3.ファズーン
ヤシの実の搾りたてのジュースを口にして、傍についていた女達を安心させて、少し眠りたいと人払いをした。それから、寝台からそっと抜け出す。暑い地方のため、建物の中は風が通るようにつくられている。
この宮殿は、部屋や廊下は壁ではなく紗で仕切られている、大理石の床は冷たく、裸足の足には冷たくて暑いよりも建物の中は肌寒いくらいだ。
『碧妃様!? どちらにおいでですかー?』
建物の中は思っていたよりも広大だ。自分を探す声に、隠れる場所がないかと首をめぐらす。駆け出して、広い池の前で立ち止まる。いたるところで水音がしていると思っていたが、床を走る水路の行き止まりはここだったのか。
池の底はなぜか透き通るような翠色で、綺麗な水を湛えている。くるくると水の流れに回っているのは、薄桃の薔薇の花。花びらが上流から常に流れてきている、それは下流でせき止められず、そのあと水底に吸い込まれて消えていく。
水底をのぞき込んでいたら、不意に水面が揺らぐ。振り向く前に、背後から身体を抱え込まれていた。
「逃げ出す元気が出てなによりだ」
身体をまるごと掴むファズーンの腕の力は強い。後ろからの拘束にもがいていたはずなのに、いつの間にか前を向かされて両手を掴まれていた。
「離してっ」
「――碧妃」
「私は、そんなんじゃありません」
「じゃあ、誰だ?」
いやいやと首を振り、目を閉ざしていたのに静かに問われて、顔をあげる。
右目が琥珀、左目が蒼のオッドアイ、それが獲物に狙いを定めたようにじっと見ている。
(誰だ――)
そう問われても、名前も、何もかもが出てこない。ただ、自分がそんなものじゃないという感覚だけがある。
視線は外さない、やましいことなんてない。
自分は間違っていない。
なのに、不安げに視線をさまよわせてしまう。みつめられると弱気になり、力がわいてこない。
逆らうことができない。
彼は背の高い人だ、体格もいい。鍛えられ発達した筋肉、剣を扱うのか特に胸や腕が太い、本気を出されたら、その腕で自分の腕は折られてしまう。
それでも、主張しないとこのまま押し切られてしまう。
「……わかりません。でも、私はそんな名前じゃないし、“妃”ではありません」
彼らの言葉と態度から、自分が妃として扱われているのがわかった。でも、そんなものに自分はならない。それは心が訴えている。
「そうか、その目だ。ぞくぞくする」
眉を顰めると、彼は満足そうに会得した、と笑った。
「宝石ではない。命を宿した意志の強い眼差しだ」
そう言って、男は腕ごと持ち上げて自分の体を片手で抱き上げた。
「離して!」
違うと言っているのに、片手で抱き上げたまま歩きだす。離れようと胸を、首を押し返してもびくともしない。
『――碧妃様』
遠くから聞こえる声に、わずかに首をめぐらす。ますます逃げられなくなった。また彼女たちに取り囲まれてしまうのか。
「逃げるな。逃げたらあの者達を殺す」
持ち上げられて彼の肩に載せられれば、自分の方が目線が上になっていた。見下ろすと、冷徹な目がまっすぐに見返していた。
「……あなたの下女でしょう?」
震える声で答えた時点で、既に負けていた。
「どっちみち、お前を逃がした時点で首がはねることになっていた。だが、お前が大人しく戻れば今回は見逃してやろう」
「……きたない」
彼は剛毅な声で楽し気に笑った。
「ファズーンだ。ファズーン・アルッティ・ヴァハラ。従う気になったのなら、この宮を案内してやる。もっともこの翠華宮の主はお前だが。――碧妃」
片手に抱き上げられたまま、宮内をファズーンは歩む。いくら体格がいいとはいえ、片手で肩まで持ち上げるのは、相当の腕力と全身を鍛えあげた体幹がないと難しい。両胸から背中へと流すような軽いリネンで覆っただけの衣装から覗く全身の筋肉は、厚く弾力がある。
熱さと力強さ、生命力を溢れさせたファズーンに抱かれたいと思う女性は多いだろう。けれど、自分は抱かれたままでいたいとは思わない。
彼の黄金の毛先が頬をかすめる。首筋に沿い無造作に肩下で切った髪が野性的な魅力に華を添える。
まるで王者の獅子だ。
頬に当たるのが嫌で、払いのけようとすると暴れてると勘違いするのか、余計に強く拘束してくる。
「毛先が、顔に当たってくすぐったいの」
「なるほど、俺はお前の毛ほど柔らかいものに触れたことがない」
そして手を伸ばして髪に口づけようとしてくるから、身を逸らそうとすると、重心が崩れる。
彼は支えようとはしなかった。むしろ自分のほうが、あわてて首にしがみついてしまう。
微かに鼻で笑った気配に、ムッとすると、まだ笑い続けている。
二人が通るたびに、女官たちが平伏する。それに気まずいというよりも、なぜこの態勢でいなければいけないのか、という不満がこみ上げる。
「歩けます」
押しのけながら言っても、彼は前を見たまま平然と言い放つ。
「お前の足は、歩くようにはできていない」
何を言うのか、と思えば大きな手でさらりと太ももに触れてくる。ぎょっとしたけど、暴れたらまた落ちそうになる。それに彼は、何かの計算ではなく自然にしているのだ。
「――細い腰も、柔らかな肌も、華奢な足もすべて男に抱かれるようにできている。だから俺に抱かれていればいい」
「な……、そんなこと……」
ありませんと言いかけて気づく。ファズーンにとっては、それが常識というよりも、彼の決めたことがすべてなのだ。
何を言っても、跳ね除けられる。




