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二十二日目 凛太郎の決心を阻むもの

(決めたぞ。今度こそ、麻奈未さんにプロポーズする!)

 凛太郎は、その日の仕事を終えると、直帰の連絡を所長の綾子に入れ、颯爽と舗道を歩いた。優菜が妙な行動をしているので、急がなければならないと考えていた。

(麻奈未さんは、結婚まで清い交際をするって言ってたから、プロポーズして、そのまま婚姻届を……)

 つい顔が嫌らしくなり、周囲を歩いていた若い女性だけではなく、老婦人までもがビクッとしたのを凛太郎は知らない。

(ああ、いかんいかん、それじゃあ、身体目当てで麻奈未さんにプロポーズするみたいで、軽蔑される)

 凛太郎はスーツのポケットに右手を入れた。

(指輪も買った。プロポーズの言葉も決めた。あとは麻奈未さんに連絡するだけだ)

 そこまで妄想を進めて、凛太郎はハッとした。

(麻奈未さんて、同じ国税局に恋人がいたんだよな。で、相手が汚職で逮捕されて、男性不信に陥って、ずっと恋人を作らなかった)

 凛太郎は急に弱気になった。

(まずい。麻奈未さんは経験があるんだ。なのに俺は実質未経験……)

 柿乃木優菜との恐ろしい体験はカウントしていない凛太郎である。

(こんな事、母さんはもちろん、父さんにも相談できない。柿乃木税理士事務所の元同僚にも相談できないし……)

 凛太郎は足を止め、項垂れた。

「あら、凛太郎君じゃない? 奇遇ねえ」

 前から女性の声がした。

「え?」

 凛太郎は聞き覚えのあるその声に反応して、顔を上げた。

「あ」

 凛太郎は思わず後退《あとずさ》りした。そこにいたのは、麻奈未の母親の美奈子だったのだ。

「立ち話も何だから、そこのカフェに入りましょうか?」

 美奈子はスッと自然に腕を組んで来て、凛太郎を強引に歩かせた。

(あのカフェは麻奈未さんとの思い出のカフェ! 行きたくない!)

 凛太郎は美奈子の動きを食い止めると、

「あそこじゃなくて、別の場所にしましょう」

 逆に美奈子を引っ張って、違う方向へと歩き始めた。

「あら、そうなの?」

 美奈子は凛太郎の意外な程の力強さに嬉しそうに微笑んだ。

「どこに連れて行ってくれるのかしら?」

 美奈子が耳元で尋ねた。凛太郎はその吐息に身震いしそうになったが、何とか堪《こら》えて、

「お食事でもどうですか、お義母《かあ》さん?」

 顔を引きつらせて尋ね返した。

「お母さんなんて、呼ばれたくないわね。私は貴方を産んだ覚えはなくてよ」

 美奈子は意地悪く言い返した。凛太郎は嫌な汗を噴き出しながら、

「いや、違いますよ。麻奈未さんのお母さんだから、お義母さんと言ったんですよ」

 だが美奈子は、

「麻奈未と結婚してないでしょ、凛太郎君は? お義母さんは違うでしょ?」

 更に意地悪く言った。凛太郎は一瞬固まってしまったが、

「すみません、では何とお呼びすればいいですか?」

 もう一度尋ねた。美奈子はフッと笑って、

「美奈子でいいわよ」

 囁いた。凛太郎は堪らず、震えてしまった。


「え? また来たの、みずのあきさん?」

 調査先の法人から帰った聖生は、受付で呼び止められていた。

「はい。かなり深刻そうなお顔だったので、お言伝《ことづて》を伺ったのですが、また来ますとおっしゃって、お帰りになりました」

 受付の女性も困った様子だった。聖生は溜息を吐いて、

「今度来たら、私の携帯番号教えていいですから」

 それだけ頼むと、二階の法人課税部門へ階段を上がった。

「はい、わかりました」

 受付の女性は聖生の背中に告げた。

(全く、柿乃木優菜さん、何を考えているの? 凛太郎さんには、更に警戒してくださいってお姉から言ってもらおうかしら?)

 優菜の行動に恐怖を覚えた聖生は、真剣にそう思った。

(取り敢えず、お姉にラインしておこう)

 聖生は麻奈未に優菜襲来を伝えた。


「え?」

 麻奈未は査察のフロアを出たところで聖生からのラインを受けた。

(優菜さん、懲りずにまた行ったの? 何をそんなに気にしているのかしら? やっぱり凛君を諦めていないの?)

