火焔(1)
瞬時に方向を変えつつわずかに腰を浮かせる。
いつでも飛び出せるように。また、逃げられるように。
頭で考えての行動ではない。
「稽古」「修行」によって染み付いてしまっている反応だ。
視界をかすめたのは黒……に見えた。
見間違いでなければ。
(嘘だろ、あいつらこんな日中でも来るのかよ? しかも周りにこんなに人がいる状態で……?)
これまでとは明らかに異なる状況に、睦月は戸惑いを隠せない。
背後のグラウンドでは変わらずのんびりとサッカーのミニ試合が行われている。
不審な影にも睦月のとっさの動きにも誰も気付いてはいないらしい。
そっと息をつくも、当然安堵してはいられなかった。
思い当たるのはあの黒ずくめの暗殺者たち。
追うべき……だろうか。
いや、むしろ逃げろと柾貴なら言うだろう。
けれど……。
(――まずは、確かめる)
迷いながらもすぐさま行動に移していた。
音もなく立ち上がり、身を翻して校舎脇へと向かう。
周囲に目をこらしながら、徐々に足早に。
やはりあんな物騒な奴らを学校で野放しにしておくわけにはいかない。
思ったとおり彼らだったとしたら、せめてここから遠ざけないと……。
だけど――と、痛む足首と軽い混乱に思わず眉根をよせる。
ありえないとどこかで感じている自分もいるのだ。
彼らは夜しか動かない、と柾貴は言っていたのではなかったか? 誰かがいれば大丈夫、とも。
それはつまり、人目に付きにくい闇を利用しての暗殺ならまだしも、こんな白昼堂々と襲ってはこないと確信していた……ということではないのか。
それらすべてが聞きまちがいや思い違いではないなら、の話だが。
ではこれは、いったいどういう状況だろう。
襲撃が目的ではない、とか?
……自分を殺しにきたわけではないとしたら?
もし本当にそうではないと、するならば――
もしかして、という思考が一瞬である可能性に行き着いた。
(じゃ、まさか…………あれは)
その心の内や葛藤など知るべくもないが、どういうわけか昨夜も結局はとどめを刺さなかった――それどころかまたもや結果的には助けてくれたも同然の、あの……「龍」と名乗った青年なのでは?
「――」
知らず、走り出していた。
ケガを庇いながらなため、思うようにスピードを出せない。
地面を蹴りあげる度に足首が悲鳴をあげるが、頓着などしていられなかった。
そうして息を切らせて回り込んだ東棟裏に、すでに人影はなかった。
ぐるりと見渡してみても、背後は高い塀に囲まれているだけで身を潜められるような場所や障害物は何もない。
と、すると……。
(上、に?)
ハッとしてすぐ目の前の非常階段を見上げる。
視線から逃れるように、またもや黒い影が三階あたりで動いて消えた。
あのまま最上部まで上っても施錠されていて屋上へは行き着けないはず――
追い付き、足止めするならここだ、とばかりに意を決して自身も非常階段を上り始める。
足首の痛みがヤバいくらいに増していた。
無理をしすぎたのだ。わかっている。
(でも……)
あれが――あの人影が、龍なら。
と歯を食いしばって痛みに耐えながら上を目指す。
もしかしたら今度こそ話してくれるかもしれない。
あの三人の兄弟に比べたら……彼なら。
そして自分を殺しにきたのではないのなら。
聞きたい。
知りたいのだ。自身にかかわるすべてを。
(今日こそは何もかも……!)
――が。
片足を引きずって追いかけながら、ふいに、言い様のない違和感が浮かび上がる。
ただでさえ落ちている速度をさらに緩めることはしなかったが。
そう。
その速度が――先を行く人物の速さが、決定的に違うのだ。
龍とも、他の黒ずくめ三人とも。
(遅い……?)
いや、普通の人間としてなら間違いなく速い部類には入るのだろう。が。
少なくとも自分や柾貴の敵にはならない。スピードだけなら、そして万全な状態なら。
だからこそこんなケガを負っていてもなんとか後を追えている、ということなのだろうが。
では――――あれは誰だ?
