プロローグ
雨だった。
ビルの窓に映る東京は、
濡れた金魚みたいに滲んでいる。
終電間際の駅は、
疲れた人間の匂いがした。
誰もが俯き、
スマートフォンの白い光だけを見ている。
彼女も、その一人だった。
通知は増えていた。
未読の連絡。
仕事の催促。
謝罪文の確認依頼。
けれど、
指は動かなかった。
――もう、疲れた。
そう思った瞬間、
胸の奥で何かが軋む。
黒い影が、
足元に滲んだ気がした。
最近、
時々見えるのだ。
自分の影とは別に、
“もう一つの影”が。
それは夜になるほど濃くなり、
静かに感情を喰っていく。
泣けなくなった。
嬉しくなくなった。
何を見ても、
心が動かない。
なのに、
「消えたい」だけは消えてくれなかった。
改札を抜ける。
冷えた夜風が頬を撫でた。
雨音。
車の走る音。
遠くの救急車。
世界はちゃんと生きている。
自分だけを置いて。
交差点の信号が赤く滲む。
ふと、
知らない路地が見えた。
こんな場所、
今まであっただろうか。
細い石畳。
街灯ではなく、
朱色の提灯が揺れている。
雨の中なのに、
そこだけ空気が違った。
まるで、
夜そのものが息をしているみたいに。
導かれるように、
彼女は足を踏み入れる。
カラン――
どこかで、
風鈴の音が鳴った。
次の瞬間。
背後の車の音が消える。
ネオンも、
信号も、
人の声も消えた。
代わりに現れたのは、
終わらない夜だった。
古びた木造の店々。
赤い番傘。
煙草の煙。
遠くを歩く和装の人影。
その足元には、
黒い影が蠢いている。
「……また来たか」
低い声がした。
振り返る。
路地の奥。
黒い着流し姿の青年が、
雨の中に立っていた。
長い黒髪。
白い肌。
夜に溶けるような瞳。
青年は彼女を見る。
その視線は、
哀れみでも、
好奇でもなかった。
ただ静かに、
“壊れかけたもの”を見る目だった。
「お前、
もう半分喰われてる」
彼女は意味が分からず、
眉を寄せる。
すると青年は、
彼女の足元を見た。
そこには、
彼女自身の影に絡みつく、
もう一つの黒い影。
それは獣みたいに蠢き、
ゆっくりと彼女を呑み込もうとしていた。
青年は言う。
「ここは夜喰街」
提灯の灯が、
ゆらりと揺れる。
「朝を失くした人間が辿り着く場所だ」




