ジェシカの贈り物
ユーグが商会の支店長室のソファに泊まった翌日。
出勤してきたドナルドに驚かれた。
「どうした? ここに泊まったのか?」
「ああ、ちょっとな」
「ジェシカさんと喧嘩でもしたのか?」
「喧嘩というか……」
怒鳴ったユーグに顔を青ざめさせたジェシカを思い出す。喧嘩というより一方的に苛立ちをぶつけただけだ。
魔術院まで彼女を迎えに行った夜。ベッドの中のジェシカはいつもと違っていた。
普段のジェシカは子どもが甘えるような無邪気さで、吐息や声に色気を感じてしまうのはユーグの方に邪な思いがあるからだと考えていた。
それなのに、あの夜はまるで誘っているような仕草だった。
細い指が背骨を撫でた。押し付けられた柔らかな胸と、いつもより熱い吐息。素肌の胸に触れられそうになって、ユーグは慌てて彼女を止めた。
抱きしめ返して、唇を塞ぎ、ジェシカの全てを貪り尽くしたい。そうしてしまう寸前だった。
ジェシカが突然あのような触れ方をした理由がわからない。魔術院で会った男が原因ではないのか。――彼に色事を教えられた? ユーグに対する後ろめたさから? ……邪推が止まらなかった。
次の夜からジェシカがユーグに触れなくなったのも、ユーグの心を乱した。
連日帰りが遅く、晩餐も別。明らかに避けられている状況は耐え難かった。
そんな思いが昨夜は爆発してしまったのだ。
怖がらせるつもりなどなかったユーグは、心底後悔している。
「早く仲直りしろよ。服の仕立て上がりなんて待ってないでさ」
「そうだよな」
ドナルドの言葉にユーグは深くうなずいた。
その日の午後、ユーグの元を男爵家の執事デニスが訪れた。
今までなかったことにユーグは何事かと慄きながら、支店長室で彼を迎えた。
デニスは、執務机の上にことりと小箱を乗せた。
「お嬢様からでこざいます」
彼もメイドのアンも、結婚後もジェシカを「お嬢様」と呼んでいた。
「ジェシカから?」
「ちょうどいい箱が見つかったからとお昼休みに魔術院を抜けてらっしゃいました」
目線で促され、ユーグは小箱を手に取る。開けると、中には大振りの指輪があった。宝石のような光沢を持つ石は、なぜかこげ茶色だ。
「取り扱い説明書をよく読んで使用してくださいとのことです」
デニスはそう言って、紙束を差し出した。見合いの日にジェシカから渡された資料と同じ書式だ。
一読すると、指輪が魔道具だとわかった。しかもユーグのための特製品だ。
「お手紙もお預かりしております」
封蝋は男爵家の紋ではなく、魔術院の紋が押されている。職場で私用の手紙なんて、家でも魔術のことを考えていそうなジェシカとは思えない。
「お嬢様はお小さいころから人間関係の難しい問題に直面すると、勉強や仕事に逃避されることがありました。近ごろのご様子も、おそらくは同じでございます。ユーグ様にお心あたりがおありでしたら、お嬢様の憂いを取り除いていただけませんでしょうか」
「もちろん、そのつもりだ」
ユーグが請け負うと、デニスは笑顔を浮かべた。
「それはようごさいました。このままではユーグ様のお父上にご連絡しないとならないかと心配しておりましたので」
「え! いや。待ってくれ。父が世話になったというのはあなたのことか?」
思わず立ち上がるユーグに、デニスは否定も肯定もせず、深く一礼して出て行った。
しばらくしてやってきたのはドナルドだった。
「執事さん、なんだって?」
「ジェシカの使いだ。これ」
もらった指輪を見せて、
「ジェシカが作ってくれた魔道具なんだ」
ユーグは指輪の石を一目盛り回転させた。
「うお、髪の色がこげ茶色になったぞ」
ドナルドが驚きの声を上げた。
ユーグはさらに石を回転させた。
「髪が伸びた!」
もう一目盛り回すと、
「ヒゲ! うわ、もさもさになった!」
「この指輪で変装できるんだ」
それで、石を元に戻すと、もちろん、
「素顔に戻るのか!」
「ジェシカが作ってくれたんだ」
「本当に優秀な魔術師なんだな」
手紙にはジェシカの思いが綴られていた。
『恋愛はわからないと最初に伝えましたが、先日、やっとわかるようになりました。どうやら、私はあなたに恋愛感情を抱いているようなのです。つきましては、結婚の条件について変更を願いたく、話し合いの場を設けさせていただきたいと考えております。ご検討のほど、よろしくお願いいたします』
仕事の手紙のような文面に笑い、先に言われてしまったことに忸怩たる思いを抱えながら、ユーグは幸せな気持ちになった。
今まで適当にあしらってきた女性たちの中に自分に本気の恋愛感情を持っていた人がいたら、申し訳なかったと反省もした。恋はこんなに激しく心を揺さぶり、辛く、同時にとても温かいものだった。真剣に向き合わないといけない大切な思いだったのだ。
ユーグは支店長室に置いてあった衣装から一番上等なものを選んで着替えた。髪と顔をきっちり整えると、ミナリオ国の社交界を騒がせた美貌が際立つ。
「その格好で出かけるのか?」
ドナルドの問いに、ユーグは笑った。
「ジェシカには効果がなくても、周りを牽制するのには効果絶大だろう?」
ユーグは颯爽と魔術院に向かったのだ。
先日と同様に魔術院の受付でジェシカを呼び出してもらう。受付係はユーグを見上げて、一瞬呆けた顔をしたあと、慌てて受話器を取り上げた。
「ユーグ!」
階段を降りてきたジェシカはユーグを認めて駆け寄ってきた。
「デニスから魔道具を受け取ったよ。ありがとう」
「どう? 使えそう?」
「ああ、便利だな。これがあると非常に助かる」
「本当? 良かった」
ジェシカはほっとしたように笑った。
彼女の笑顔にユーグも安心した。
こちらに来てから外に出るときは必ず変装していたから、玄関ホールを通る人たちがユーグの顔をちらちら見ていく状況は懐かしい。しかし、ユーグが素顔で登場したのに全く気づいていないジェシカは相変わらずだ。
「ジェシカ、後ろの彼らは?」
階段の手すりに隠れるようにして何人もこちらを見ている。
「え? あ! 同じ班の研究員なの」
ジェシカは追い払うように手を振った。
「ちょっと! 見世物じゃないわよ!」
「いいじゃないすか、紹介してくださいよ」
ぞろぞろと出てきた人たちにユーグは営業用の笑顔で挨拶した。
「はじめまして。ジェシカの配偶者のユーグと申します」
彼らは口々に挨拶してから、ため息をついたりぼーっと見つめたりとさまざまだ。そのうちの一人が「ジェシカさん、お相手めっちゃ美人さんじゃないすか。聞いてないっすよ」と言っているあたり、魔力の相性しか考えない魔術師はやはりジェシカくらいなのだろう。
「仕事が終わったなら一緒に帰ろう」
「ええ」
手を差し出すと、ジェシカは躊躇した。
それが気に入らなくて、ユーグはジェシカを抱き上げる。
「え、待って。久しぶりだから……」
「ダメだ。離さない」
「そんな……」
真っ赤になるジェシカの耳元に「声はなるべく我慢して」と囁くと、彼女はこくこくとうなずいた。
「肩こりが……、あ、頭痛も楽に……」
馬車までのそれほど長くない距離、ユーグの肩に顔をうずめたジェシカに吐息のように零されて、逆襲を受けたのはユーグの方だった。