ずっと見守って(1)
「哲っ!」
名前を呼びながら勢いよく更衣室兼ロッカールームのドアを開け放つ。
体育の授業が終わってまったりと着替えていた男子連中の視線が一斉に入口に注がれた。
運動関係諸々は常に見学でここで一緒に着替えたことすらないから、だろうか。よほど驚かせてしまったらしい。
一部やたらギョッとして見てくる者や、顔を赤らめて短く悲鳴をあげる者、肋の浮いた体やトランクスをそそくさと隠している者など、それぞれの挙動は実に様々なものだった。
おまえら同性(仮)相手にその反応はどうなんだ?とも思ったが、いちいち気にしてなどいられない。今はそれどころではないのだ。
「んあ?」と気の抜けたような返事が奥の方から聞こえた。
ロッカーの陰からひょっこり顔を出す哲哉を見つけ、足の痛みを堪えながら一直線に目指す。
「おま――こんな所まで入ってくんなよ……。外で待ってりゃいいじゃん。目に毒だろ」
「は? なんで?」
「い……いや、まあ、別に。あ、ほら、みんなビックリしちゃってる……し?」
ひ弱で女くさい野郎にハダカを見られて恥ずかしい、とでも言いたいのだろうか。
なぜか目を泳がせながらしどろもどろになっている哲哉に「何言ってんだ?」としか思えないし、それはそれでずいぶんと失礼な話だ。
「それより電話……け、携帯! 貸してくれ! 哲哉の」
「ん? 事務室前のは?」
「いいから……! 頼む! うちの番号登録してたよな?」
とにかく一刻も早く柾貴に確認しなければならないことがあるのだ。できれば人目につかないところで。
そう……。
兄妹がどうとか言い伝えがどうとか、ワケのわからない感情に振り回されている場合ではない。
無理やり雑念を振り払い、そう気付いた時には、とるべき行動は決まっていた。
何よりも今はまず柾貴と話さなければ――――
その一心だった。
「そんなに……何か親父さんに急ぎの用か? もうすぐ六時間目始まるぞ?」
いいけど、と言いながら哲哉がロック解除したスマホを手渡してくれる。
「ってか、おまえ…………足、大丈夫かよ? ひどくなってねえ?」
「ちょっと走っちまっただけ。んじゃちょっと借りる! サンキュ!」
「はあ? 何やってんだよケガ人が……」
哲哉の心配を適当にあしらい、急いで更衣室を後にする。
いくらなんでもここで気軽に電話するわけにはいかない。
人がいないところ、といったらどこだろうか……?
逸る気持ちを抑え、無人の場所を求めて睦月は痛む足を無理やり奮い立たせた。
ここまで来ればさすがに人はいないだろう。
内心そう独りごちて、それでも周囲への警戒を怠らず屋外倉庫の扉に指をかける。
六限開始のチャイムはとっくに鳴り終わっていたが、今はまったくと言っていいほど気にならなかった。
本当は、もう一度屋上に?という案もちらついた。……のだが。
さすがにもう姿を消しているだろうが、万が一ということもある。再び彼らに出くわすような危険は冒したくなかったし、今はこの足にさらに負担をかけることも避けたかった。
思ったとおり、土嚢やシャベルなど雑多な用具が置かれただけの狭く暗い空間に人の気配はない。
土や何か別なものが入り混じったような不快な匂いに一瞬だけ顔をしかめたものの、するりと身を滑り込ませ、そのままホッと息をつく間もなくスマホをタップした。
電話に出てくれるのを今か今かと待ち望むものの、耳元では単調なコール音が鳴り続けるのみ――。
新しく便利なものをとにかく好まない柾貴の意向で、電話機も古いタイプのものだ。
生徒募集にも特に影響はないようだし、睦月自身も困ることがないのでずっとそのままできた。
留守録設定はしていないしナンバーディスプレイの機能など付いているはずもない。もっとも今は、そんなものがあっても意味はないのだが……。
とにかく直接話して問いただし、そして確かめたかった。
何かしてるとか……もしかしたら道場の方にでもいるのだろうか?