新たに放たれた刺客とか?と困惑の色を滲ませながらも、先を行く気配を睨みつける。
いや。それとも単に、わざと速度を落として追い付かせようとでもしているのだろうか? 何かを狙って……。
そうだ。この状況すべてが何かの罠……という可能性も――
(いや。だとしても……)
ここでビビって引き返すくらいなら最初から追ってきてなどいない。
不甲斐なく怠けそうになっていた思考と足を叱咤しつつ、目前の不審者を目指す。
そうして。
ようやくたどり着いた非常階段の最上部。
そこに人影はなく、本来閉めきられているはずの扉が少し開いていた。
肩で息をしながら、睦月はガクガクになった膝をいったん強く支える。
足首の捻挫ひとつで、全身にかかる負担と疲労感が倍どころの騒ぎではなかった。無駄な労力以外の何ものでもない。
屋上への扉を睨みつけながら、つくづく健康って大事だよなまったく、とあらためて実感する。
「……」
足元には、ひしゃげた小ぶりの南京錠と鋼のリンクチェーンが絡み合うように落ちていた。
件の不審者は力ずくで屋上に押し入ったらしい。
……どうやったのか、はわからないが。
スピードはそれほどでもないが怪力の持ち主、と見るべきか。
この先に待ち受けているかもしれない相手に警戒を怠ることなく、扉を押し開けて一歩踏み入る。
「何故、追ってきた?」
姿を見つけるより早く、突如あびせられた硬質な女の声。
弾かれたように振り向くと、声と同様、固い表情をした女がひとり高架水槽の陰から現れた。
(女……)
意外さに思わず目を瞠っていた。
が、すぐさま気を引き締める。
両者の距離は十メートルほど。相手が女だからと、むやみにとびかかったりはしない。たとえケガをしていなかったとしても、だ。
「は……ふざけんなよ? そりゃこっちのセリフだ。陰でコソコソ人を付け回しやがって」
背後のドアを意識し最大限の警戒モードを緩めぬまま、睦月は極力ソフトに毒づいてみせる。
まずは状況把握。観察して相手の力と目的を見極めるために。
女が纏うのはあの暗殺者たちと同じような形状の黒装束。
――いや、よく見ると黒ではなく濃紺だった。
ひょっとして先に現れた彼らもそうだったのだろうか? 夜目と「刺客」という先入観でてっきり黒だと思い込んでいただけで……。
どちらにせよ今目の前にいる女も、あの龍と同様、頭部はすべてさらけ出していた。
美しいが冷たさを感じさせる切れ長の目に、赤い唇。長い髪を後ろの高い位置で縛り、身長は睦月よりやや高そうに見える。
「あんた……誰だ? ワケわかってて喋ってくれるやつか?」
服装とこの状況からして彼らの仲間なのは間違いない、はず。
彼女も家督相続争いに参戦している……とかだろうか? 四兄弟の姉妹とか?
「話せるけどワケわかってねえヤツとか、何か知ってそうなのに口開きそうにねえヤツとか、何でもかんでもとにかく秘密にしたがるヤツとかばっかでよ……。実はもうめっっっちゃ頭キてんだ、オレ。だから頼むぜ」
半分八つ当たりのような睦月の言葉を、女は冷たい表情のまま微動だにせず聞いている。
「なあ、教えろよ。なんでオレが狙われなきゃなんねーんだ? あんたらみんな、誰なんだよ? オレは……何なんだ?」
沈黙がやけに長く感じられた。
それは明らかに気が急いている自分のせい。それはわかるのだが。
この女もか……。
ダメだ。こいつも貝のように口を閉ざすあのパターンか、と苛立ちとあきらめの気持ちがよぎる。
握り込んだこぶしに力を込め、下唇を噛んだ、その時。
「そなたは――我らの敵」
静かだがこの上なくはっきりと、女が言い切った。
「だから……何っっだそれ……? 全っっ然、心当たりねーんだけどマジで。マジで!」
頼むから理由を言え、理由を!と続けようとした懇願は、しかし――一言も発せないまま掻き消えた。
信じがたいシーンに、そのまま目は釘付けになる。
無表情のまま、女がおもむろに持ち上げてみせた片手。
胸の位置で開かれた手のひらの上で、何かが――――ほのかに色付き始めた空気が揺らめいている。
ゆらゆらと陽炎のようなあれは……一体――
(あれは……火?)
何もないところから、どうやって――?
息をのんで一歩だけ後ずさっていたことに、足首に激痛が走って初めて気付く。
ありえない光景に目を見開くことしかできない睦月の前で、完全に色付いた炎は不気味に色鮮やかに渦巻きながらいっそう大きく燃え上がった。




