閑話:支店長夫人の社交
「ジェシカ、頼みがあるんだけど……」
夕食後に居間でくつろいでいると、ユーグが申し訳なさそうに切り出した。
「なあに? 何でも言って」
ユーグに何か頼まれるのは珍しく、ジェシカはうれしくなる。
「来週、一緒に夜会に出てほしいんだ」
ユーグは一通の招待状を取り出した。
「うちの商会が取引しているオートクチュール店のオーナーが変わったんだ。関係者や店の客を対象に披露目の夜会をするそうで、君もその店のドレスを着て参加してもらえないかな?」
オンフィールド商会は服飾小物や装飾品も扱っているけれど、ミナリオ国の布が主力商品なので、取引先は仕立て屋や服飾品店が多い。
「もちろんいいわよ。ふふふ、支店長夫人のお仕事ね?」
ジェシカが笑うと、ユーグは顔を輝かせた。
「ありがとう! 助かるよ」
「私もあなたの役に立てるならうれしいわ」
そう言うと、ジェシカはユーグに肩を抱き寄せられる。魔力がじんわりと馴染むのを感じながら、こめかみに口づけを受けた。
「でも、その店のドレスって今から注文するの? 既製服のお店じゃないんでしょ? 間に合うの?」
「ああ、大丈夫。取引先の全部の店で、昼用と夜会用を一着ずつ作ってあるから」
「え? いつの間に? クローゼットにはないわよね?」
驚くジェシカに、ユーグは「勝手に作ってごめん」と眉を下げた。
「商会のほうで保管してあるんだよ」
「そうなの?」
ろくに社交をしないウィンドレイク男爵家では、ドレスはほとんど必要がない。それなのに、まれな社交の機会のたびにユーグは新しいドレスを用意してくれる。
今までジェシカはそれが申し訳ないと思っていたけれど、逆に商会にとっては取引先を利用するのは必要なことなのだろうか。
ジェシカがそう伝えると、ユーグは「そういう意図もある」とうなずいた。
「でも、俺が君を着飾らせたいのが一番の理由だな」
「私を着飾らせて楽しいの?」
「楽しいよ」
ユーグが笑うから、ジェシカは彼の腕に抱きついて見上げる。
「あなたが楽しいならいいけど。私の場合、社交用のドレスより、魔術院の研究発表会や政府の会議のときにローブの下に着る服のほうが身に着ける機会は多いと思うわよ」
「ああ、なるほど! それを俺が用意してもいいのか?」
「ええ、華美でなければ規定はないもの」
ジェシカの言葉に、ユーグは喜色を浮かべ、さっそくああでもないこうでもないとつぶやき出す。
衣服や装身具が好きなのは、オンフィールド家の性質なのか、家業の影響なのか。ユーグの母も姉も、ジェシカを楽しそうに着飾らせていた。
一方、服装に興味がないのはウィンドレイク家の性質かもしれない。ジェシカの父も仕事に必要な最低限しか気を配っていなかった。早くに亡くなった母が存命なら、身なりに無頓着なジェシカの世話を焼いたと思う。実際、メイドのアンや執事のデニスは、年に一度の大夜会のときにしか礼装を仕立てないウィンドレイク父娘に苦言を呈していた。
「私が店に出向いたほうがいいなら、一緒に行くわよ」
「じゃあ、今度、久しぶりに一緒に出かけるか!」
「ふふ、楽しみね」
ユーグの腕を引いて軽く口づけると、彼は倍以上にして返してくれたのだった。
夜会の当日。
ふたりは王都にあるブリング男爵邸のホールにいた。
ブリング男爵は最近他国の鉱山への投資で成功した貴族だった。ジェシカの祖父が興したウィンドレイク男爵家とは異なり、歴史の長い領地持ちの貴族家だ。だから、屋敷も広く豪華だった。
官僚や議員なら顔を知っている者もいるのだけれど、商業界とは関わりがないためジェシカはブリング男爵とは今夜が初対面だ。
ブリング男爵がオーナーになった店メゾン・ヴォリーリュスの客らしき貴族のうち、男性は面識があっても、彼らが同伴している夫人とは面識がないのがジェシカの行動範囲を示している。
ジェシカは魔術科に進学して魔術院に就職したため、貴族女性の友人とは疎遠になってしまった。仕事関係の知人友人は多いのだけれど。