無情なコール音が十回を超えたあたりで、知らず微かなため息がこぼれていた。
(でも――これでよかった……のかも)
実のところ何をどう切り出そうかなどと、はっきり思い描いていたわけではないのだから。
衝撃と混乱の入り混じったこの状態で、むしろ何を話そうとしていたのだ自分は?
――オレの父親じゃないって本当か?
そう訊いたとして…………そして?
もしかしたら、さすがに観念して今度こそいろいろ打ち明けてくれるかもしれない。
実の父親のこととか出生にかかわる秘密、新たに語られる何かがあったり……もするかも。
でも、その後は……?
(オレは……オレたちは、どうなる……?)
行きついて触れてしまった感情に、体中がじわじわと侵蝕されていく感覚。
くらりと視界がぶれ、指先が震えた。
スマホを取り落とさないように、震えを抑え込むように、あえて手指に力を込めて握り直す。
そう。これは「恐れ」。
信じてきた世界が突き崩され、新たな真実が見えそうになったとたん、身が竦んだ。
教えてくれないと拗ねまくり、何もかも明らかにしたいなどと豪語しておいて、何というザマだろうか。
不甲斐なさに、強く目を閉じ下唇を嚙みしめる。
終了ボタンをタップしようと下ろしかけたスマホが、ふつりとコール音を止めた。
『はい?』
聞き馴染んだ父親の声に思わず目を見開いていた。
『もしもし? 大谷ですが』
それだって違うくせに……。
留守電ないんだから一本一本の電話を、一人一人の新規さんを大事にしろ、とさんざん言ってきた甲斐あって、今ではこうして普通に電話も取れるようになった父親。
……今日はかなり出るのが遅かったが。帰ったら説教だな、これは。
心の中で悪態をつきながら、ゆらゆらと溜まってきていた涙がこぼれそうになっているのを自覚する。
本当の――もともとの姓は何というんだろう?
何も憶えてないフリなんかして、何やってんだよ。
どっから来たんだよ?
……本当は親子じゃないって、どういうことだよ。なあ、親父……?
聞きたい。ちゃんとこの相手から。
けれど、信じられないくらい何も言葉にならない。
これ以上世界が壊れたら、本当にどうしたらいいかわからない。
『……睦月か?』
「――!」
前触れなく言い当てられて心臓が大きく跳ね上がった。
が、応えることはできない。
今一言でも発したら自分のこんな状態が即座にバレてしまうだろうから。
なんで……わかったんだろう?
そう思ったら、堰を切ったように涙が次々こぼれてきた。
「……っ」
それ以上はもう無理だった。
しゃくり上げる声が拾われる前にあわてて通話を切る。
強くスマホを握り締めたまま、その場にしゃがみ込んで顔を伏せ……睦月は静かに泣き続けた。
どのくらい時間がたっただろうか。
思い切って泣けたからか、気分はだいぶ落ち着いていた。
そうだ。
どれだけ沈んでも嘆いても状況は変わらない。
帰ったら無言電話を謝って、今度こそきっちり事情を聞こう。
そのうえで話し合おう。
言い伝えとやらについて、何ができるのか。どうするべきなのか。
親子としての血は繋がっていなくとも大事に育ててくれたことに変わりはないのだし、「殺せ」と息巻いているという実の父親よりもよほど父親らしいではないか。
(そう……だよな)
自分の父親は、鬼つよで指導に入るととんでもなく厳しいが、普段は穏やかで物静かな、朝にめっぽう弱いあの大谷柾貴だ。
その事実は変わらない。
真っすぐに向き合える決心がついたところで、口元は自然に笑みを形作っていた。
泣いてしまったことがバレないよう、もう少しここで目やら頬やらを乾かしていこうか、などとも考えたが。今日は早退でも何でもして一刻も早く帰途につきたかった。
ワイシャツの袖で再度念入りに目元を拭って腰を上げかけた、その時。
「あっれえ? あれれれ?」
「珍しー。先客がいる」
「あ? マジかよ。誰だよ、うっぜえ」
建てつけの悪い扉をガタゴトと鳴らして、制服姿の男子三人が姿を現した。




