二人の黄昏
朝は岩、昼は神、夜は悪魔、それが私だ。
はじめ、私は岩の化身だった。何するでもなく世界を俯瞰するただの岩だった。
古代、私は神だった。この地に集まった民達に信仰されていたが故に神だった。
太陽を遮る影の神、全知の眼を持つ安寧の神、それが私の“昼”だった。
だが、都市が砂に呑まれ、民達が各地に散って久しく、いつの間にか私は悪魔と呼ばれるようになっていた。
神の威光を遮る影の主、全知の眼を持つ誘惑の悪魔、それが私の“夜”となった。
もはや私を神と定義する者はどこにもいない。
残ったのは、砂に呑まれた岩山の頂上にある、ひと際大きな一枚岩――“悪魔の臍”。
教会や神殿もなく、伝承も絶えた今となってはそれだけが私の神性を保つただひとつ。
かつてこの地を満たした人々が祈りを捧げた、その名残。
それを異教の聖女となった彼女が壊しにやってくる。
今は黄昏。彼女の昼が終わる。
そうするべきだという声なき声に従い、私を殺しにやってくる。
今は黄昏。もうすぐ夜が来る。
「あ、ここかな?」
彼女は光を喪っていたが、手探りで岩の隙間に隠された扉を探り当てた。
ああ、こんな時まで彼女の感受性は最大限に機能している。
彼女は残る力を振り絞って扉をこじ開けると、転がり込むように石室に這入った。
光を拒絶した石室はひんやりと冷たく、砂の海に甚振られた彼女の体を優しく出迎えた。
『……本当に辿りついてしまった』
私を殺すにはまず此処に辿り着かねばならない。
だから、彼女は必ず成し遂げる運命にある。
そうと識っていても私は驚かずにはいられなかった。
だからこそ、疑問だった。
ここにきてようやく、私はかつての問いかけの答えを求めた。
『君はどうして、こんなことをしようと思ったんだい?』
「……変なこと、訊きますね、神様」
『私は悪魔だよ。それより、答えを聞かせてくれ』
やつれた顔に、かつてと同じように不思議そうな表情を浮かべて彼女は口を開いた。
「――会いたかったから、です」
……。
…………。
………………え?
『そ、それだけ!?』
「それだけ、ですけど……大事なこと、です」
息も絶え絶えに、しかし、彼女の言葉には砂の海を残照で焦がす太陽よりも強い熱がこもっていた。
「私はひとりじゃ、なかった。……いつも、悪魔さんが、いてくれ、ました」
『そ、それは保身の為で!!』
「“いつも私達のことを見てくださっている”。だから――」
――私にとっては、悪魔さんが、神様です。
『――――』
「私は悪魔さんが、思うほど、いい人じゃない、です。他の人を、羨むことも、あるし、嫌だと思うことだって、たくさん、たくさん、ありました」
『……もういい』
「それでも、私が、私でいられたのは……あなたが、いたから」
『もういいから……ッ!!』
「だから、会って、ちゃんと目を見て……お礼が言いたかった」
初めて会った時から変わらぬ朗らかな笑みは変わらず、彼女は言い切った。
『……私に目はない。あるのは、この臍だけだ』
「いいえ、いいえ。私には、わかります」
彼女はゆるゆるとかぶりを振って、石室の一点に盲いた目を向けた。
そこには色褪せた壁画が刻まれている。
私という神の意匠、御神体という名の急所――並行世界の果てまで覗き見る“全知の眼”。私という存在の収束点。
彼女のヘーゼル色の瞳はたしかに私を捉えた。
互いに見えずとも、私達は目をあわせることができた。
「今まで、見守ってくださり……ありがとう、ございました」
その言葉に私は悟った。
成程、これは運命だ。
この十年、彼女に旅路を強いて得た時間で溜めこんだ奇蹟を使えば、彼女を殺せるだろう。引き換えに、全ての力を使い尽した私という存在は消滅するだろうが。
だが、私はそれをしない。彼女を殺したくないと思ってしまったからだ。
己の命よりも相手の存在を優先してしまう。
あるいはこれを恋というのか。
今になって私は己の感情に気付いてしまった。
「私、馬鹿ですけど、ずっと考えて、たんです。どうすれば……悪魔さん、殺さずに、済むのかって」
『それは不可能だよ。君という存在が私の死だ』
石室に留まってどれだけの時間が経っただろう。
もうすぐ砂漠の弥終に太陽が沈む。空に橙色の黄昏を残して沈んでいく。
食料は既に尽き、水も残り少ない。
彼女の命は風前の灯だ。だが、死ねない。
私を殺すまで、彼女はどんなに苦しく、辛くとも、死ぬことはない。
『もういいんだ。壁画に傷のひとつでもつければいい。それで君の“昼”は終わる』
私は悪魔だ。楽な道に誘惑する存在であるべきだ。
たとえ、その先にある“夜”が惨たらしい死でも、今この瞬間の苦しみからは逃れられる。
だが――
「悪魔さんを、殺さないって……私、約束しましたから」
こんなときでも彼女の笑みは輝くように美しかった。
胸が軋む。指先が凍える。どちらも私にはないというのに。
『契約なんて、契約なんて!! 君には名前すらなかったじゃないか!! 破ろうと思えばいくらでも……』
「約束は、約束です」
この期に及んで、彼女は微笑んでかぶりを振るばかりだ。
逃げたいのは私だ。徐々に弱っていく彼女を見ているだけの私の方だ。
「悪魔……さん」
『なんだい?』
「最後の、お願いを……」
『ッ!!』
そうだ。それがあった。
今の私は悪魔で契約者なのだ。この機を逃して如何する。
自らの死と引き換えに、彼女を苦しみから解き放つのだ。
『さあ、願ってくれ。生きたいと!! この地でならば私も全力を振るえる。その傷を癒し、瞬きの間にどこか適当な街に連れて行くことだってできる!!
――だから、お願いだ』
「はい。私の、お願いは――」
私は残る力を振り絞り――
「――――あなたに、幸せになって欲しい」
……ああ、君は、本当にしょうがない人だ。
『私は、私は君と――になりたい』
「なら、それが……私のお願い、です」
もはや呼吸もままならぬまま、彼女は朗らかに微笑む。
成程、彼女が悪魔を殺すという私の視た未来に相違はなかった。
どことも知れぬ異教の地に消えた彼女のそれもまた、惨たらしい死であっただろう。
太陽が沈む。
そうして、私は彼女の最後のお願いを叶えた。
◇
朝は岩、昼は神、夜は悪魔、それが私だった。
そして今、再び訪れた朝に私は生まれた。
隣には彼女がいる。
朝に聖女となり、昼に悪魔を殺し、夜に惨たらしく死んだ彼女が、再び朝を迎えたのだ。
背丈は少しだけ彼女の方が高いが、私にも成長期が来れば変わるだろう。変わるに違いない。どうか変わってください。
「今日のおゆはんは何でしょう?」
「さあ、出てきてからのお楽しみ、じゃないかな」
「楽しみですね!! シチューだったら食べに行っていいですか?」
「いいよ。母さんに交渉してみる」
私達は手を繋ぎ、のんびりと家路を歩く。
春の風に桜が舞い、ぽつぽつと街灯に光が灯る。
これは私と彼女が出会い、そして終わるまでのお話だ。
そして、ここから私と彼女はもう一度始める。
共に、生きていく。
完