水路に沿って歩むと、水源となる場所にはしぶきをあげて落ちる人口の滝があった。大理石で三つの段が作られて、一度受け止めた深い池が溝に沿い宮の中央を流れる本流となり、各部屋へと支流となっていく。
その池の左右に伏した女官達の横に花籠があるのに気がついて、目を留めた。その籠の中には、先ほどから水路を流れる薔薇の花びらがあふれるほど積まれていた。
「まさか、彼女たちが撒いていたのですか?」
問えば、なんでもないことのようにファズーンが答える。
「薔薇は嫌いか? ならば他の花を命じればいい。お前が命じれば何でも叶う」
「そんなことは言っていません。そんな――」
自分のために、水路に花を撒く。彼らは今日自分が逃げ出すことは予測していなかった。見ることがなかったはず、なのに、毎日撒いていたの?
「そんな勿体ないこと、やめさせてください」
「ならば、こいつらの仕事がなくなる。首をはねるしかないな」
絶句していたら、ファズーンは浅く笑った。
「殺生は嫌いか。ならばこの生活に慣れ、奴らが殺されぬように俺に従うしかない」
何と答えればいいのかわからない。贅沢な意匠を凝らした池、その壁面も底も翠玉が埋め込まれている。先ほどから気がついていたが、床や壁にも等間隔で翠玉が飾られている。
だから翠華宮なのだろう。
「珍しいか? だが、お前のその瞳の方がもっと美しい」
「――私は、あなたが恐ろしいです」
言えば、彼はくつくつと笑った。
「恐れられている方が、夫としては丁度いい」
「――陛下」
不意に叩頭しながら男が声をかけてきた。深紫の掛物から覗くのは銀色の髪。そして上げた顔には銀の瞳。それがファズーンではなく、自分を射抜く。
身をすくめたのに対して、宥めるようにファズーンが背を叩く。それを嫌だと跳ね除けることができなかったのは、怯えていたから。
「刻限か」
それに対して、更に恐怖がこみ上げてくる。
「案ずるな、碧妃。俺がついている」
「……」
何も答えられず黙っていたら、彼が背中にまわした腕に力を込める。
「まだ、少々ございます」
「ならば、下がっていろ。じきに部屋にもどる」
「――は」
頭を下げて、消える男をまっすぐに見られない。けれど彼はまた現れるだろう、それも刻限に。
「ジャイフが怖いか」
その声はこれまでの傲然としたものではなく、心を寄せようとしているものだった。
「あの人は、何者ですか?」
「夫のことではなく、最初に尋ねるのがそれか?」
不機嫌そうに吐き捨てているが、これまでの首をはねるなどの酷薄な台詞とは違い、拗ねている様子がうかがえた。
それはなぜなのだろう。答えに行き着く前に、彼は答える。
「ジャイフ・メクダシは星読師だ。メルクリッサ神の神官長でもある」
「……メルクリッサ神」
なぜだろう。最近聞いたことがある。自分の名前さえ思い出せないのに、なぜ神のほうに記憶のとっかかりがあるのだろう。
「ジャイフは、お前が神殿に現れると予言した。お前が俺の治世に繁栄をもたらし、力を授ける乙女だと」
彼の声はいつも力強く自信にあふれている。けれど今の台詞には狂信じみたものは何もない。むしろ淡々としていた。
「そして、予言通り神殿にはお前がいた。お前は、神が遣わした私の妃だ」
「違います」
言えば、彼は前を向いたまま傲然と言い放つ。
「正直、繁栄に他者の力はいらん。力はすべて己の力で掴むもの。だが、お前を見た途端わかった、俺のものだと」
「私を、帰してください」
「どこへだ。――覚えてないだろう」
身体が震える。確かに帰せと言っても、見当がつかない。どこにいっていいのかわからない。
彼はそのまま宮殿の奥へと進み、大理石の段を上っていく。
そして屋上に上がった時に、ちょうど夕日の橙の光が視界一杯に広がっていた。
平たい屋上には何もなかった。端に彼が歩み寄り、差し示す。
「翠華宮のお前がいるここが、本宮。左右が翼宮。正面に突き出ているのが、頭宮」
俯瞰してみれば丁度鳥が翼を広げたような形になる。そして、周りを水路が取り囲み、さらに緑が生い茂った小さな森のようになっていた。宮殿内部を走る水路は、外への水路へと流れ込み、巡回しているのだろう。
水路と森、二つの囲いで容易に外へは出られない構造になっている。
「翠華宮は東にある。そして、あちらに見えるのが、赤花宮、紅妃が住んでいる」
「紅花宮は北ですか?」
彼が頷く。その赤花宮は遥か彼方に見える。一キロぐらいはあるのではないか。
「そして、南には青花宮がある。蒼妃が居住している」
「そして西には?」
さすがに東西南北にそれぞれの宮があると想像できた。ファズーンが頷いて答える。
「黄華宮がある。こちらには、黄妃が住んでいる」
さすがに、黄華宮は見えなかった。遠さよりもその前に大きな宮殿があったからだ。
「そして中央にあるのが、このヴァルハラ王宮、俺の城だ」
妃達の宮の屋根の甍がそれぞれの名前の通りの色に塗られているのに、ヴァルハラ宮は黒い甍で覆われている。
ヴァルハラ宮を中心に前後左右にある妃達の宮殿を結べば、十字の形になっている。
いや、よく見れば各宮殿の間には仕切る壁が*《アスタリスク》となっていて、赤花宮はやや北東より、青花宮は、やや南西よりだろうか。
「完全な東西南北というわけではないのね。それに合間にいくつも建物がある」
