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忽雨  作者: ゆきのひ
一章 日々
2/26

2話 産声

二色晴 4月2日 生まれ

柊木晶 1月24日 生まれ


一部、暴力表現を含む。

「.....この屋上が、こんなにあったかいの初めてかも」

 と、自分で言って恥ずかしくなったのか、晴は視線を足元に落とした。


「んー、あったかいね〜」晶がどこか上の空で応える。


 雲間から差し込む夕日がニ人を照らしている。向こうに見える空が、紫と橙のグラデーションをつくり始めた、夜と夕暮れが溶け合おうとしているように。


「.....晶さん、風邪ひくよ」


 さっき自分が言われた言葉をそのまま返して、顔を覗き込む。赤い。夕日のせいだと言い訳ができないくらいに、晶の顔が赤い。


「うん...ひいちゃったかも〜」


 晶の体がぐらりと傾いた。雨と冷気で体温を奪われた身体は限界だったらしく、そのまま晴の方へと倒れ込む。


「わっ......!」

 咄嗟に受け止める。が、二人一緒によろけた。

「だ、大丈夫......?晶さん?」


 腕の中でぐったりしている晶を支えながら、おろおろと辺りを見回す。保健室。いや、まずは下に降りないと。でも自分が抱えて運べるのか...


「...ご、めん。自分で歩ける」晶が離れようとした。

 支えたまま首を横に振る「無理しないで。足、震えてる」

 この様子だと、元々体調が悪かったのだろうか。

 晴自身、体力に自信があるわけではない。けれど今この瞬間だけは、そんなことを気にしていられなかった。晶の冷えきった手に触れた時、その温度の低さに息が止まりそうになったのだ。


 晶に肩を貸して立ち上がらせようとする。身長差は晶の方が1cm程高いだけだが、支える腕が細かく震える。


「保健室、行こう。」


「うん、ごめん」


「謝らないで、大丈夫」晴が小さく言った。


 二人はゆっくりと屋上を後にした。薄暗い階段を一段ずつ降りていく。晴が晶を支える姿は危なっかしかったが、その足取りにはどこか必死さがあった。放課後の校舎は静まり返っていて、二人の足音だけが響く。


 保健室の前に着いたが、扉には不在の札がかかっていた。晴は札を見て唇を噛む。少し考えて、すぐ側にある自分達の教室へ晶を連れて行くことにした。



 ───



 誰もいない教室。


 自分の椅子を引いて晶を座らせた。

「ちょっと待ってて」

 そう言って、晴は教室を出て、どこかへ走っていった。

 しばらくして戻ってきた晴の手には、未開封のホットレモンのペットボトルと、体育の時間に使うタオルが二枚。ホットレモンを晶の手に渡す。


「あ、ありがとう...すごい...あったかい」


 嬉しそうにそう言われて、ほっとしたように息をついた。

 よかった....晶の濡れた前髪をタオルで拭く。ふと手を止めて、晶のことをじっと見つめた。


 窓の外はすっかり暗くなり始めている。校庭の照明が自動で点いて、白色の光が教室に差し込んだ。


「.....自分から、誰かに何かしてあげたの初めてだ」


「はじめて、...もらっちゃった♥」


 風邪で息が上がりつつ、ふざけた調子で晶はそう言った。

 顔が一瞬で真っ赤になる。タオルに顔を埋めて隠した。

「もう、ふざけないで」

 耳の先まで赤い。栗色の髪の隙間から覗くそれは、もう誤魔化しようがなかった。


「ねぇ...体も、拭こう?」


 今度はやけに真面目なトーンで晶が言う。

 タオルから顔を上げて固まる。


「え......あ、うん」


 晴はタオルを一枚、おずおずと晶に差し出した。自分が拭くという発想には至らなかったらしい。

 視線の置き場に困って、黒板の方を見ている。


「僕......後ろ向いてたほうがいい?」


「拭いて...くれないの?」


 甘えるような晶の声に完全にフリーズし、もはや、瞬きすら忘れた。

 数秒の沈黙、壁掛け時計の秒針だけがカチカチと音を刻んでいた。


 ようやく再起動して、ぎこちなくタオルを受け取る。

「わ、わかった......」そう言った手は、震えていた。

 晶の前に立つが、どこから手をつけていいか分からず、タオルを握ったまま棒立ちしている。

「俺も拭く...」そう言って、晴のボタンに手をかけた。


 ──はらり、と


 ワイシャツがはだけ、胸まで白い肌が露わになる。

 そこだけでも、無数の傷跡があった。古いものから比較的新しいものまで。切り傷、打撲痕、煙草の火を押し付けたような丸い痕。

 晴は反射的に腕で体を隠した。


「っ見ないで!!!」


 さっきまでの丁寧な口調が消えて、鋭い声だった。初めて見せる拒絶。顔から血の気が引いている。


「冷えてる...拭く」と晶が言った。


 傷を見られた恥ずかしさと恐怖で、身体を強張らせていた。罵倒が来ると思っていたから。「気持ち悪い」と軽蔑する顔で言われると覚悟していたから。なのに晶の表情はピクリとも動かず、冷えているとだけ言って、ただ冷えた体を温めようとしている。


