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二十三日目 憤る者、逆恨みされる者

「ありがとうございます」

 柿乃木優菜は更に次の日、就業時刻間際に南渋谷税務署を訪れ、同じように聖生の不在を告げられたが、受付の女性に聖生の携帯番号を書いたメモを渡された。一瞬、躊躇しかけた優菜だったが、思い直して受け取り、礼を言ったのだ。

(これでもう来なくなるのかな?)

 優菜とのやりとりが憂鬱だった受付の女性は、ようやく肩の荷が降りると思い、ホッとしたのだが、

(揉めたとしても、私は悪くないよね)

 自問自答してしまった。


「え?」

 いつものように各務原《かかみがはら》美津江《みつえ》とラブホテルで会った一色雄大は、優菜が南渋谷税務署に何度も行っているのを聞いて、眉をひそめた。

「どういう事ですか?」

 美津江と一緒に浴槽に浸かりながら、一色は尋ねた。

「理由まではわからないわよ。税務署の受付の子が、私の知り合いだったから、たまたま知ったの。その子も、柿乃木優菜が何故何度も来たのかはわからないそうよ」

 美津江はお湯を腕にかけながら言った。受付の女性は守秘義務を考えて、詳しい事は伏せたのである。

「その人は優菜さんを知っているのですか?」

 一色はある疑問をぶつけてみた。すると美津江はフッと笑って、

「知る訳ないでしょ。私が容姿を訊いたのよ。そしたら、縦ロールで毛量が多い若い女性って言ったから、ピンと来たわ」

「なるほど」

 一色は美津江を抱き寄せながら応じた。

「私も、野間口先生の使いで、何度も柿乃木税理士事務所を訪れているから、柿乃木優菜の容姿は知っているの」

「あ、そうでしたか。その時、自分も美津江さんに会っていますか?」

 一色は何か弱みを握られていないかと思い、探りを入れた。

「会っていないと思うわ。私はほとんど入り口で帰っていたから。内部の事は、優菜が取り仕切っていたんでしょ?」

 美津江は何故か優菜に悪意があると一色は考えた。ずっと呼び捨てにしているからだ。

「美津江さん、綺麗になりましたね。何かしているんですか?」

 一色は更に美津江を抱き寄せた。美津江は一色のゲスさを感じて、

「今日は時間がないから、嫌よ。また今度にしてね」

 立ち上がって、浴槽を出てしまった。

「ええ?」

 一色は思ってもいなかった事を言われて、あからさまにがっかりした。

「それより、本当に税理士試験、大丈夫なんでしょうね? もししくじったら、私もさよならするから」

 美津江の目が冷めているのを見て一色はギョッとした。

「も、もちろんですよ。絶対に大丈夫です。必ず、あと二科目取りますから」

 一色も立ち上がった。美津江は一色の下心丸出しの状態を鼻で笑うと、

「そう。頑張ってね」

 さっさと浴室出て行くと、服を着て、部屋を出て行った。

「くそ!」

 一色は右足で浴槽の湯を蹴った。飛沫《しぶき》が上がり、壁のタイルを水が滴《したた》り落ちた。


「そうなんだ。やっぱり来たのね。で、メモは渡してくれた?」

 聖生は直帰なので、途中で統括官に報告をしてから、受付の女性にも連絡した。

「ありがとう。ごめんね、迷惑かけて。多分、もう来ないと思うから、安心して」

 聖生は通話を終えると、スマホをハンドバッグに入れた。

(という事は、もしかすると優菜さんから連絡があるかも知れないのね)

 聖生は溜息を吐き、入って来た地下鉄に乗り込んだ。

「あ、聖生ちゃん」

 その車両には、高校の同級生で親友でもある東京国税局査察部の中禅寺茉祐子が乗っていた。

「あら、茉祐子。偶然ね」

 聖生が微笑んで言うと、茉祐子は苦笑いをして、

「偶然でもないの。申し訳ないんだけど、聖生ちゃんを尾けてたの」

「え? お姉の差し金?」

 聖生はビクッとして声を低くした。茉祐子は頭を掻いて、

「麻奈未先輩は関係ないわ。私の個人的興味。今も、乗っていたふりをしたけど、違う乗車口から乗って、乗っていたように見せかけたの」

「ちょっと……」

 聖生は半目で茉祐子を見た。

「ごめんね、聖生ちゃん。でも、心配だったから。柿乃木優菜さんて、ちょっと怖いとこあるから」

 茉祐子は手を合わせて聖生に詫びた。

「え? 怖いとこって、どういう事?」

 聖生は震えそうになった。ほんの少しだけだが、凛太郎から優菜の素行を聞いた事があるからだ。

「ああ、別に優菜さん、暴力を振るったりしないから、それは心配しないで。只、執念深いというか、粘着質というか、未だに高岡凛太郎さんを狙っているようだから」

 茉祐子の言葉に聖生は更に怖くなった。

「だから、私のところに何度も現れたの? 携帯の番号を教えたの、間違いだったかな?」

「そのくらいは大丈夫だと思う。麻奈未先輩も、優菜さんは聖生ちゃんに電話をする事はできないって、断言されてたから」

 茉祐子は聖生を慰めるように背中をさすった。

「ありがとう」

 聖生は茉祐子の気遣いに感謝した。


 聖生と茉祐子は地下鉄を降りると、その駅で別れた。

(聖生ちゃんを心配して、つい声をかけちゃったけど、本当は野間口絵梨子の関係先を調べているのよね)