ブリング男爵は四十代くらいの恰幅の良い紳士だった。同じ年代の夫人を連れている。
夫人のドレスはスモーキーピンクの生地で、裾には精緻な花の絵柄が染め付けられている。
「ブリング男爵夫人のドレスって、ミナリオ国でお義母様が用意してくださったデイドレスと同じシリーズよね?」
夫人のドレスを遠目に見たジェシカはユーグにささやいた。
植物図譜のような写実的な線画だ。ミナリオ国でジェシカが茶会に着て行ったドレスは裾から草花が生えていて花畑の中にいるような絵柄だったが、ブリング男爵夫人が身に着けているのは花だけの絵なのでブーケで裾を囲んだような絵柄だ。どちらかといえばかわいらしい柄の生地なのに、ドレスの胸元が大きく開いたデザインだから、なんとなくちぐはぐに見えた。
「そう。この作家はオンフィールド商会の専属なんだ。ミナリオ国の本店でも新しい生地だけれど、コノニー国支店ではメゾン・ヴォリーリュスに先行して提案したんだ。お披露目会の夫人のドレスにうちの生地を使ってもらえたのは光栄だな」
「ああ、それで、他に着ている方がいないのね」
「ジェシカにも作ってもらっているんだが、最初はオーナー夫人に譲らないとね。次に機会があれば君にも着てほしい」
「機会があればね」
今日のジェシカは、濃さを変えてグラデーションに染められた緑のドレスで、もちろんオンフィールド商会の布を使っている。宝飾品は魔力を貯められるスターサファイアのネックレスではなく、小さめのトパーズをあしらったもの。――ジェシカのドレスは胸元の開きも控え目で上品なデザインなので、男爵夫人のドレスは店の特徴ではなく彼女の趣味なのだろう。
ユーグはジェシカに合わせてダークグリーンのスーツだ。髪色はこげ茶色に変えていて前髪は長めだけれど、ぼさぼさではなくほどよくセットされている。ひげはなしで、メガネをかけていた。
金髪でメガネなしの完全な素顔よりは注目を浴びない、とユーグは言うけれど、中性的な美貌はあまり隠せていない気がする。
ミナリオ国では令嬢に騒がれて面倒だったと聞いたから、ジェシカは心配になる。
案の定、主催者のブリング男爵夫妻に挨拶に行くと、夫人はユーグを見て頬を染めた。
「はじめまして、ブリング男爵。オンフィールド商会の支店長のユーグ・ウィンドレイクです。こちらは」
「わたくしはハリエットですわ!」
ユーグが男爵に挨拶してジェシカを紹介しようとしたところで、男爵夫人が身を乗り出した。
「あ、ああ。はい。よろしくお願いいたします」
ユーグは一瞬固まったようだが、すぐに愛想笑いを浮かべた。
それから、男爵夫人はジェシカを品定めするように見回し、鼻で笑う。
ジェシカは自分の容姿に対する他人の評価など全く気にしない。貴族女性同士の社交ってそういえばこんな感じだったわね、と懐かしさすらある。それでも、さすがにこんなにあからさまな人は珍しいけれど。
ジェシカは遥か昔に家庭教師に習った社交用の微笑みを維持したけれど、ユーグの腕には力が籠った。
「支店長さん、わたくし、欲しいものがありますの」
「商談でしたら、改めて店の者を寄こします」
「あら、わたくしはあなたに言っているのよ?」
男爵夫人は扇を開いて口元を隠し、ユーグに流し目をする。
今度はジェシカの手に力が籠った。添えていただけの手が、ぎゅっとユーグの腕を握る。
ユーグは逆の手でジェシカの手を上から握ってくれた。魔力を遮る手袋をしているから、今日はユーグの魔力を感じとれないのが残念だ。
「商談は店の者を寄こしますので。他の方もお待ちでしょうから、私たちはこれで失礼いたします」
「まあ、それなら」
「ハリエット、後にしなさい」
ここで初めて男爵が夫人を止めた。しかし、「やめなさい」ではないところがおかしいし、顔が笑っているのが気持ち悪い。さらに、男爵はジェシカに顔を向けると、値踏みするようにねっとりと見回した。
「妻が支店長と話している間、夫人はお暇でしょう。私がお相手しますよ」
ジェシカは不快感を隠せずに言い返そうとしたけれど、今日の役割は支店長夫人だったことを思い出して口をつぐんだ。