 腕の力が少しずつ抜けていき、ボタンが外されていく。

「.....なんで」掠れた声で晴が言った。

 目の奥にまた光るものが浮かんでくる。


「なにが....」と晶は不思議そうに言う。


「こんなの見たら......普通、気持ち悪いって.......」

 タオルが傷をなぞるたびに、晴は小さく身を震わせた。痛みではない。触れられること自体に慣れていない体が勝手に反応していた。


「普通...が、わかんない」と、晶が呟いた。



 ──ぽたり

 雫が床に落ちた。



 その言葉が晴の胸の奥深くに落ちて、波紋を広げていく。


 その波によって、晴の中の何かが決壊した。

「普通」という枠に自分を押し込み続けてきた十八年間。

 皆の言う普通の親、親の言う普通の成績、学校の言う普通の優等生。そのどれも持っていない自分は欠陥品だと、ずっとそう思って生きてきた。涙を止められなくて、声を殺して泣く。人前では泣かないという晴のルールが、完全に崩壊した。


「ごめん......ごめんなさい......」


 何に対して謝っているのか自分でも分かっていない。ただ溢れ出てくるものを制御できなかった。


「…?よしよし」


 晶は困惑して、でも、すぐに抱きしめた。

 膝から崩れ落ちて晶にもたれかかる。


「う....あぁ......」


 嗚咽が漏れる。もう抑えられなかった。

 それは、世間の普通、家族の普通、学校の普通、自分の思う普通から二色晴という生命が解き放たれた瞬間の、産声だった。


「よく、がんばったね。」


 そう言った晶の声色は赤子をあやすみたいに酷く優しい。優しく抱きしめ続けた。それは体を温める行為であり、同時に、癒す行為でもあった。晴も、抱きしめ返す。


 傷だらけの背に回された腕は細くて温かかった。誰もいない教室。時計の針が進む音と、泣き声だけが響いた。


 彼がこんなふうに泣いたのは、いつ以来だろう。もしかしたら、生まれて初めてかもしれなかった。シャツを濡らしながら、しがみつくように掴む。離れたら消えてしまうとでも言うように。



 ───



 しばらくそうしていた。どのくらい経ったのか分からない。やがて呼吸が少しずつ落ち着いていった。


 赤く腫れた目で見つめ、鼻声で言う。


「......ありがとう」

「こちらこそ、ありがとう」


 外はすっかり暗くなっていた。校舎の廊下は非常灯の緑色だけがぼんやり光っている。


 晶からそっと離れた。ワイシャツのボタンを止めながら

「.....帰らなきゃ」


 時刻はもう八時を過ぎていた。遅くなると親に何を言われるか分からない。


「うん」少しだけ寂しそうに晶が頷く。


 ボタンを留め終えて鞄を手に取り、ドアの前で立ち止まった。振り返った晴の目に、まだ赤みが残っていた。


「明日も......屋上、来る?」


「たぶんね。気分屋だから、ごめんね」と申し訳なさそうに晶が笑う。


「気分屋か.....じゃあ、僕も気分で行く」


 と小さく笑い返した。それは晴なりの精一杯の冗談で、口にした本人が一番驚いていた。自分も冗談を言えたのかと。


 ぺこりと頭を下げて、教室を出ていく。

 晶も真似て、ぺこりと頭を下げた。


 晴が去った教室は急に広くなったように感じられた。しばらく、ぼーっと過ごした。ふと、机の上に放置されていたホットレモンの存在を思い出す。触れると、まだほのかに暖かく、心地がいい。



 ──同じ頃。閑静な住宅街の一角。

 二色家の玄関が開いた。晴の母がリビングのソファに足を組んで座っている。息子の姿を見るなり、口を開く。


「九時前。随分と余裕ね、五百点満点のテストを控えた身で。」


 さっきまで暖かかったはずの全身が凍って、靴を脱ぐ手つきが機械的になった。


「ごめんなさい。勉強します」


 また、殴られる...。今日も明日も、この先もきっと...

 歩み出した廊下は、不気味なくらい冷たかった。

2話を読んで頂きありがとうございます。

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