 茉祐子は去って行く聖生の背中に頭を軽く下げた。絵梨子のマンションを捜索した結果、幾人かの大物政治家との繋がりがわかり、それを聞きつけた東京地検特捜部の中務《なかつかさ》迪夫《みちお》検察官が、絵梨子から供述を取りたいと言って来たのだ。尼寺部長は仕方なく、茉祐子の直属の上司に命じて、絵梨子の近辺を探るようにさせた。織部も尼寺から言われて、元部下の姉小路に問い合わせたのだが、無理だろうとの返事をもらっていた。いよいよ手詰まりを感じた尼寺は、絵梨子からの押収物から判明した政治家の周囲を探るように命じたのだ。

(査察部は検察の出先機関じゃないってえの!)

 中務を嫌悪している茉祐子は、ムカついていた。

(でも、大学時代、麻奈未先輩をいじめていた野間口絵梨子を少しでも長く刑務所に入れておくために、あの女の事、調べ尽くしてあげるわ)

 尊敬する麻奈未のためなら、苦労は厭《いと》わない茉祐子である。その時、スマホが振動した。

「はい、中禅寺」

 茉祐子はすぐに通話を開始した。

「お疲れ様です、茉祐子さん。こっちの政治家は、地元に帰っています。どうやら、解散が近いみたいですね」

 かけて来たのは、茉祐子の恋人であり、後輩である代田充だった。

「お疲れ、充。そうなんだ。わかった、引き続き、他の政治家も調べて。検察の思惑はともかく、野間口をできるだけ娑婆《しゃば》に出さないために、悪さを炙《あぶ》り出したいから」

 茉祐子は真顔で代田に告げた。

「もちろんです。伊呂波坂先輩のためにも、俺、頑張ります」

 代田が言うと、

「え? それどういう事?」

 茉祐子の右の眉が吊り上がった。

「ああ、いや、深い意味はありません! 茉祐子さんの尊敬する伊呂波坂先輩のために頑張るという事です!」

 すぐに茉祐子の感情を読み取った代田は慌てた様子で弁解した。

「それでよろしい」

 茉祐子は微笑んで応じた。


 優菜は地下鉄で移動しながら、メモを見ていた。

(この番号、本物かしら? 本物だとして、聖生さんは出てくれるかしら?)

 優菜は優菜で、聖生を怖がっていた。

(見た目は似ていない姉妹だけど、まなみさんの迫力を見る限り、聖生さんも気が強いよね)

 優菜は麻奈未の予想通り、聖生への連絡を躊躇していた。

(私、勘ぐり過ぎなのかな? 木場のおじ様に訊いた方がいいのかしら?)

 優菜はメモを鞄に入れると、鞄を肩にかけ直した。

(でも、私が凛太郎さんを疑っていると思われるのも、嫌だな)

 優菜の葛藤は、アパートに帰り着くまで続いた。

「え?」

 優菜はアパートのドアの前に立っている男に気づき、立ち止まった。

「ああ、優菜さん」

 そこにいたのは、一色だった。相変わらず、ニヤニヤしていて、気色が悪いと思った。

「何でしょうか?」

 優菜は大股で勢いよく近づくと、口調を強めて尋ねた。

「いやあ、元気かなあって思って、寄ってみたのですが、留守だったので、帰ろうと思っていたんですよ」

 他の年下の同僚にはタメ口なのに、自分にだけ敬語を使う一色が下心があるように見えて、優菜はいい気がしなかった。事務所を辞めても、相変わらず敬語なので、より気持ち悪さが増していると思った。

「南渋谷税務署に何度も通っているって聞いて、どうしてかなあって思ったんですよ」

 一色は顔を近づけて来た。優菜は後退《あとずさ》りして、

「何故、それを知っているんですか?」

 一色を睨みつけた。一色は肩をすくめて、

「南渋谷税務署には、柿乃木税理士事務所の顧客だった法人に調査に入った法人課税部門の調査官がいますからね。あるルートを通じて、知ったんですよ。誰にも知られていないと思っていましたか?」

 小バカにした顔で優菜を見下ろした。優菜は顔が引きつるのを感じて、

(この人、まだ私を尾け回しているの?)

