9話 雨音
暴力表現あり
その日は、雨が降っていた。
二色家玄関前
あの日から、晶とは別々で帰っている。
玄関の鍵を開ける手が震えた。
「ただいま戻りました」
リビングからテレビの音。
ソファに座った母親が振り返りもせずに言った。
「今日の模試、何点だった」
靴を揃えて脱ぎながら「496点です」
2問のケアレスミスだった。完璧を求められる世界では、それは0点と同義だった。
母がリモコンをガラスのテーブルに叩きつけると、ヒビが入って破片が床に落ちた。
「4点も足りない。何があったの?不良なんかと連むからよ。ねえ、あんたのせいで私のお気に入りのテーブルが割れちゃったじゃないどうしてくれるの?」
「時間配分を.....間違えました」
立ち上がって頬を引っ張る
「言い訳はいいの。結果だけ聞いてるのよ」
頬を張られた体がよろめくと、反対の頬を叩かれた
「もうすぐ受験なの分かってる?たかが模試で満点も取れないようなクズが、医学部に受かると思ってるの?」
医学部。親が勝手に敷いたレールの終着点。晴自身の意思など一度も確認されていなかった。
叩かれた頬に手も当てず、ただ頭を下げた
「すみません。次は必ず」
「次?次なんてないの。今日できなかったゴミに明日があると思ってる?」
二発目が飛んだ、よろけて壁に肩をぶつけて肩をさする
「被害者ヅラするのはやめなさい」
そう言われて手を下ろし、土下座した。
「申し訳ありませんでした」
今日の母は、とにかく機嫌が悪かった。
わざわざ手袋をつけて来て、さっき欠けたガラスの破片を僕の目に近づける。
「満点取る気がないのなら、殺すわよ」
そこに、殺意はない。僕はストレス発散の道具だった。
でも、怖がるふりをした。
いや、怖がるふりをするふりだった。
本当はとても怖い、殺す気がないということは終わりがないということだ。
今日は何時まで続くだろう。
無数の切り傷が、意味もなくつけられる。
痛みよりも虚無が勝った。
これも嘘だ、本当はとても痛い。
ガタガタのガラスを動かされると、皮膚がびりびりと引き裂かれる。
一つ一つの傷が絶叫して主張している。痛い苦しい死にたい
───流されたい。
何時間、罵倒を浴びせられ、切りつけられただろう
ようやく飽きたのか、開放される。
「晩ご飯は抜き。部屋で勉強しなさい」
それだけ言って、母は再びテレビに目を向けた。まるで何もなかったかのように。
無言で階段を上がる。自室のドアを閉めた瞬間、膝から崩れ落ちた。暗い部屋の中でしばらく動けなかった。
震える手でスマホを取り出す。連絡先を開いて
───「こんばんは、今何してますか」とだけ送った。
迷惑をかけたくない、という理性がかろうじて働いて、他愛もない質問を投げかけた。
代わりにノートを開き、ペンを持った。
傷口が疼いたまま、次の模試の範囲を黙々と暗記し始める。
深夜2時。家中が寝静まった頃、ようやく晴はペンを置いた
雨が降っている。
雨音だけの世界。何もかもを洗い流してくれる音。
机の引き出しからカッターナイフが覗いている。
晶を思い出して、目を逸らした。二人で一緒に...そう約束したから。けれど、もう、今が限界のような気がした。
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「...いつか、ほんとにもう無理って、限界が来たらさ...
一緒に流されて、くれない?」
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鮮明に思い出したその声が胸に響いて、静かに涙がこぼれ落ちた。一粒落ちた途端とめどなく落ちる。豪雨のように。
雨に打たれたい。外に出たい。けれどそんな勇気もない。
代わりにカーテンを少し開けて、雨を眺めた
晶『家の外にいる....抜け出せる?無理は言わない』
スマホの通知に目を見開いた。指先が震える。
「家の外にいる」その一文が理解できなかった。
時刻は午前2時を過ぎている。
窓から外を見下ろした。雨の中、傘もささずに立っている人影が見えた。
晶『...今、流されたい気分』
それを見て、涙が溢れた。もうこれ以上溢れられないくらい。本心かは分からない。あの文面から何かを察して、気を使ってくれたのかもしれない。
───でも、
あの約束。屋上での言葉。冗談じゃなかった。本当に来てくれた。
ワイシャツの上にブレザーを羽織った。
音を立てないように玄関を開け、裸足のまま雨の中へ飛び出し、抱きしめる。
冷たい雨と晶の体温が同時に伝わってきた。声をあげて泣いた。
全部、雨音がかき消してくれた。
───平穏な日常は嵐の前触れだ。
と言ったが、雨が好きな二人にとって嵐とは悪いものではない。
だって今、こんなにも暖かい。
9話を読んでいただきありがとうございます。