 麻奈未は溜息を吐いた。

「どうしたんですか、先輩?」

 後ろから来た中禅寺茉祐子に声をかけられた。

「あ、中禅寺さん。聖生が別のストーカーに狙われてるの」

 麻奈未は苦笑いをして茉祐子を見た。

「え? またストーカーですか? 聖生ちゃん、大丈夫なんですか?」

 茉祐子は声を低くして訊いた。麻奈未も声を低くして、

「相手は柿乃木優菜さんなんだけどね」

「ああ、例の?」

 茉祐子は凛太郎と優菜の間に何があったのかは聞いていないが、想像はついていたので、納得した。

「よりによって、一番見られてはいけない人に凛君と腕を組んでいるところを見られたから、仕方ないんだけどね」

 麻奈未の心の片隅には、自業自得よという思いが少なからずあった。

「それで、どうなったのですか?」

 茉祐子は興味津々の顔になっていた。

「聖生の携帯番号を教えていいって、受付の子に言ったみたい」

「かけますかね、優菜さん」

 茉祐子は思案顔になった。麻奈未は肩をすくめて、

「かけないと思うわ。もしそれができるなら、最初に来た時、電話番号を訊いたはずだから」

「なるほど、そうですね」

 茉祐子は大きく頷いた。

「聖生の話だと、みずのあきっていう名前、優菜さんの亡くなったお母さんの名前らしいの。旧姓を使ったところが、後ろめたさを感じるのよね。柿乃木を名乗ったら、一発でわかってしまうから」

 茉祐子はまた頷いて、

「そうですね。あの事件を知らない税務署の職員はいませんからね。それにしても、柿乃木元税理士の愛人だった野間口絵梨子が同じような罰状で起訴されたのは、皮肉ですかね?」

「そうね。類は友を呼ぶ。まさにその典型だわ」

 麻奈未は奇しくも関係があった絵梨子が税理士にあるまじき罪で起訴された事に悲しみを感じた。

「姉小路さんも凄い人と結婚しますよね」

 茉祐子が苦笑いをした。麻奈未も苦笑いをして、

「姉小路さんも、野間口先輩のどこがそんなにいいのかわからないけど、びっくりよ」

「まあ、好き者同士、馬が合ったんじゃないですか?」

 麻奈未が目を丸くするのも気にせずに、茉祐子は大胆な発言をすると、会釈をして廊下を歩いて行った。

(確かにそうかも知れないけど、私には言葉にできないわ、中禅寺さん)

 麻奈未は顔を引きつらせた。


(優菜さんがかけて来たら、どうしようか?)

 思い悩みながら夜道を歩いていると、いつの間にか自宅の前にいた聖生は、

「悩んでも仕方ないか」

 呟いて玄関に入った。

「お帰り」

 珍しく麻奈未が先に帰っていた。彼女はリヴングルームのソファに気怠《けだる》そうに座っていた。

「只今。どうしたの、お姉? 凛太郎さんと喧嘩でもしたの?」

 聖生が尋ねると、麻奈未は溜息を吐いて、

「喧嘩なら、こんなに落ち込まないわよ。凛君から、連絡がなかったの」

 聖生は半目になって、

「連絡がないくらいで落ち込めるって、お姉は幸せね」

「だって、ここ最近、毎日のように連絡を取り合って、食事をしたり、話をしたりして過ごして来たのに、今日はラインすら送って来ないのよ。大ショックだわ」

 麻奈未は口を尖らせた。聖生は肩をすくめて、

「高校生じゃないんだから、こっちから連絡すればいいじゃない? お姉、考えるのやめたの?」

「したわよ! 私だって、いい大人なんだから、それくらいは思いつくの! でも、凛君、電話には出てくれないし、ラインも既読にならなかったのよ」

 麻奈未は頬を膨らせて立ち上がった。聖生は奥の方を見て、

「お父さんは?」

「お風呂よ。今日は何だか上機嫌だったわ」

 それが余計に麻奈未にはショックだった。

「お姉が早く帰って来たから、嬉しかったんじゃないの?」

 姉のバカ話を聞いているのが嫌になった聖生は回れ右をすると、階段を駆け上がって行った。

「ちょっと、まだ話は終わってないわよ!」

 麻奈未はますます口を尖らせたが、聖生を追いかけるつもりはなく、ソファに沈み込んだ。


「はあ、はあ……」

 凛太郎は、食事に入ったレストランで、美奈子がトイレに行った隙を突いて、会計を済ませると、逃げるように店を飛び出した。

(やっと、離れられた……)

 凛太郎はタクシーを捕まえると、

「取り敢えず、最寄り駅へ急いでください」

 美奈子が追いかけて来ると思い、運転手を急かした。そして、スマホを取り出した。

「げ」

 麻奈未から何度も電話が来ていて、ラインも来ていた。

(まずいよお。でも、美奈子さんが目の前にいるのに、麻奈未さんの電話には出られないし、実際、電話に出る余裕はなかった……)

 美奈子の矢継ぎ早の質問攻撃で、凛太郎は電話が鳴ったのすらわからなかったのだ。ラインの通知音など、聞こえるはずがない。

(早く、電話しないと)

 凛太郎がタップしようとした時、美奈子から着信が入った。

(わ、もう気づかれた!)

