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忽雨  作者: ゆきのひ
一章 日々
9/26

9話 雨音

暴力表現あり

 その日は、雨が降っていた。


 二色家玄関前

 あの日から、晶とは別々で帰っている。

 玄関の鍵を開ける手が震えた。

「ただいま戻りました」


 リビングからテレビの音。

 ソファに座った母親が振り返りもせずに言った。

「今日の模試、何点だった」

 靴を揃えて脱ぎながら「496点です」

 2問のケアレスミスだった。完璧を求められる世界では、それは0点と同義だった。


 母がリモコンをガラスのテーブルに叩きつけると、ヒビが入って破片が床に落ちた。

「4点も足りない。何があったの?不良なんかと連むからよ。ねえ、あんたのせいで私のお気に入りのテーブルが割れちゃったじゃないどうしてくれるの?」


「時間配分を.....間違えました」


 立ち上がって頬を引っ張る

「言い訳はいいの。結果だけ聞いてるのよ」


 頬を張られた体がよろめくと、反対の頬を叩かれた

「もうすぐ受験なの分かってる?たかが模試で満点も取れないようなクズが、医学部に受かると思ってるの?」

 医学部。親が勝手に敷いたレールの終着点。晴自身の意思など一度も確認されていなかった。


 叩かれた頬に手も当てず、ただ頭を下げた

「すみません。次は必ず」


「次?次なんてないの。今日できなかったゴミに明日があると思ってる?」


 二発目が飛んだ、よろけて壁に肩をぶつけて肩をさする

「被害者ヅラするのはやめなさい」

 そう言われて手を下ろし、土下座した。

「申し訳ありませんでした」


 今日の母は、とにかく機嫌が悪かった。

 わざわざ手袋をつけて来て、さっき欠けたガラスの破片を僕の目に近づける。


「満点取る気がないのなら、殺すわよ」

 そこに、殺意はない。僕はストレス発散の道具だった。


 でも、怖がるふりをした。

 いや、怖がるふりをするふりだった。

 本当はとても怖い、殺す気がないということは終わりがないということだ。

 今日は何時まで続くだろう。


 無数の切り傷が、意味もなくつけられる。

 痛みよりも虚無が勝った。

 これも嘘だ、本当はとても痛い。

 ガタガタのガラスを動かされると、皮膚がびりびりと引き裂かれる。

 一つ一つの傷が絶叫して主張している。痛い苦しい死にたい


 ───流されたい。


 何時間、罵倒を浴びせられ、切りつけられただろう

 ようやく飽きたのか、開放される。

「晩ご飯は抜き。部屋で勉強しなさい」

 それだけ言って、母は再びテレビに目を向けた。まるで何もなかったかのように。


 無言で階段を上がる。自室のドアを閉めた瞬間、膝から崩れ落ちた。暗い部屋の中でしばらく動けなかった。

 震える手でスマホを取り出す。連絡先を開いて

 ───「こんばんは、今何してますか」とだけ送った。

 迷惑をかけたくない、という理性がかろうじて働いて、他愛もない質問を投げかけた。


 代わりにノートを開き、ペンを持った。

 傷口が疼いたまま、次の模試の範囲を黙々と暗記し始める。


 深夜2時。家中が寝静まった頃、ようやく晴はペンを置いた


 雨が降っている。

 雨音だけの世界。何もかもを洗い流してくれる音。

 机の引き出しからカッターナイフが覗いている。

 晶を思い出して、目を逸らした。二人で一緒に...そう約束したから。けれど、もう、今が限界のような気がした。


 ────────────

「...いつか、ほんとにもう無理って、限界が来たらさ...

 一緒に流されて、くれない?」

 ────────────


 鮮明に思い出したその声が胸に響いて、静かに涙がこぼれ落ちた。一粒落ちた途端とめどなく落ちる。豪雨のように。

 雨に打たれたい。外に出たい。けれどそんな勇気もない。

 代わりにカーテンを少し開けて、雨を眺めた


 晶『家の外にいる....抜け出せる?無理は言わない』


 スマホの通知に目を見開いた。指先が震える。

「家の外にいる」その一文が理解できなかった。

 時刻は午前2時を過ぎている。


 窓から外を見下ろした。雨の中、傘もささずに立っている人影が見えた。


 晶『...今、流されたい気分』


 それを見て、涙が溢れた。もうこれ以上溢れられないくらい。本心かは分からない。あの文面から何かを察して、気を使ってくれたのかもしれない。


 ───でも、


 あの約束。屋上での言葉。冗談じゃなかった。本当に来てくれた。


 ワイシャツの上にブレザーを羽織った。

 音を立てないように玄関を開け、裸足のまま雨の中へ飛び出し、抱きしめる。

 冷たい雨と晶の体温が同時に伝わってきた。声をあげて泣いた。

 全部、雨音がかき消してくれた。


 ───平穏な日常は嵐の前触れだ。

 と言ったが、雨が好きな二人にとって嵐とは悪いものではない。


 だって今、こんなにも暖かい。

9話を読んでいただきありがとうございます。

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