それよりも先に、ユーグが静かに怒りのこもった声を上げる。
「私が彼女の隣を離れることはありませんから、お気遣いは不要ですよ」
男爵の反応は見ずに、すぐさま回れ右をしてその場を離れた。
会場の端まで歩いてから、やっとふたりは息をついた。
「なぁに、あれ」
ジェシカを小娘だと軽視してくる役人でも、あんなに気持ちの悪い態度はとらない。
「ひどいな」
ユーグも吐き捨てるように言う。
他の客にも同じようなことを言っているのか、男爵夫妻に挨拶して離れるときに顔をゆがめている客が多い。
「投資で成功しただけで、商売自体は不慣れってことか。取引先だからって馬鹿にしすぎだろう」
ユーグは「取引は考え直そう」と首を振った。
「いいの?」
「ああ、問題ない。いくつもあるうちのひとつだからな。……新しい生地にブリング男爵夫人のイメージがつかないうちに他にも広めないと」
「メゾン・ヴォリーリュスがかわいそうね。店は全然悪くないのに」
「そうだな……」
そのあとで挨拶したメゾン・ヴォリーリュスのデザイナーと支配人は倒れそうなほど顔色が悪かった。でも、顧客らしき夫人たちと話していたから、もしかしたらまたオーナー変更なんてこともあるのかもしれない。
ユーグの同業者も皆苦い顔をしていた。
「平民だからって下に見すぎですね」
「突然、儲かったものだから、いい気になっているんでしょうなぁ」
などと、彼らは評していた。
そうやって何人かに挨拶をしたあと、ユーグが言った。
「もう帰ろうか」
「私は別に構わないけれど、いいの?」
「必要な挨拶は終わったから大丈夫だ」
それなら帰ろうと話がまとまったところで、ブリング男爵夫人がひとりでやって来た。男爵は会場内に見当たらない。
ユーグが丁寧に、
「私たちは先に失礼させていただきます。本日はお招きいただきありがとうございました」
「あら。早いのではありません? あちらでお酒でも飲みながらお話いたしましょう」
「いえ、私たちはこれで」
「今後の取引のお話ですわよ?」
そう言って、にぃっと笑った夫人はユーグのメガネに手を伸ばす。
「それにしても、無粋なメガネですわね。外してしまいなさい」
ジェシカは咄嗟に手に持っていた扇で夫人の手を阻止した。
ぱしっと音が鳴る。
「人の顔に許可なく触れようとするなんて、失礼ですよ」
「なっ! 支店長夫人風情がっ!」
真っ赤になった男爵夫人は声を荒げると、手に持っていたワインをジェシカのドレスにかけた。
緑のドレスの胸元から下が濡れる。
「ジェシカ! 大丈夫か?」
「ええ、大丈夫」
「夫人、いくらなんでもこれはないのでは?」
「あら、そちらのほうが先に手を出したのよ」
「それは、あなたが先に」
ジェシカは言い募るユーグの腕を引く。
「もういいわよ」
「そんな汚れたドレスの女なんか放っておいて、わたくしについていらっしゃい」
ブリング男爵夫人はユーグに手を伸ばしたけれど、今度はユーグがそれを振り払った。
「ふざけるな」
「まあ! あなたそんなことを言っていいのかしら?」
「取引のことか? それなら問題ない」
「このことは夫に報告いたしますからね!」
男爵夫人はふいっと顎をあげて、踵を返して行ってしまう。
「こちらが男爵に苦情を入れる側なんだが」
ユーグの苛立った声に、ジェシカは「もう本当にいいから」と再度宥めると、
「それよりも、せっかくのドレスが汚れてしまったから、少し派手に魔術を使ってもいい?」
「魔術? どうするのかわからないけれど、好きなだけやってくれ」
ユーグの許可をもらったジェシカは足元に魔術陣を描こうと腰を落としかけたところで、ユーグに止められた。
「待った。床じゃなくて、この名刺に描くんじゃダメか?」
ユーグは胸ポケットから自分の名刺入れを取り出した。すかさず、ジェシカにペンを持たせてくれる。
「陣を描いたら床に置くのよ? それでもいい?」
「君になら踏まれても構わないよ」
「何言ってるのよ。踏まないわよ」
