『私の月(1)』
「ははっ。聞いてくれるか…」
そう言った主は見たことがないほどに美しかった。
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私の名は藤原行通。左大臣の息子であり、次代の帝であらせられる霧月の君の従兄弟にあたる。父である藤原道行の妹御様が霧月の君の母上、つまり中宮様なのだ。であるから私たちは幼い頃より親しく育ってきたし、お互いのこともよく知っていると言っても過言ではない。そして霧月の君を幼い頃より知っている私は、彼の方の人となりを理解しているつもりであるし、生涯の主君として仕えるつもりである。
霧月の君はとかく素晴らしい御方だ。面長の顔に程よく配置された美しい切れ長の目。美しく通った鼻と薄い唇。鍛えられた肢体。そして洗練された動き。霧月の君が幼少の頃、内裏で帝付きの女房達が見蕩れたと言うが、その噂はおそらく真実なのだろう。しかし、霧月の君の素晴らしい所は何も容姿だけではない。
霧月の君は兎角、聡明な御方だ。次代の帝として素養があらせられる。生まれ持った素質に加え、幼少のみぎりより様々な事柄を学ばれてきた。舞や唄などの貴族としての振る舞い、上に立つものとしての心得、貴族を纏め上げるその手腕。外面だけでなく内面も帝としてふさわしい。将来、霧月の君のもとで左大臣として働くことが出来るであろうということが私の微かな誇りである。
さて、霧月の君には少しばかり困ったところがある。この点に関しては、私と左大臣である父も原因の一端を担ってしまっているためにあまり強くは出れないのが痛いところだ。
私の父は昔、幼い私と霧月の君にこう教えてくださったことがある。
『民の気持ちを理解しようとしなさい。民の生活を知りなさい。身の丈に合った生活は必要であれど、その生活は民なしでは成りえないのだよ』
事実その通りである。私たちが普段食事として食べる米は村の者たちが育てたものであり、着ている衣服の布地は彼らが織ったものだ。そして、私たちはそれに応えるように国を動かさなくてはならないのである。しかし、近頃はそれを理解しない貴族のなんと多いことか。彼らは自らの立場に胡座をかき、また不正を働く者もいると聞く。
その現状に嘆いた我が父は、将来の帝である霧月の君と左大臣になろうとする私の二人に言って聞かせたのだ。
さて、そのように教えを受けた純粋な幼子はどうしたか。―――答えは簡単である。私たちは暇を見つけては村に行くようになったのだ。
勿論、それそのものは良い事であるだろうと今でも思っている。最初は貴族の子供が来たと、言葉や態度には出さずとも何処か目の奥が冷たかった。当然だ。一部の国司が自らの私腹を肥やしているのは、やがて村の者たちも気付く。しかし、訴え出たところで相手になどされない。貴族への不信感が高まっていくのも当然のことだろう。しかし、何度も通い根気よく話を続けるうちに、村の者とも段々と打ち解けるようになった。村で何が起きているのか、どういうことに困っているのか、そういうことを話してくれるようになったのだ。
本来、時代の帝ともあろう方に対しての村の者の態度は許されたものではない。間違いなく不敬罪である。しかし、霧月の君は『自身が正体を隠しているのだから』と気にも止めなかった。そして、村の者が霧月の君を呼ぶ時の『若様』という呼称は、皮肉げなものではなく、次第に好意を込めて呼ばれるようになったのだ。
以降、この方は時間を見つけては村へと行くようになった。幼き頃は私も供の者として、村へと行ったものだ。霧月の君の気持ちは分からないでもない。幼少のみぎりより人に跪かれて育ってきた私たちは、自身を見てくれる人が欲しかったのかも知れない。村の者たちは、私たち自身を見てくれる。幼い私たちに堅苦しいまでの最上級の礼をとらなかった。勿論、私たちが礼儀など気にしないで欲しいと言ったということもあるが、彼らは私たちの意思を汲んでくれるのだ。だからこそ、私は霧月の君にとって居心地の良い場所をうばいたくなくて、あまり咎められなかったのだ。
