3話 忽雨
忽雨-たちまち降る雨。
虐め表現を含む。
教師が熱血クズ。
翌朝。曇り空。湿った風が校門を吹き抜ける。
始業のチャイムまであと十分。晴はいつもと同じ時間に教室へ入る。左のこめかみに小さな絆創膏。ネクタイをきつく閉めているのは、首元の傷を隠すためだった。席について教科書を開く。
周囲の生徒たちがひそひそと笑っている。「あいつ昨日びしょ濡れで帰ってきたらしいよ」「きっも」「優等生サマが傘もささないとかウケる」
──聞こえていても表情は変えない
ちらりと隣の席を見る。まだ空席だった。
「ふぁあ...おはよう」
気だるげな声で晶が挨拶した。
その声を聞いた瞬間、昨日の記憶が一気に蘇る。
目が合った。
「おはよう」
たった一言の挨拶。けれど晴にとっては、この教室で誰かに自分から朝の言葉を返したのは初めてのことだった。「おう」と返してくれた事に安堵する。
───
一時間目、数学。担任でもある数学教師が教壇に立った。
「じゃあこの問題、二色ぃ!前に出て解いてみようかぁ!!」
黒板に書かれたのは大学入試レベルの微積分の問題だった。「せんせースパルタ〜」「公開処刑タイムきた!」と後ろの席からクスクスと笑い声が上がる。
晴は静かに立ち上がり、前に出る。チョークを持つ手は安定していた。すらすらと解き始めると、教室がざわついた。「は?解けんの?」「マジかよつまんね」ブーイングと舌打ちが聞こえる。晴の解答は完璧だった。
晶だけが「すげぇな」と感心していた。
しかし、晴にとってはそれだけで十分すぎた。
教師が不機嫌そうに鼻を鳴らす。
「こんくらい当たり前だろぉ。次が、とーっても重要な応用問題だぁ!!」
さらに難易度の高い問題が追加された。明らかに高校の範囲を逸脱している。解けなければ恥をかかせられる。解ければ調子に乗るなと言われる。どちらに転んでも晴を潰すための行為だ。
晴の手が止まった。四秒、六秒。クラス中の視線が突き刺さる。
「こんなんも解けないんじゃあ、生きてる価値ないなぁ。いっそ死んでみようかぁ!!」
教師の照りつけるような叱咤激励が、生徒を明るく焚き付けて、むせ返るようなドス黒い影を晴の背中に落とそうとしている......。
じりじりと、にじり寄る熱が気持ち悪くて、今にも、吐きそうだった。
「いいね先s──」「死〜n─」「死んじy───」
⚡︎┈┈┈「あー!!!俺、教科書忘れてた!!」┈┈┈⚡︎
──大きな雷鳴が邪魔をしてくれた。大きくて明るい晶の声。忽ち雨が降り注いで、空気を掻き乱す。そんな予感がした。
──誰だって誰かに命令されて死ぬのは嫌だろ。少なくとも晶自身はそう思う。死は、雨のように平然と降り注いで欲しい。忽雨のように、予測不可能に。だから俺は────
「おい、静かにしろぉ!!」
晶が起こした一瞬の天気の乱れで、教室の熱が少し緩む。晴に集中していた視線の何割かが晶へ逸れた。
「ごめんなさーい....晴くん教科書見せて〜」
何も考えていないような、透明で熱のない声で僕を呼ぶ。
教師は参った顔でため息をついた。突然の雨にでも降られたかのように。
「はぁ、見せてもらえ!」
と言い、虐めは中止となった。
晴は席に戻り、机を晶の方へ寄せた。
ノートの端に小さく書いた文字を見せる『ありがとう』
しかし、晶は「...なにが?」と笑った。少しだけ目が潤んでいたのは気のせいだろうか。晴は、静かに笑って首を振って、それ以上は書かなかった。
──────
授業終了のチャイムが鳴った瞬間
後ろから消しゴムのかすが飛んできて、晴の後頭部に当たった。
晶は、何も言わずにさっと払う。
投げたのは後方の男子だ、にやにやと笑いながら隣と肘を突き合っている。
「おっ、騎士様じゃん。二色のお守りご苦労さん」
周りからドッと笑いが起きた。
晶まで巻き込まれる空気が広がる。
「ありがと〜」晶はニコッと笑いかけた。
一瞬たじろぐ。煽りが通じていない。
「は?お前何笑ってんの」
教室の空気が微妙にねじれた。晶の間の抜けた反応に毒気を抜かれた者と、苛立つ者が半々だった。
「労わってくれたから」とキラキラの笑顔を向ける。
その笑顔で、ほぼ全員が毒気を抜かれていく。雨のように、晶の笑顔が毒を洗い流していった。
生徒は舌打ちして椅子にもたれた。「つまんな」と、興味を失ったようにスマホをいじり始めた。思うような反応が返ってこなくて、興味を失ったようだった。
晴は、隣でその一部始終を見ていた。信じられないという目で。
気づいた。晶は雨なのだ。どんな熱をも冷ましてくれる、暖かく降り注ぐ雨。
休み時間の喧騒が戻る。先程の生徒達は別の話題で盛り上がり、もう二人には見向きもしない。
束の間の平穏だった。
晴が机に目を落としたまま、消え入りそうな声で言う。
「僕のこと庇ったら......晶さんまで標的になるよ」
「庇ってないよ、別に」
そう言った晶の声色は、とても純粋で、
思わず「え、」と顔を上げた。
庇ったわけじゃない。本気でそう言っている晶の横顔には、気負いも無理もなかった。
その瞳の奥にある冷たいものを知りたくて、しばらく見つめていた。
┈┈┈┈┈キラキラと透明に輝く雨粒のような貴方は、冷たくて泣きそうなほど暖かい。
「....なんか顔についてる?」
┈┈けれど、降り注いだあとは、何事も無かったかのように潔く止んでしまう。
┈忽雨のように、澄み渡った空気だけを残して。
はっとして前を向く「ついてない...」
突然の雨との別れを惜しむように、そう呟いた。
貴方の瞳が、何故かとても儚いものに見えたから。
──────
忽ち、二限目のチャイムが鳴った
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