 凛太郎は顔がひくつくのを感じた。

(申し訳ない、美奈子さん! 今は麻奈未さんが優先なんです!)

 凛太郎は心の中で詫びて、麻奈未へ電話をした。

「凛君? どうしたの、電話に出ないし、ラインは既読にならないし。何かあったの?」

 凛太郎は美奈子が麻奈未に何か吹き込む前にと思い、あった事を全部話した。

「ええ!? 母が!?」

 麻奈未の驚きようは、鼓膜が破れるかと思った程だった。

「ま、麻奈未さん、声が大きいですう……」

 凛太郎は涙目で告げた。

「ああ、ごめん。どうして母とそんな事になったの?」

 麻奈未は謝罪して、美奈子が現れた時の事を尋ねた。

「それが、奇遇ねって言われて……。でも、美奈子さん、確か銀座近辺で仕事しているんですよね?」

 麻奈未は凛太郎が母の事を「美奈子さん」と呼ぶのがさっきから気になっていたが、

「絶対、凛君を尾けてたのよ。油断も隙もないわ」

 不満を口にしてから、

「それより凛君、どうして母の事を『美奈子さん』て呼ぶの? イラッとするんだけど?」

 問い質した。

「いや、その、お母さんて呼んだら、『貴方を産んだ覚えはない』って言われて、お義母さんて呼んだら、『麻奈未とは結婚していないでしょ』って言われて、なんて呼んだらいいんですかって訊いたら、『美奈子でいいわよ』って言われたんです」

 凛太郎はあくまで仕方なくだと強調した。

「あっそ」

 麻奈未は思った。凛君では、お母さんに太刀打ちできないと。

「わかった。母には私からきつく釘を刺しておくから。今度、凛君と二人で食事したりしたら、親子の縁を切るって」

 麻奈未の声が低くなったので、凛太郎は蒼ざめた。

(麻奈未さん、本気だ)

 美奈子と麻奈未の喧嘩は避けなければならないと凛太郎は思った。

「それで、今日はどうしても麻奈未さんと会って話がしたかったんですけど、もう時間が遅いから、明日必ず会ってください。大事な話があるんです」

 凛太郎は一息に捲し立てた。

「え、あ、そう?」

 麻奈未は凛太郎の迫力に気圧されたのか、声尾が小さくなった。

「明日、あのカフェで待っています。七時でいいですか?」

「ええ、いいわよ」

 麻奈未の声はまだ小さかった。

「じゃあ、お休みなさい」

「あ、お休みなさい」

 凛太郎は麻奈未の声を聞き終わると、通話を切り、スマホをスーツの内ポケットに入れた。


「誰からだ?」

 麻奈未の声が小さかったのは、リヴィングルームに現れた風呂上がりの太蔵のせいだった。

「凛太郎君から」

 麻奈未は微笑んで父を見上げた。

「喧嘩をしているのか?」

 太蔵は麻奈未の向かいのソファに腰を下ろした。

「違うわよ。どうしてそう思うの?」

 麻奈未はスマホをスーツのポケットに入れながら尋ね返した。

「大声が聞こえたからだよ」

 太蔵は腕組みをして応じた。麻奈未は苦笑いをして、

「それは、お父さんのせいだから」

「は? どうしてだ?」

 泰造には訳がわからない。麻奈未は半目になって、

「私の恋人をお父さんの元配偶者が誑《たぶら》かそうとしたの」

「え?」

 太蔵の顔つきが変わった。

「お父さんから言ってよね。娘の恋人にちょっかいかけるなって」

 麻奈未は立ち上がると、階段を駆け上がって行った。太蔵はしばらく麻奈未が消えた方を見ていたが、

「ふう」

 大きく溜息を吐くと、項垂れた。


「聞いてたの?」

 階段の上に聖生がいたので、麻奈未は半目で訊いた。

「ちょっとね。お母さんが絡んでいるの、凛太郎さんの件で?」

 聖生はニヤニヤしている。麻奈未はムッとして、

「何喜んでいるのよ? あんたも、恋人できたら、お母さんにちょっかい出されるんだから、覚悟しておきなさいよ」

 それだけ言うと、スタスタと廊下を進み、自分の部屋に入ってしまった。

「ええ? それは嫌だな」

 聖生は美奈子が自分の彼に言い寄るのを想像して、身震いした。

(お母さんなら、やりそうで怖い。しかも、現に凛太郎さんにちょっかい出してるし……)

 聖生は階段を離れ、自分の部屋に入った。


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