(最も、彼の方がこれほどまでに頻繁に村へと訪れるとは思っていなかったが)
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花見見物が本格的に始まってしまっては、霧月の君はほとんど動けなくなるだろう。落ち着いて桜の花を見ることなど出来ないかも知れない。
それが分かっていたからこそ、今回霧月の君が外出なさるのは構わないことであるとは思っていた。供の者を一切付けずに出かけてしまわれたことは些か問題ではあるが、略装であれど濃紫の狩衣であるし、何より霧月の君は誰も適わない程に武術の心得がある。お忍びということではあるが馬を連れてきているようであるし、お逃げになることも可能であろう。そう考えて、私はあくまでもお迎えに向かうだけに留めることにした。幼き頃より傍にお仕えしてきた私がいては、心休めないかもしれない。お一人でゆっくりと羽を休めていただきたいものだ。
およそ一刻ほど経った頃か。村の中へと入った私は、村の年配の女性から話し掛けられた。
「若様なら、桜を見に行かれましたよ。それから…村のはずれに暮らす娘の話をしましたら、どうやら興味を持たれたご様子でした」
「村のはずれに暮らす娘…?」
女性の話に何か引っ掛かるものを覚え、聞き返した。
話によるとどうやら、こういうことらしい。
―――いつの頃だったかは詳しくは分からないが、村のはずれに美しい十五、六程の娘がやってきた。その娘は強く頭を打っていたようで、自らの名前しか思い出せないらしい。そのため、子に恵まれなかった村はずれの老夫婦が引き取って育てている、と。そして、私が思うにおそらく、その老夫婦とやらは先代である藤原頼行を助けたとして我が一族が藤原の姓を与えた者たちのはずだ。そして引き取られた娘とやらが実は大層優秀な娘だったようで、立ち居振る舞いやら何やら、所作が兎角美しく、また気立ての良い娘らしい。そしてそのことを霧月の君に話したところ、興味を持たれたようだった、という話だ。
霧月の君も年頃の殿方ではあるし、美しい娘に興味を持つことは致し方ないことである。しかし、相手の身分を考えるとそうもいかないのだ。
(しかし、本当にそのような娘であるとしたら、このような村に置いておくのは勿体無い。何か方法を考えてみるとしよう。幸い、藤原との関係が少なからずあるところにいるのだから…)
そう考えながら歩いていると、馬の手綱を引く霧月の君を運良くお見付けすることが出来た。馬へとお乗りにならなければならないような事態は起こらなかったようだ。私はそのことにホッとした。しかし、彼の方のお顔の様子がお出掛けになる前と変わっていらっしゃったのだ。本人は気付いていないようではあるが、まるで初めて恋でもしたかのような、そして同時に何か面白いものでも見付けたような、そんなお顔をしていらっしゃる。もともと美しいお顔立ちをしていらっしゃるが、今の霧月の君はいつも以上に美しい。男であり幼き頃より傍に仕えている私ですら、気を抜くと其の色香にやられてしまいそうだ。
「おや、どうかなされましたか。霧月の君」
いつも通り、平静を心がけながら声をお掛けする。
どうやら、やはり霧月の君は自らのご様子に気付かれていないようで、心配をかけてすまない、と謝りになられた。
勿論、今回の件に関しては私も黙認の形をとっていた訳であり、霧月の君が気になされることではない。そのことを伝えた上で、僭越ながら…とお尋ねすることにした。
「何処となく、楽しそうなお顔をしていらっしゃいます。もしや、噂の娘にでも会われましたか?」
村の者から娘の存在を聞いたことなど、それまでの成り行きを説明しながら霧月の君の狩衣を整えるなどの身の回りのお世話をさせていただく。
「ははっ。聞いてくれるか…」
私の質問に我が主である霧月の君は、今までに見たことのない程に美しく、艶やかに笑った。
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