 全身に蕁麻疹《じんましん》が出そうなくらい怖くなった。

「お帰りください、貴方に話す事は何もありません」

 優菜はドアを解錠して開くと、強く締めて施錠した。

「つれないですね。わかりました、また来ますね」

 一色はもう一度肩をすくめると、他の部屋のドアから見ている住人に愛想笑いをして、アパートを立ち去った。

(誰か、助けて……)

 優菜は玄関にしゃがみ込んでしまった。


(麻奈未さん!)

 凛太郎はウキウキして舗道を歩いていた。麻奈未と会うためにいつものカフェに向かっている。

(今日こそ、今日こそ!)

 凛太郎の顔はいつの間にか嫌らしくなっていた。

(ああ、いけない! 俺は何て浅ましい男なんだ! 麻奈未さんに軽蔑されるぞ!)

 プロポーズを急ぐのは、家族の食事会をスムーズにするためであって、麻奈未と深い関係になりたいからではない。凛太郎は必死になって自分の中の嫌な自分に言い聞かせていた。

(麻奈未さんは俺には不釣り合いな程の美人だし、性格もいいし、スタイルは、ええっと、抜群という訳ではないけど、スリムでかっこいいし、もう何も欠点がない素晴らしい人なんだ!)

 麻奈未が知ったら、別れを切り出されそうな事を思いながら、凛太郎はカフェを目指した。

「え?」

 その時、凛太郎はカフェの窓際にいる女性に気がついた。

(優菜さん!?)

 何故か、優菜が一人で座っていたのだ。

(え? え? どういう事? まさか、尾けられていたの? いや、尾けられていたのなら、先に店にいるはずがない。偶然?)

 凛太郎は優菜が泣いているのに気づいた。

(どうしたんだろう? 何があったんだ?)

 元同僚でもあるので、凛太郎は生来の優しさから、つい優菜の事が気になってしまった。しかし、麻奈未との約束の時間が迫っており、優菜に話しかける余裕はない。

(麻奈未さんに連絡して、場所を変えよう)

 凛太郎はスマホを取り出した。すると、

「凛君、何してるの? 早く!」

 麻奈未はすでに店の中にいて、凛太郎を見つけて出て来た。優菜も麻奈未もお互いに気づいていないようだ。

「麻奈未さん、場所を変えましょう」

 凛太郎は麻奈未に近づいて、小声で告げた。

「え? どういう事? もう、コーヒーを二人分、頼んじゃったよ」

 そういう時に限って、麻奈未のフットワークは軽かった。

「そうですか」

 凛太郎は引きつり笑いをして、麻奈未と店内に入った。優菜は俯いているので、こちらには気がついていない。凛太郎は素早く優菜の方に背を向けて座ると、

「窓際の席に優菜さんがいるんです」

「ええ?」

 麻奈未が見ようとするのを凛太郎は慌てて止めて、

「見ないでください。コーヒーを飲んだら、出ましょう。気づかれたら、ややこしい事になりそうなので」

 麻奈未は声を低くして、

「聖生の事で、問い詰められるって事?」

「そうです」

 凛太郎は身を屈めて言った。麻奈未は溜息を吐いて、

「本当に今更ながら、貴方と聖生は軽率だったと思うわ」

「すみません」

 何も言い返せない凛太郎は頭を下げた。そこへ店員がコーヒーを持って来た。

「あつ!」

 凛太郎は淹れたてのコーヒーを無理して飲もうとして舌を火傷した。

「騒いだら気づかれるわよ」

 麻奈未は普段入れないミルクを注ぎ、温度を下げた。

「はい」

 凛太郎もそれに倣った。

「優菜さん、誰かを待っているのかしら?」

 麻奈未がコーヒーを息で冷ましながら言った。

「え?」

 凛太郎はハッとして麻奈未を見た。

「一人で来たのなら、カウンターが近いんだから、わざわざあんな奥のボックス席に座らないでしょ?」

 麻奈未が言うと、凛太郎は、

「そうですね。誰か来るんでしょうか?」

「気にしても仕方ないから、早く飲んで出ましょう」

 麻奈未はコーヒーを少しずつ飲んでは冷ましを繰り返し、遂に飲み干した。凛太郎は舌のヒリヒリに顔を歪めながら、何とか飲み終えた。

「あ、優菜さんの席に誰か座った」

 麻奈未が立ち上がりかけて座り直した。

「え?」

 凛太郎はつい優菜を見てしまった。

「あ、あの女の人……」

 凛太郎は優菜の向かいに座った女性に見覚えがあった。

「知ってるの?」

 麻奈未がムッとした顔になった。

「ああ、いや、知っているって程じゃないです。多分、野間口先生のところにいた事務員さんですよ」

 麻奈未さんは嫉妬深いなと思いながらも、それだけ愛されているんだと自惚れる凛太郎である。そう、優菜が待ち合わせをしていたのは、各務原美津江だったのだ。

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