軽口を叩きながら、ユーグが持って支えてくれた名刺の裏に、ジェシカは魔術陣を描く。
「できたわ!」
「これは何の魔術?」
「ふふ、秘密」
ジェシカが笑うと、ユーグは苦笑しながら名刺を床に置いてくれた。
ジェシカはその前に立つ。
男爵夫人とのいざこざがあったから注目を浴びているが、ジェシカは周囲に構わずに呪文を唱えた。
「手を伸ばそう。空に、星に」
名刺から光になった魔術陣が浮き上がり、ぶわりと拡大する。
輝く魔術陣がジェシカの頭上に広がった。
「我に降りかかった災いを取り除け」
次の呪文を唱えると、魔術陣から光が出てスポットライトのようにジェシカを照らした。
ほんの数秒。
光が消えるとドレスの汚れは綺麗さっぱり消えていた。
ごく一般的な陣の拡大魔術とシミ抜きの魔術に、強い光の演出を加えて、普通より大げさな呪文で発動しただけだ。魔術師がこの場にいたら笑うだろうが、魔術に馴染みがない者は驚くだろう。
最後に「風よ!」と三つ目の魔術を発動させて、ユーグの名刺を手元に引き寄せる。描いた魔術陣は消えていた。
「ありがとう」
ジェシカはユーグに名刺を返した。
成り行きを見ていた客が、「魔術だ!」「シミが消えているぞ」「光が綺麗だったな」などと口々に言い、拍手が巻き起こる。
「何よ、今のは!」
会場内で見ていたのだろう、ブリング男爵夫人が大きな声を上げながら、駆け寄ってきた。
「魔術ですよ。私はオンフィールド商会の支店長夫人ですが、王立魔術院の主任研究員でもあります」
「王立魔術院ですって?」
「あら、そういえば自己紹介がまだでしたね。私はジェシカ・ウィンドレイクと申します。女男爵を戴いております」
「は? 女男爵?」
身分で比べるならブリング男爵夫人より、自分で爵位を持っているジェシカのほうが上になる。
ブリング男爵夫人は悔しいのか、わなわなと震えていた。
ジェシカはスカートを軽くつまんで広げる。
「私の今日のドレスは、メゾン・ヴォリーリュスで仕立てていただいたお気に入りなんです。汚れたままなんて耐えられませんから」
ジェシカはにっこりと笑って、ユーグが差し出した腕に手を添えた。
「それでは、ごきげんよう」
「今夜の件は、改めて苦情を入れさせていただきます」
夫人が何か言うより前にふたりは挨拶して、さっさと会場を後にした。
後日。
ジェシカの元に新しいドレスが二着届いた。例の植物図譜のドレスだ。
「えっ、二着も作ったの?」
「いや、俺が注文したのは一着だけ。もう一着はメゾン・ヴォリーリュスのデザイナーが、夜会のジェシカの言葉に感動したからだって。お礼代わりに」
目の前で自分の作ったドレスを汚されたら、当然良い気はしないだろう。しかも、汚したのは店のオーナー夫人だ。
「店のオーナーはまた変わったんだよ。顧客の中から手を上げた者がいたそうだ」
「まあ、それなら良かったわね」
「ブリング男爵と夫人は、もう二度と商売はできないだろうね。連名で商業組合に被害相談をしておいたから」
ユーグは晴れ晴れとした顔で笑う。
「あの夜会に来ていたメゾン・ヴォリーリュスの顧客の貴族からも噂は流れるだろうけれど、俺のほうでも手を打っておいたから、社交界でも干されると思う」
「え? 手を打ったって?」
「ウィッグの指輪の魔道具店でリアス侯爵にお会いする機会があったから、それとなく話しておいた」
「リアス侯爵に?」
リアス侯爵は政界で発言力のある人だけれど、裏では『頭髪を守り育てる紳士の会』の会長をしている。ウィッグの指輪の件でジェシカを取り立ててくれていた。
「ジェシカが被害を被ったと教えたら大問題だとおっしゃっていたから、君はもう安心していいよ」
ブリング男爵は頭髪が豊富だったな、と思い出す。
ジェシカが受けた被害よりも、ブリング男爵が受ける罰は大きそうに思えてしかたない。
でも、ユーグが楽しそうならいいか、と思うあたりジェシカも変わらない。
ジェシカはユーグにぎゅっと抱きつくと、「ありがとう」と頬にキスをしたのだった。
一旦完結にします。思いついたらまた追加予定です。