言えばファズーンが驚いてリディアを見下ろす。
「方位を測らなくてもわかるのか、なぜだ?」
そう言って顔をゆがめる。
「そういえば、かの奴らはそれができるものいたようだな」
「何を言っているの?」
「鋭いと言っているだけだ、古いからな。いくつかの建造物が放置されているのもあるし、宮女や官吏の居しているものや、役目があるものもある」
囲んでいる塀が崩れかかっている者もあるし、宮殿の並びに法則性があるようで、いくつか崩れていてわからない。
そして城郭の遥か先、砂塵か霧の蜃気楼に気ぶるような街並み。
「あれが、我々の図書館都市だ」
その言葉に、心臓が高鳴った。これまでの中で一番心を動かせられる名前だった。渦巻き状に沢山の建物が立っている。
不意に記憶がよみがえる。アレは、世界の始まりという古代から、あらゆる世界の文字や絵で描かれた蔵書物を貯蔵しているという奇跡の都市。
その名前に胸が躍りつつも、畏怖する。その感情が何かはわからない。
けれど、それ以上に図書館都市にそびえたつ、巨大なガラスか水晶のような塔に呆然と目を奪われる。
「あれは」
「ディアノブルの塔。図書館都市の基盤となるものだな」
都市以上に、その存在に圧倒されて口がきけない。塔の元はみえないが下の方が太く、上に上がるにつれて階段状のピラミッドのように細くなっている。ひとつひとつの段にはたくさんのほこら状に扉型の穴があり、これもまた一つの街のようだ。
塔というより城だ。それはヴァルハラ城よりも大きくて圧倒させられる。しかも天頂は見えず、空まで見上げても雲を突き抜けていく。
「王宮にヴァルハラの城下町、さらに図書館都市、それが私の国だ。その周囲は砂漠。さてお前はどこにどうやって逃げる?」
……答えられなかった。
「下ろしてください」
今度は、彼は拒絶しなかった。彼の手から逃れ、足を下ろし少しずつ屋上の端まで歩く。迷子になって途方にくれて周りを見渡している自分を彼が眺めている。
「――私の名前は、何ですか?」
身を乗り出すようにして、落ち行く夕日の中で不意に彼を振り仰ぎ尋ねる。彼は尊大に腕を組み、興味深そうに自分を見ていた。
「何?」
「あなたは、ジャイフからの予言をさほど信じていなかった。神から遣わされたなんて妄信していないでしょう? だったら、私のことも調べているはず」
胸板や腕も逞しく発達している立派な体格で、美形。王という地位があり、誰もがこの人を羨ましがり、女性は愛を乞うだろう。
なのに、なぜ今ここに彼といて、この人は自分を欲しがっているのだろう。
空間が遠のくような距離感は、この人と会話も意識も通じ合ってないから。獰猛な目が興味深そうに変わる。
「なるほど。お前は馬鹿ではないな」
何も言い返さずに見返していたら、彼は口角をあげて笑った。笑みが、子供のように楽し気に輝いた。
「賢い女は嫌いじゃない。お前の宮を碧佳宮としよう」
佳人の意味は、美しい、そして賢い人を指す。碧妃とかけてその名にしたのだろうか。
「建物の名はどうでもいいです」
睨み上げると、彼が懐から何かを取り出す。それはペンダントに見えるが、それにしては長い虹色に輝くチェーン。その先には翠色に煌めくエメラルドがついているようだった。
「……リディア」
「え?」
「このタグは、お前の胸にさげられていた」
「返してください!」
取り返そうとしたが、高く掲げられ、更に詰め寄ると腕を掲げられて胸にしまわれてしまう。
「刻まれていたのはお前の名だろう」
「……リディア」
(リディア)
胸の中で反芻してみる。それは、碧妃よりもずっと耳にも心にもなじんでいてくる。たぶんじゃなくて、自分の名前だ。そうわかった。自分の感覚は正しい、確信がある。
「見せてください」
「だめだ」
「なぜですか? 私のものでしょう?」
掴まれた腕は持ち上げられて微かに痛い。離そうとしても敵わない、詰め寄ろうとしても距離が縮まらない。
「お前は碧妃だ。その名の者はもういない」
「そんなこと。あなたが勝手に決めたことです」
ふと彼は一瞬口を閉ざす。
「なるほど。ならばお前はこれを取り返してみろ」
「……え」
「俺はずっとこれを持ち歩く。それならばお前は俺から逃げようとしない、近づいて触れようとしてくるだろう」
「そんなこと……」
「俺が寝込んだ隙に襲ってもいいぞ」
顔が赤くなる。怒りと腹立ちがこみ上げてくる。毎回勝手なことを言い、全て押し通す。
けれど言い返そうとしてもすべてが敵わない。力さえも敵わない、逃げ出すこともできない。それをむざむざと見せつけられている。
「それは私のものです。私は碧妃でもないし、あなたの妃でもありません」
それでも言い続けるしかない。彼はそんな自分を二つの色の瞳で見続ける。
「ファズーンだ」
そして彼はいつも唐突に、聞くしかない強引さで言葉を言い切る。一度は黙って聞いてしまうのは、自分の性格か、それとも彼の貫禄だろうか。
「二人の時だけは俺の名を呼べ」
「……え」
「それとも平伏したいか」
「いいえ……」
絶対に陛下と呼ぶもんか、と思っていたけれど。何が言いたいのかわからない。
「俺もお前の名を呼ぶ。そしてお前は、俺を必ず好きになる。させてみせる、——リディア」




